明日の黒板

毛糸


 悪魔の音が鳴り響いている。悪魔の鳴らす鈴の音が、私の眠りを妨げる。その音はどんどん大きくなって私の意識を呼び起こす。


「ん……」


 これ以上引きずり出されないように、全身を布団に潜り込ませる。悪魔の音は遠くなって、やがて止まった。これで安心して二度寝できる。


「おーい、朝だよ〜。起きて下さーい」


 今度は布団の向こうから、透き通る天使の囁きが私を誘惑し始めた。


「……お願い……あと三十分……」

「ダメでーす。今日は、遅刻は許されませんよ〜。起きてくれないと、イタズラを敢行しまーす」


 目覚まし時計は叩けば終わる。だけどこの天使は違う。正直一番手に負えない。どうやら観念するしか無さそうだ。

 私はゆっくりと身体をを動かして、布団から頭をのぞかせる。固まった瞼をこじ開けて、ゆっくりと朝日に目を慣れさせる。


「おはよう。なーちゃん──」


 視界が徐々に鮮明になる。

 目の前には鏡があった、だけどそれは決して鏡などではない。そう錯覚させるほど、私そっくりの笑顔があった。


「おはよう。はる姉──」



 ✱✱✱




 橘春子は完璧だ。


 品行方正、才色兼備。その手の言葉を総なめにする、我が校の誇る生徒会長。そしてそれらを鼻にかけることなく見事に着こなして隣を歩いているのが、私の双子の姉である橘春子その人だ。

 容姿は見事に瓜二つ。上から下まで完全一致。違うのは性格とその態度。私が品を取り繕えば、見分ける事は不可能だ。断言しよう。私達にはその実績がある。


「……あふ……」


 眠気の消えない瞼を擦りながら、はる姉の横顔を盗み見ていると、欠伸が口から漏れ出てきた。


「もう、なーちゃん。はしたないよ?」

「しょうがないでしょう。生理現象だってば……あふぅ……」


 少し困ったような表情を浮かべるはる姉を見ていると、再び大口が開けて空気が盛れた。それを見て天使の笑みを返すはる姉。幾度となく繰り返されたやり取りもこれで見納めだ。そう思えば、少しは感傷に浸れるかもしれない。


「おーい! 春子!」


 正門をくぐった辺りで、爽やかな声が近づいてきた。二人揃って振り向けば、一人の男子生徒が自転車を押しながら駆け寄ってくる。


「おはよう、春子」

「おはよう、夏男くん」


 天使の笑みとともに挨拶を返すはる姉の隣にするりと並ぶ司波夏男の視線が、はる姉から私へと向けられた。


「──橘も」

「……おはよ」


 四月の朝に相応しい晴れやかな笑みを見せつける夏男の言葉に、私は短く返事を返して静かに二人の後ろに並ぶ。二人の会話を聞き流しながら、私は夏男の横顔を見つめる。ほかの女子の前では見せない。はる姉だけに見せる表情を。


「っ……」


 胸を刺す僅かな痛みを誤魔化しながら、教室までの道のりを三人で歩く。この横顔も今日で見納めだ。



 もう少しで、卒業の時が訪れる。



 ✱✱✱



「春奈。お姉さん来てるよ」

「え?……」


 無事に式を乗り越えて、後は仲間達と街へ繰り出すだけとなり、そのプランを練っていると名前を呼ばれた。教室の出入口へと顔を向けると、困り顔をしたはる姉の姿があった。あの表情は久しぶりに見た。どうやらまだ、命知らずがいたらしい。


「あー、ごめん。ちょっと行ってくるわ」


 そう言って椅子から立ち上がり、ひとつ大きく伸びをして、はる姉を連れて生徒会室へと向かう。


「ごめんね、なーちゃん」


 はる姉は申し訳なさそうに言いながら、しっかりと部屋の扉の鍵を閉める。


「いいってば……ほら、早く脱いで」


 そう言いながら自分のブレザーを手早く脱いで渡そうとすると、はる姉は頬を染めながら自分の身体を抱いていた。


「なーちゃんってば、大胆っ」

「……そーゆーのいいから」

「もー、なーちゃんの意地悪ー」


 さっきの申し訳なさそうな声は何処へ捨てたのか、いつものはる姉に早変わりしていた。ぶつぶつと文句を言い合いながら、互いの制服を交換する。はる姉の制服には生徒会長の証であるブローチがついている。これを取り外すのに、何故か手間がかかるので、入れ替わる時はこうして制服をトレードする。



 橘春子は断れない。



 基本的な頼まれ事は、生徒会長としてその才能を遺憾なく発揮し、見事に片付けてしまう。だが感情的な案件は別だ。こと異性からの告白などには滅法弱い。つまりは情に弱いのだ。押されれば勢いに負けかねない。実際に一度負けている。

 そんなはる姉の変わりに、素行の宜しくない私がはる姉の品位を護りつつ、相手にも配慮を配りながら、綺麗に華麗に、純情を一刀両断する。


「場所と時間は?」


 はる姉の制服に袖を通して、括っていた髪を解く。手櫛で整えながら、はる姉の髪型に仕立て直す。

 この作業は久しぶりだった。入学以降、尽く男子生徒を振り続けたお陰で、『橘春子は男に興味が無い』という噂が流れてからは一度もなかった。にも関わらず最後の勇者が現れたらしい。


「お昼過ぎに、私の教室」

「はいはい、了解」


 短く適当に返事を返して、以前から用意していた姿見鏡で確認をする。スカートの丈を元に戻し、ネクタイを締め直す。声の調子も整える。


「相手が誰か聞かないの?」


 そう言いながら、はる姉は私とは逆の作業をしていく。その姿はみるみると、橘春奈へと変わっていく。


「んん……。だって振りに行くんだもの、誰が来たって同じ事だわ」

「……私そんな喋り方しないよ?」


 久しぶり過ぎて感覚が戻っていないらしい。どのみちごめんなさいと言いに行くだけだ。多少はなんとかなる。


「ごめんね、なーちゃん……」

「謝るのは無しね。私達は二人で一人なんだから、頼ってくれないと困ります」

「うん……ありがとう。なーちゃん」


 弱々しく微笑むはる姉の手を取って額を重ねる。ひとつ大きく深呼吸をしながら心の中で呪文を唱える。



 ──私は今から橘春子。貴女は今から橘春奈──



「じゃあ行ってくるね。なーちゃんは先に帰ってていいから」


 姿勢を正して天使の笑みを浮かべながら、私になったはる姉に微笑みかける。

 それを見たはる姉は小さく微笑むと、肩の力をだらりと抜いて、気だるげな眼差しを私に向ける。


「はいはい、了解」

「はい、は一回だよ。なーちゃん」

「はーい」


 互いの完成度を確認し終え、生徒会室の扉を開ける

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