②
いつかこの日が来るんじゃないかと思っていた。だってあからさまだったから。アイツがはる姉の事を好きな事くらい、女でなくともひと目でわかる。それくらいあからさまだった。
「良かった。来てくれないんじゃないかと思ったよ」
教室の隅、机の上に腰掛けていた夏男が立ち上がり、好意の眼差しを向けてくる。私では無い私に向けて。
──ああ、神様。これは私への罰なんでしょうか
思わずそう思ってしまう。だけどきっとそうなんだ。そうに違いない。結果だけ見れば、私は今まで純情を踏み躙って来たのだ。報いとしては当然だ。
「待たせてごめんね。夏男くん」
初めて彼を名前で呼んだ。その響きに、私の胸が小さく跳ねる。高鳴る鼓動を抑えながら、優雅な姿勢を保ちながら、夏男との距離をゆっくりとつめて、立ち止まる。いつも横顔を眺めていた距離で、夏男が真っ直ぐに私を見つめている。
──
きっかけは偶然、ただの事故。瞬きのように一瞬だった。私をはる姉と間違えた夏男が、背後から自転車で追い抜いた時、はる姉だけに向けていたあの顔を私に向けた。たったそれだけ。たったそれだけなのに、私の心は見事に奪われた。それ以来、あの顔をもう一度見たいと思うようになっていた。
「ずっと前から好きだった。春子、俺と付き合ってくれ」
夏男はなんの淀みもなく言い放ってしなやかな動作で腰をまげた。迷い無く、頭を下げた。その真っ直ぐなその想いに、今の私は応えることが出来ない。
「ずっと前から気付いてました。でも夏男くん、ごめんなさい」
さっきの夏男の行動を、写鏡のように、なんの淀みもなく行った。私の返答を受けて、夏男の身体が動く気配を感じた。それに合わせて私も顔を上げる。
「そっか、やっぱり……。なら、あの噂は本当なのか?」
「……」
目の前の夏男は、以外にもあっけらかんとした表情をしていた。この答えは予想していたのだろうか、それともただの空元気なのかその判別はできないが、精気が抜けたような顔で、私に声をかけてくる。それを私は無言のまま困ったような笑みで返す。肯定はしない。だけどここで否定してしまうと、収集がつかない。この表情で押し切ってしまえば、これ以上の追求はない。
沈黙の間、息を整える夏男の吐息、平静を装う私の鼓動。普段なら聞き逃すような僅かな音が教室の中に広がっていく。
「あ、そうだ」
そろそろ別れを切り出そうとしていた矢先、夏男の声に阻まれた。まるで仕切り直すように、熱の篭った視線を向けてくる。
「俺さ、車の免許取ったんだ。それでみんなで今度遠出しようって話してるんだけど……どうかな? 春子も一緒に」
私は心の中で驚いていた。まさかまだ食い下がろうとするなんて、思ってもいなかった。そんなにも夏男は、はる姉の事が好きなのか。そう思うだけで、胸が引き裂かれそうになる。
「ごめんなさい。それも、無理なの」
もどかしさに狂いそうになる心をなだめるように、腕をさすりながら、弱々しい声を返す。二度目の拒絶を受けた夏男は、僅かに頬を引き攣らせる
「フランスに行くの。お父さんの仕事仲間がいて、向こうでモデルの仕事をしないかって、春奈と二人で」
「……いつ?」
「……明日」
その言葉に、今度は目を見開いて驚いている。その後小さく息を吐いて、肩の力を抜き始めた。
「そりゃ凄いな、ビックリしたよ。でもなんか納得した。姉妹揃って美人だもんな。絶対有名になるって」
「ありがとう。頑張ってみるね」
笑顔とともに返したその言葉に気を良くしたのか、夏男の表情に血の気が戻り始めた。
「向こうに着いたら連絡してくれよ。写真とか……あ、手紙送るよ。こっちのみんなの様子とか色々……」
次から次へと、口から言葉が流れ出していく。その姿が、必死にはる姉との関係を繋ぎ止めようとしているように見えて、いよいよ耐えられなくなってきた。長話になる前に、話を切り上げようと口を開く。
「そんなに、はる姉の事が好きなんだ……」
気がついた時には、口が勝手に動いていた。
「え?……」
目の前の夏男は固まっていた。言葉の意味を理解できないまま、呆然と立ち尽くしていた。
「そんなにはる姉の事が好きなのに、私だって気が付かないんだ?」
口が、喉が、私の意識から離れていく。何かに操られているように、独りでに喋り始めていた。
「気付かないよね? そっくりだもの。気づくわけないよね? 完璧だもの」
足が一歩前に出る。今度は足が乗っ取られていた。また一歩、さらに一歩。徐々に夏男に近づいていく。
「はる姉しか見てこなかったんだもの、私たちの違いなんて分かるわけないよね……」
私は今、どんな顔をしているだろう。きっと酷く醜い顔に違いない。詰め寄る私から逃げるように、夏男が後ずさっているのが何よりの証拠だ。
「た、橘……なのか?」
「そうだよ。私は橘……はる姉も橘……」
後ろに逃げていた夏男は、窓際まで追い詰められていた。そんな夏男を逃がさないように、私の身体は肉薄し、彼の胸に片手を置いていた。服越しからでも伝わってくる。高鳴る鼓動、濡れる肌、火照った吐息が鼻をくすぐる。
「……どっちだと思う? 夏男くん」
私の中身は、既に混沌と化していた。意識と身体が離反して、心と理性が融解していた。今の私は、橘春奈でも橘春子でも無かった。誰でもない何かで、何者でもない誰かに成り果てていた。
「春奈はね、貴方のこと好きだったんだよ。気づいてなかったみたいだけど」
甘い吐息を絡ませながら、反対の手を彼の頬へと伸ばしていく。
「はる姉にとっては、貴方は仲のいいお友達。それくらいでしかないんだよ」
彼の頬は、火傷しそうなほど熱かった。朱に染まる唇は僅かに震え、揺れる瞳は、逸れることなく私を見ていた。
「なんで……そんなこと分かるんだよ」
震える唇で、夏男は弱々しい言葉を放つ。その言葉に、私の奪われた頬が怪しく緩む。
「分かるよ。だって私達は、二人で一人なんだもの」
実際に聞いたことは無い。だけどこうして、夏男の前には私がいる。理由はこれだけで十分なのだ。
壊れた理性が、本能のままに動いていた。押し込まれていた欲望と、苛まれていた感情を糧にして身体を奪い、私の意識を拒んでいた。
「ねぇ……夏男くん」
「ちょ……橘……」
悪魔のように囁いて、寄り添うように身体を寄せる。
「……キス……しようよ」
自由を奪われた身体から、夏男の熱が伝わってくる。脈打つ鼓動が、身体の芯まで響いていく。
「振られた者同士、きっとお似合いだと思うよ。それとも、やっぱりはる姉がいい?」
ゆっくりと焦らしながら、確実に距離を詰めていく。夏男の顔が、今まで想像したことも無いほど近くにあった。その距離は次第に、鼻先が触れそうな距離にまで迫っていた。
「貴方は、どっちとキスしたい?」
吐息と吐息が混ざり合う。劣情を煽るその熱が、甘美に香る官能が、容赦なく私の身体を突き動かす。
「や、やめ……橘っ!」
互いの唇が重なる寸前、肩に強い力がかかり、視界が一瞬激しく揺れた。その次の瞬間には、身体が宙を浮いていた。振り絞るように放たれた夏男の言葉に弾かれるように、私の身体は拒まれた。
吸い込まれるように身体が落ちる。受け身すら取れず床を跳ね、肺から空気が締め出された。夏男に突き飛ばされた私の身体は、背後にあった椅子に肩を殴られてその勢いを失っていく。
「っ、痛った……」
その衝撃でようやく身体の制御が戻った。身体の外から、内側から、至る所から痛みが走り、苦痛で顔が歪んでいく。
「た……橘、だい──」
「来ないでっ!」
動揺に揺れる声を上げながら、近づこうとする夏男を、私は叫ぶように声を荒らげて遮った。痛みで感覚の鈍った身体を無理やり起こす。
「来ないで。お願いだから……もう、見ないで」
両腕で身体を隠すように抱きしめて、視線から逃げるように俯いた。歯を食いしばり、決壊寸前の心を押しとどめる。
ゆっくりと、夏男が足を動かした。
放った言葉とは裏腹に、夏男が手を差し伸べてくれるのを期待する私が、優しさにすがる感情が、心の隅に居座っていた。
だがその感情は、脆く儚く砕け散る。彼の足音が遠ざかっていく。
──ああ、神様。これが、私への罰なのですね
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