どす黒い水面に影が落ちる。目の前に置かれた無骨なカップの中で、珈琲が静かに揺れている。その珈琲の中に映る影には何も無い。口もなく眼も無ければ表情すらも存在しない。だけどそれは、確実に私を捉えて嘲笑っていた。まるで私の内側まで、何もかもお見通しだと言うように。

 うに冷めきったそれは、今日何度目かの店主の計らいによって新しいものに取り替えられた。今度は程よく白く濁り、優しい香りが漂っていた。


「……ありがとうございます」


 店主である老父に今できる精一杯の笑顔を向ける。店主は無言のまま微笑み、カウンターへと戻っていく。その後ろ姿を見送って、新しい珈琲を口に含みながら。窓の向こうをぼんやりと眺める。外は既に日も暮れて、夜の帳が下りている。


 学校付近の民家に紛れて軒を構えるこの喫茶店は、生徒会御用達の隠れ家となっていた。自宅まで帰る体力も気力も無かった私を、閉店後もこうして匿ってくれていた。その計らいに甘えながら、私は意識と身体を馴染ませる。


「……謝らないと」


 そんな言葉が口をついて飛び出してきた。感情を制御できず暴走して、夏男にあんな姿を晒してしまった。思い返すだけで、羞恥で身体が蒸発してしまいそうになる。


「でも……」


 弱々しい言葉がぽつりと口から漏れる。今更どんな顔をして、何と謝ればいいのだろう。なんて言えばいいのかすら、頭の中に出てこなかった。夏男の記憶に残る私は、あんな惨めな姿なのかと思うと、堪らなく胸が苦しくなる。だけど、彼の前にもう一度立つと考えただけで、嫌悪の眼差しを向けられたらと思うだけで、身体の震えが止まらない。


 だけどもう、彼に会う機会など巡っては来ない。


 明日には、私達はフランスに飛び立つ。夏男とそう都合よく予定が合うわけもない。所詮は高校生の、子供の恋愛。儚い夢なのだ。叶わない恋に溺れた者の悲しい末路。感傷と一緒に、想い出の箱に押し込めばいい。向こうにいれば、二度と会うことも無いのだから。


「……ふぅ」


 そう思い始めると、気持ちがゆっくりと穏やかになっていく。両手で抱えているこのミルクとコーヒーの味もようやく分かってきた。そしてその時、ポケットの中身が震えている事に気がついた。手を突っ込んでスマホを取り出す。その画面には姉の名前。確認すれば、もう何件もの履歴の跡が残っていた。


「……帰らないと」


 これ以上はる姉を不安にさせる訳にもいかない。この制服も返さなければならない。

 私は急いでカップの中身を空にする。スマホを手に取りながら、ゆっくりと立ち上がる。


「……ん?」


 立ち上がった時に違和感を覚えた。服の重さがいつもと同じだということに。ゆっくりと制服の襟に手を伸ばす。


「……無い」


 はる姉の制服に付けられたブローチがあるはずの場所には見当たらなかった。何度も触って確認する。自分で身体をまさぐってみるが、どこにもそれらしいものは出てこなかった。


「嘘……そんな」


 落ち着き始めていた鼓動が、一気に速さを取り戻す。あれははる姉が大事にしていた物だ。制服ごと向こうに持っていくつもりでいた物だ。それを無くしたとあれば、はる姉を悲しませてしまう。それだけは絶対に駄目だ。何よりもまず私が嫌だ。


 必死に周囲を見回してみるが見当たらない。ないと分かっていても、カバンの中身を漁り出す。


 手の届く場所は組まなく探したが見つからない。焦る心に、絶望の色が込み上げてくる。朧気な意識のまま、ここまで足を運んできたのだ。どこで落としたのかなんて検討もつかない。


「一体どこで……」


 呆然と佇みながら窓の向こうを眺めていると、一台の自転車が横切って近くの信号で停車した。その上には、肩で息をしながら必死に何かを探す夏男の姿があった。そして信号が青になり再び勢いよく走り始める。学校へと続く道を突き進んでいく。


「っ……あの時だ」


 その姿を見て思考が一気に走り出す。教室で夏男に突き飛ばされたあの時だと。あの衝撃なら、外れていても不思議は無い。

 そう推理した時には既に身体が動き、店を飛び出して夏男の後を追いかけていた。



 ✱✱✱



 どうやって夜の学校に忍び込もうかと校門の前で悩んでいた時、正門から見えるグラウンドを横断する影が視界に移る。その影が出てきた場所まで回ってみると、そこには夏男の自転車があり、フェンスがめくれあがっていた。夏男が今しがた破ったと言うよりも、元々破れていたものをカモフラージュしていた様だ。

 そのフェンスの隙間をくぐり、グラウンドを迂回して校舎へと侵入する。


「落ち着け……目的はブローチ。はる姉のブローチだ」


 そう自分に言いきかけながら、教室への階段を静かに上がる。どこかで夏男と鉢合わせでもしたらどうしようかと、心臓の音を隠しながら教室への廊下を歩く。教室の前に到着し、扉に手をかけようとした時、中で何かが動く気配がした。咄嗟に身を屈めて廊下側の窓から中を伺う。


 私の視線の先には、黒板に向かって何やら手を動かしている夏男の後ろ姿。そして夏男の背後の教卓の上で、月明かりを浴びて僅かに光るブローチがあった。


「……」


 絶好の機会だ。私の思考がそう判断する。ブローチを手に入れ、その上夏男にも謝罪する事が出来る。だがその思考に反して、身体は一向に動かなかった。なにせ数時間しか経っていないのだ、心の整理などつくはずもない。それ以前に、不安と恐怖で声も出ない。


「……誰かいるのか?」


 唐突に、背後から渋い声が掛けられた。跳ね上がる心臓と共に振り返る。照らされたライトの明かりの向こうに、見知った教師の顔があった。


「お前……橘か?」

「げっ……」


 名前を呼ばれたことで、無意識のうちに身体が動く。反射的に身体を前に投げ出すように走り出す。脱兎のごとく逃走する。


「あっ、妹の方か! こら、待ちなさい!」


 教師の怒号のような声を背中に浴びながら、脇目も降らずに廊下を走り抜ける。息が切れそうになっても、足がふらついても、そのままひたすら走り抜け、はる姉に、心の中で謝りながらボロボロの身体で家路についた。



 ✱✱✱



「はぁ……もう最悪だ。死にたい……」


 翌日、家に学校から電話があった。私ご指名のお電話だった。事の顛末を両親に話し、予定していた飛行機の時間を変更して、呆れ顔の両親の視線を受けながら、はる姉と学校へと赴いていた。


 はる姉はブローチを取りに、私はご高説を賜りに、別れてから既に三十分以上経過していた。連絡しても出てこない。痺れを切らした私は、気晴らしも兼ねてはる姉の教室へと足を向けていた。感傷にでも浸っているのだろうか。そう思いながら階段を上る。


 廊下を渡り、教室へと近づいていく。開け放たれていた扉から中の様子が垣間見えた。黒板の前で佇んでいる逞しい背中が視界に移る。はる姉では無いその姿に驚きながら、反射的にそして静かに扉の影に背中を預けた。


 夏男がいた。昨夜と同じ場所で、気の抜けた肩をぶら下げながら佇んでいた。微動だにせず、何かに釘付けになっていた。


「……」


 何故隠れてしまったのだろう。正真正銘、これが最後の機会だ。これを逃せば、二度と彼には謝れない。頭では理解しているはずなのに、不安で身体がすくみ、恐怖で理性が凍りついていた。


『──あー、卒業生の司波夏男。卒業生の司波夏男。至急生徒指導室まで来なさい。繰り返す。卒業生の──』


 不意に聞こえた雑音の後、校内放送が流れ始めた。どうやら夏男も見つかっていたらしい。私の次は彼がお説教を聞かされるようだ。その内容を知っているだけに、夏男が気の毒で仕方が無い。


 校内放送が終わると、夏男は重たいため息を吐いて身を翻す。その動きに合わせるように、私も身を翻し、音もなく隣の教室のへと入って身体を丸めていた。またしても、身体が夏男から逃げてしまった。


 夏男の気配が無くなるのを見計らって、はる姉の教室に入っていく。夏男が何を見ていたのかが気になってしまっていた。教室内には、はる姉の姿は無く、教卓の上にはブローチも無く、その代わりに、黒板の中央に文字があった。


『突き飛ばしてごめん。二人とも元気で』

『ちゃんと伝えます。それと、ごめんなさい』


 違う色でそう書かれた文字には見覚えがある。夏男の文字とはる姉の文字だ。


「何、自分たちだけ謝ってんのよ……」


 その文字を見た瞬間、今まで逃げていた自分が一気に恥ずかしく思えてきた。もっと勇気を出していれば、夏男のことを信じていれば、こんな悔しい思いをするはずもなかった。心の中の後悔はみるみる大きくなり、瞳から零れ始める。


 音もなく涙を流していると、唐突にポケットの中身が震え始める。取り出した画面にははる姉の名前が浮かんでいた。画面を撫でて耳へとあてる。


『もしもし、なーちゃん? ごめんね、生徒会の子達につかま……なーちゃん、泣いてるの?』


 息を切らしたようなはる姉の声が、心配の色に変わっていく。急いで涙を拭い呼吸を整え、黒板に背を向けて歩き始める。


「なんでもない。はる姉、今どこ?」


 電話を繋いだまま、ブローチを確保したはる姉と合流して待たせていたタクシーに飛び乗った。


「昨日ね、家に夏男くんが来たんだよ」

「え?……」


 移動中のタクシーの中で、不意にはる姉が口を開いた。


「なーちゃんが帰ってこないって言ったらね。すごい勢いで、学校まで探しに行くって……」

「……そう」


 突然の話に、思わず素っ気ない返事を返してしまう。それ以降はる姉は口を塞いでしまった。そしてそのまま、タクシーは無事に空港へと到着した。私達は直ぐに、フランスへと向かう飛行機に乗り込んだ。


「ねぇ、はる姉。夏男の家の住所、知ってる?」


 平静を装いながら、隣に座るはる姉へと声を掛ける。はる姉は一瞬きょとんとしていたが、目を細めて、聖母のような微笑みを浮かべながら座席に背中を預けた。


「向こうに着いたら、教えるね」


 その言葉の後、機内にアナウンスが流れた。ゆっくりと機体が動き始めて、重音を響かせながら地上を離れ、純白の雲をかき分けながら、長い旅路を、西へ西へと進んで行った。


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