叶うならもう一度【加納慎悟視点】


 俺が彼女を目で追い始めたのはいつ頃からだっただろう。


 初めて対面したであろうあの日、俺はエリカに憑依した笑さんから女子トイレの場所を聞かれた。それをエリカだと信じて疑わなかった俺は、なぜ今になってトイレの場所を聞くのか、しかも男に聞くことではないだろうとも思った。しかしあまりにも切羽詰まっている様子だったので場所を教えた。今思えばその時点でおかしかったが、事件が発生してひと月後だった。刺激しないようにそっとしておく事にしたのだ。


 その後すぐにインドア気質のエリカが急にバレーを始めた。更にそのひと月後にはあんなに交友関係を結ぶことを渋っていたエリカに友人が出来ていた。昼食を友人ととっている姿を目撃した時、廊下を談笑しながら歩いている姿を見かけた時、俺は自分の目を疑ったものだ。

 急にどうしたんだあいつ。死にそうな目に遭ったことで心境が変わったのか? 友人を作ることは悪いことではない、むしろいいことだ。だが、馴染みのないバレーなんて絶対に、エリカがパンクして潰れるのが目に見えていた。なんたって英学院のバレー部はそれなりに強い。それに事件被害者の女子高生のためにバレーをするというのはどうかと思う。ただの自己満足じゃないか。

 エリカが身も心もボコボコになって挫折してしまう前に止めようとしたら、あいつは怒り出した。俺はどうやら相手の闘志に火を点けてしまったらしい。…彼女は諦めることなく、バレーに没頭していったのだ。



 観に来いと言われて観戦に行ったクラスマッチの試合。コートの中で軽々と飛んで、相手コートにボールを叩きつけるその姿を見た俺はひどく驚いた。なぜならエリカが輝いて見えたから。ボールに臆すること無く、慣れた手付きでボールを操るその姿は目立っていた。真剣な表情でプレイするその姿から目を離せなかったんだ。

 バレー部に入部してからの短期間でここまで出来るようになったのかと感心した。エリカが本気なのだとわかった俺は、あいつを見守ることにした。バレーボールをすることで気が済むなら、思う存分させてやろうと思ったんだ。

 …クラスマッチ終了後、クラスメイトに明るく声を掛けて、校舎に戻っていくあいつの後ろ姿を見て……何処か引っかかった。事件の影響とはいえ、本来の性格が一向に出てこない事に気づいたのだ。二重人格になってしまったのではと思っていたのだが、判断するには早すぎるので、もうしばらく観察することにした。



 短期間で彼女を取り巻く環境は急激に変化した。

 エリカが絶対にとらない行動をとるあの人に俺はいつも度肝を抜かれた。なんて女だと思ったのは一度ではない。

 多分彼女だって、未練のバレーボールを極めることしか考えていなかったのだと思う。だけど周りがそうはさせてくれなかった。元婚約者の宝生や、婚約破棄の原因である瑞沢が接触してきたり、後になってきてからエリカの評判を貶めた人物が続々現れたのだ。

 エリカは昔からボッチな性格で、人付き合いを嫌っていた。だが人から恨みを買うような事はしなかったはずだ。なのでわからなかった。あいつの足を引っ張ろうとしている人間の正体に俺は気づく事が出来なかった。


 まさかエリカに懸想する男と、エリカと同じく婚約者を奪われた女が嫌がらせ行為の隠れ蓑にしたとは…

 …エリカなら怖がって泣き寝入りして…下手したら登校拒否してしまうかもしれない。これ以上状況が悪化しないように俺が間に入ったのだが、その必要はなかった。なぜなら“エリカ”は迎撃姿勢を見せていたからだ。全く怖がる素振りも見せなかったのだ。

 もうその頃からこの“エリカ”はエリカじゃないと薄々気づいていた。


 瑞沢の件にしても、俺はあの女が宝生を狂言で誑かしているのではないかと疑ってきた。それが引き金となって、エリカの悪い噂が蔓延したのではないだろうかと考えていた。噂はすぐに捻じ曲げられる。誰かが一言悪意ある言葉を吐けば、それが噂となってどんどん広がっていく。

 しかし、真実は違ったらしい…色々なことを知ってしまった笑さんは、主犯の上杉に殴りかかろうとしていた。

 俺は慌てて止めた。引きずって連れて行った場所で彼女が怒りに任せて自分の正体をばらしている姿を見て妙に納得したものだ。違う人間だったのか、それなら腑に落ちると。

 …エリカは逃げたのであろうか。婚約破棄に加え、目の前で起きた惨劇に耐えきれずに身体を捨て去って逃げたのであろうか。



 見ず知らずの環境に意図せず落とされた上に、事件の影響もあってきっと大変だったはずなのに、笑さんはエリカのために自ら色々な行動に出た。

 エリカが追い詰められるに至った経緯を知るなり、真っ向から立ち向かっていった。エリカの姿をした笑さんに向かってくる困難を堂々と迎え撃つ姿勢を見せたのだ

 中にはやりすぎだろうと突っ込みたくなる行動もあったが、笑さんのその短気な性格が、心無い嫌がらせ行為に追い詰められていた生徒を救ったのだ。

 いじめのターゲットが笑さんの友人へと変わり、その悪質さに彼女は激怒した。自分のことのように腹を立てて、いじめっ子に対して乱暴な振る舞いをしたのだ。

 それは決して褒められたことではない。しかしその勇気は評価に値すると思う。見て見ぬ振りをする人間が多い中で、実際に行動できる人間がどれほどいるであろうか? 

 彼女のやっていることは拙い。笑さんの人を見捨てられないその性格では苦労することも多いだろう。その正義感の所為で命を落としたのだから。

 だけど彼女のその行動で間違いなく、被害者を救ったのではないかと思う。幹は以前よりも明るくなって、いい影響を受けていると感じる。ついでの形ではあるが、笑さんに救われた幹はエリカの姿をした彼女を慕って、共に行動するようになった。


 その一件の流れで二階堂エリカを怒らせてはならないと脅威を抱かせることにも成功し、笑さんの友人たちに手出ししようとする生徒は現れなくなった。

 いじめ常習犯の玉井とは犬猿の仲になってしまったようだが、笑さんは適当にいなしていた。自分がやらかした事(玉井のスマホ破壊)も自分で落とし前を着けていたし、頭に血が上って騒動を起こした割には何処か冷静なんだよなあの人。

 笑さんによってエリカのイメージが悉く崩れていったが、それはエリカの選択したことだ。どうしようもない。それが嫌ならよくわからない相手に身体を明け渡さないことだ。

 


 あの人は強い。

 無惨に殺されても、笑さんの心だけは壊されなかったのだ。意志の強い彼女は、自身の体を喪ってもその輝きを失うことがなかった。

 愛するバレーのために、一度は喪った人生を力いっぱい楽しんでいた。文化祭の招待試合を観戦した際に、笑さんの弟と従兄から彼女の話を軽く聞かされた。

 笑さんが東洋の魔女に憧れて、小学生の頃からバレー一筋であったこと。本当に本当にバレーを愛していること。去年の大会で注目を受けて、スポーツ雑誌のインタビューを受けたこともあると自慢混じりに話された。

 事件直後のワイドショーで、笑さんはバレー選手として将来を嘱望されていたという事は知っていたが…才能なくしてそこまで上り詰めることは出来ないだろう。…夢中になれる、好きなものがある彼女が羨ましくて、同時に眩しく見えた。

 笑さんは今までの俺の人生の中で、周りにいなかったタイプだ。…世間ではああいうのを体育会系というのであろうか。笑さんは時折短気を起こすこともあるが、だからといって子供っぽいわけでもない。冷静な視点で物事を見極めることも出来る人だ。

 松戸笑を表現するなら「バレー馬鹿」で間違いない。元気でガサツで脳筋。自分の理想の女性像に掠りもしない。…それなのにだ。

 いつも太陽のように笑っているあの人は、エリカの身体を借りて自分の思うままに生きていた。エリカの顔で笑っているのに、それはエリカの笑顔ではなかった。…俺はその笑顔を目にする度に、心が落ち着かなくなっていた。



 学校のクリスマスパーティ当日、学校を休んで裁判に参加していたはずの笑さんがパーティに参加しているのを見かけて声をかけてみたが、その時もあの人はいつも通りであった。

 …エリカだったらどうだろう? 参加するにしても…きちんと発言できるのであろうか。いうなればエリカだってあの事件の被害者だ。俺には想像すら付かない程の恐怖を感じたはずだ。怖気づくのも当然のこと。

 殺害された笑さんは尚更のはずなのに、彼女は元気そうだった。…改めてこの人は強い人なのだと感じた。


 でも、それは俺の思い込みに過ぎなかった。事件から1年経過した後もあの惨劇の記憶に苦しんでいる事を知った。普段元気に振る舞っているあの人が泣き続ける姿を見た時に俺はショックを受けてしまった。

 俺の前で年上風を吹かせて、バレーのことしか考えていない、どんな悪意にも真正面からぶつかる肝の据わった彼女が苦しそうに泣いている姿を見てしまった時から、彼女の印象はガラリと変わった。

 


 あの人に好きな人がいたという話を聞かされた時、俺は何故かショックを受けた。死ぬ時に後悔していたから、告白して振られてスッキリしたと彼女の口から聞かされた俺は今までに味わったことの無い感情に襲われた。その感情の名も知らないまま、俺は彼女と同じ後悔をすることになる。


『…お礼、』


 笑さんは胸の痛みに喘ぎながら、俺へ必死に何かを伝えようとしていた。耳を近づけて彼女の声に耳を傾けた。

 掠れ声だったが、俺にはこう聞き取れた。


『ありが…とう、って…』


 それは笑さんの遺言だった。



 彼女は消えて、エリカが戻ってきた。いつか笑さんとの別れが来るとはわかっていたが、それはあまりにも急すぎた。俺はエリカの前だというのに、泣きそうになってしまったのだ。

 笑さんは事あるごとに、自分が成仏した後の事を話してはエリカの心配をしていた。そしてエリカの助けになってやってくれと俺に頼むのだ。

 彼女の口からそんな言葉を聞きたくなかった。わかっているんだ。彼女がこの世にいる事自体がおかしいのだと。エリカが戻ってきて、それで正常に戻るのだと。そんな事はわかっているんだ。

 だけど俺は何も伝えきれていない。もう二度と会えないあんたには好きという言葉すら伝えられない。

 失って初めて気づいたこの気持ちを俺は処理しきれなかった。学校に行っても、もう笑さんはいない。だけど彼女がいなくとも時間は流れて行く。世界は常に変化していく。

 俺はそこに取り残されるわけにはいかないのだ。


『あいつは人のことをよく見てくれてるよ。中身までちゃんと見てくれる。さり気なく助けてくれる優しいところがある。…私はあいつのそんな所を気に入ってるんだよ』


 …人に舐められないように気を張っていると、陰でいけ好かないと言われることがあった俺をそう評した笑さん。

 今まで他人や身内から褒め称えられることは沢山あった。勉学なり、素行なり、親のこと、会社のこと、はたまた容姿のことなど。

 俺は褒められて当然の努力をしてきた。家のため、会社のため、そしてなによりも自分のために。だからその言葉を素直に受け取ってきた。同時にその評価に甘えて、怠けてはいけないと叱咤してきた。


 なのに、あの人に言われた言葉は妙にむず痒くて…嬉しかった。…何なんだあの人は。人前で恥ずかしくないのか。

 あの人はバレーしか取り柄がないと自称しているが、彼女が気づいていない長所が沢山あった。…きっと俺もまだ気づけていない彼女の事が沢山あるはずだ。

 好みでもなんでもないあの人に惹かれたのは理屈じゃない。…きっと自分の理想の女性像にピッタリの女性は他にいるはずだ。打算で考えるならば、それに相応しい女性を相手にするべきだとは頭ではわかっていた。 

 …だけど俺が好きになったのはバレー馬鹿でお人好し、明るく笑う笑さんだった。全く持って俺らしくはないけれど、好きになってしまったものは仕方がない。一生懸命に真っ直ぐ今を生きるあの人のことを好きになってしまったんだ。


 …まだ、もうしばらくはこの想いを引き摺ることになるだろうけれど、悲しい思い出で終わらせたくはない。こんな姿を笑さんに見られたら笑われてしまいそうだ。

 俺も強く前向きに生きなくては。…笑さんのように。いつも彼女は言っていたじゃないか。生きている限り、人間には可能性があるのだと。

 俺はこれからも生きていく。なら彼女の分まで精一杯生きるしかない。彼女が生きたかった明日を。


 俺は彼女のいない生活に次第に慣れ、彼女がいなかった頃のように静かに学校生活を送っていた。時々エリカのサポートをして、また日々淡々と生きていく。

 全て元通りになっただけ。


 …だけど、やっぱり思うのだ。


 叶うなら、もう一度彼女に会いたいと。

 

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