第24話 ヴォースの戦いⅣ
教皇スリーク・クラウンが、
「詠唱に入る。解っておるな?」
スリークに問われ、インディゴとクシードが臨戦態勢をとる。無防備な
「面白いものを見せてやる。楽しみにするがよい……」
そう言ってスリークは、
クリフォトに連なる第四のクリファ
アディシェスの長アスタロト公爵閣下に申し上げる
盟約に従い
「アスタロトだと!?」
盟約履行者の名を聞き、思わずドーが声をあげる。
「悪魔との盟約など、
しかしゼンザックは先の戦いのダメージで満足に動ける状況ではなく、ヘレスチップしか対処できる者がいない。
第五の
ひとつの星が地に落ち 底知れぬ所の穴が開かれる
穴から立ち昇る煙で世界は暗くなり
煙からは
ヘレスチップがスリークに向けて、
傷をおして放ったゼンザックのナイフも、クシードの
毒に侵され四肢の自由が効かないドーであったが、動けないながらも立て続けに
その姿は出陣の用意を整えた馬に似ており
その羽音は馬に引かれ戦場へ急ぐ戦車の響きに似ている
その顔は人のようであり、その髪は女のようであり
その歯は
いつしか暗雲が垂れこめ、闇が周囲を包む。黒い霧が立ちこめるが、正確には霧ではなく視認できるほどに濃度を増した魔素だ。
城壁の上で様子をうかがっていた
ドー、ヘレスチップ、ゼンザックの三人は、何とか詠唱を止めようと攻撃を続けながらも、術の発動に備えて身を寄せあう。
額に神の
その名をもって現世に御国を
『
詠唱が終わり、周囲は闇と静寂に包まれる。
やがて魔素に満ちた大気が震え出す。地が鳴り、激しい揺れをともなって大地が裂ける。そして割れ目に吸い込まれるかのように、地面の崩落が始まる。
「
崩落はなおも続き、やがて円形の巨大な穴が口を開ける。底が知れぬほどの深淵……
崩落を逃れたドーたちが、恐る恐る奈落を覗きこむ。そして覗きこんだ瞬間、不意に恐怖に囚われた。穴の深さを恐れた訳ではない。闇の深さを恐れた訳でもない。奈落からもまた覗き込まれているような感覚……奈落の存在そのものが、直接恐怖を呼びおこすのだ。
そして奈落が顕現した影響を考えて、ドーは身震いする。地獄は現世を侵食する。悪魔の、しかも公爵が顕現させた奈落だ。時が経てば地獄へ還るなどという、脆弱な存在級位ではない。むしろ、現世よりも級位が高い。現世の存在の方が競りまける……。しかもヴォースだけの話ではない。影響は、王国全土に及ぶだろう。
「素晴らしい! かくも容易に悪魔公爵にまで
スリークが両腕を広げ、術の発動を満足げに見おろす。
「悪魔との盟約など、神に仕える者として恥ずかしくないのか!」
ドーが片膝をつきながら、スリークを
「
口の端をゆがめて、スリークがドーたちを見おろす。
「解っているのか……ヴォースだけでは済まんのだぞ……」
ギリギリと歯がみをしながら、ドーが言葉を絞りだす。
「当然だ。理解しておる」
「馬鹿な! 国を滅ぼすつもりか!?」
スリークはドーへ嘲笑を浴びせると、再び口の端をゆがめた。そして奈落を指さして言った。
「そろそろ、
奈落を見やれば、黒々と立ちのぼる瘴気の中に羽音を響かせながら
「まさか、
即座にヘレスチップが、半球状の結界で三人を護る。奈落に立ちのぼる黒い瘴気が急激に膨張したかと思うと、そのまま結界を飲みこむほどの大きさに広がった。正確には広がったのは瘴気ではなく、瘴気をまとって飛びたつ
「なんて
結界に取り付く
一見すると二十センチほどの
「恐ろしい者どもが現れたようだ。我々は退散するとしよう……」
クシードが
「
スリークの高笑いを残して、三人は
奈落から飛来する
城壁にも無数の
街の中から、
「ドー様、このままでは……」
「ドーちゃん……」
ゼンザックとヘレスチップの不安げな声が、結界の中に響く。
「わかっている。わかってはいるが……」
やはりスリーク・クラウン……喰えぬ奴だ。何ということを……ワタシに何ということをさせるつもりだ!
なにが「ヴォースを見すてて逃げるもよし」だ。そんなことが、できる訳がない。顕現した地獄など、広がるほどに手がつけられなくなる。今だ、今しかないのだ。今なんとかしなければ、手遅れになるのだ。
そして、なにが「見事ヴォースを救ってみせるもよし」だ。事態を
「クソッ! クソッ!」
毒の
やるしかない……。顕現した地獄など、放置しておくことはできん。だが、できるのか……ワタシに。
成すべき方法はある。成すべき力もある。だがそれほどの
だが、やるしかない……やるしかないのだ。このまま放置すれば、被害は二千どころの騒ぎではない。王国すべてが、地獄に呑まれてからでは遅いのだ……。
ドーがおもむろに立ちあがる。毒に足を取られてよろめくが、すぐにゼンザックがその身を支えた。
「上等だ! やってやる! やってやろうじゃないか!!」
ドーの叫びが、結界の内側に響く。
「すべての罪は、ワタシが背負ってやる! ヘレス、ゼンザック、手を貸せ。地獄を焼きつくす!!」
事の重大さを理解したヘレスチップが、
「街ごと……だよね」
「……それしか手がない」
「でもドー様。住民を避難させる時間など……」
「そうだ、時間などない。街の者を転移させるマナもない……」
「そんな……二千人ですよ!?」
ようやくドーの考えを察し、ゼンザックが言葉を失う。
「解っている。
ドーの決意に、苦渋の決断に、ゼンザックは返す言葉がなかった。しかし、迷っている時間などない。代わりとなる策もない。すべての思いを飲み込んで、ゼンザックはただ静かにうなづいた。
「すまんな……つらい思いをさせる」
苦々しい表情を浮かべながら、ドーが詫びる。
「地獄など、易々と焼きつくせるものではない。よって三つの
「
「言うな、ヘレス。これしか手がないのだ」
「そんなのだめだよ。ドーちゃん、助からないじゃん」
「他に地獄の侵食を止める方法などない……」
「結界の外から……という訳にはいかないのですか」
「火炎の圧縮に、繊細な制御が必要な
三人の間に、重苦しい空気が流れる。ヘレスチップもゼンザックも、それ以上の言葉を発することができずにいた。この場にもっとマナが残っていれば……かつて半分でもドーの力が戻っていれば……そうすればまた違う選択肢もあっただろう。すべてがもう一歩のところで及ばない。
「もう時間がない、かかるぞ。ゼンザック、ヘレスを
気乗りせぬままヘレスチップが結界を解くと、そこは
結界の内にすべての
詠唱が始まると同時に、奈落の周囲に炎の柱が立ち上がる。四方に立った炎の柱は時を置かずしてさらに八方に、そして十六方に立ち上がり火勢を増しながら燃え広がっていく。炎の柱は重なり合い、混じり合い、やがて奈落を取り囲む大きな炎の壁となった。奈落から立ち昇る瘴気が、そして瘴気にひそむ
「上出来だ、後はワタシがやる。お前たちは脱出しろ」
そう言ってドーが、光の柱を指差す。ヘレスチップが結界と炎を整える間に、ドーが
「ドー様、私は……」
「ともに残るなどと言い出したら、力づくで
「しかし!」
このような形で、このように唐突に別れの時が訪れるなど、思ってもみなかった。ドーが
「お前には、成さねばならぬことがある。生きてそれをやれ」
そう言うとドーは、強くゼンザックを抱きよせた。背中に腕を回して抱きしめる。ドーの額が、ゼンザックの顎先に当たった。
「まったく、大きくなりおって。初めて会ったときは、まだ子供であったが……」
ドーと過ごした五年間を思い、ゼンザックが言葉を詰まらせる。
右手を伸ばし、ドーがゼンザックの頬に触れる。
「見ておったぞ。バフガーを倒したのであろう? 強くなった……本当に強くなった」
ドーの手が、優しく頬をなでる。不意にゼンザックの目尻から涙がこぼれ、頬を伝ってドーの手を濡らす。
「馬鹿者。泣く奴があるか……」
ドーの指先が、そっとゼンザックの涙をぬぐう。
「お別れだ、ゼンザック。礼を言う、今までよく
涙声となったドーの言葉に、ゼンザックが背を向ける。
「……別れの言葉は……言いません」
「そうか。好きにすれば良い」
ゼンザックの背に、ドーが微笑みかける。
「またお会いする日まで、どうかお元気で……」
そう言い残すとゼンザックは、振り返らず
「ヘレスよ。お前との腐れ縁も、
「ドーちゃん……」
ヘレスチップが、赤く泣き腫らした目を
「ゼンちゃんのことは任せて。心配しなくていいから……」
「あぁ、頼んだぞ」
「あたしも、お別れなんか言わないから!」
そう叫ぶとヘレスチップも、
ドーはおもむろに、自らのオドを高め始める。大丈夫だ……これならば届く。この場にはもう、マナが残っていない。頼れるのは、自らの体内を巡るオドだけだ。精霊王まで
両手を合わせて、ドーが
火の精霊王 炎の魔神イフリート殿に申し上げる
盟約に従い その力示し
奈落を取り囲んでいた煉獄の炎が、詠唱の開始と同時に一気に火勢を増す。巨大な火球となって奈落の上空に浮かぶさまは、まるで天空から太陽が降りてきたかのようだ。
ソドムを焼きし火と硫黄
ゴモラを焼きし火と硫黄
膨大な熱を発する火球が、急速に圧縮されていく。燃え盛る熱量はそのままに、さらに小さく、さらに密度を増し続けていく。奈落を覆うほどの大きさだった火球は、今や
焼き尽くせ 灼熱の
灰燼と化せ 獰猛なる爆裂で
あとは
穏やかな時の流れの中、ドーは自らの生きざまを振りかえる。
良いことばかりではなかった。むしろ困難の方が多かった。しかしそれ
良き仲間に巡り会えた。頼るべき者もできた。護るべき者もできた。成すべき事はまだ多く、心残りがない訳ではない。しかし総じて言えば、良き人生であった……。
――さぁ、派手に散ってみせようか。
『
王歴九九五年 五月。
ビットレイニアの大地から、ヴォースの街が消滅した。
(つづく)
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