第12話
銃弾は、陽子の頬のすぐ脇を飛んでいった。
この瞬間、陽子はこの男が自分を殺そうとしていることをはじめて実感した。同時に目の前では信じられないことが起きている。
あの猫が覆面の男の腕に体当たりしたのだった。狙いがそれたのはそのせいだ。
拳銃は地面に落ちる。猫はそれを咥えると、すばやく塀の上に飛び乗った。
男は明らかに動揺した。しかしそれは陽子も変わらない。
なぜあの猫があたしを助けるの?
信じられないが、あの猫は明確な意志を持って自分を助けた。
たまたま結果としてそうなったとかいうレベルのことではない。それどころかこの猫は自分を守るために付いてきたのではないのか?
覆面の男は冷静さを取り戻したらしく、もう猫には目もくれなかった。上着の内側からナイフを取り出す。ぱちんと音を立て、大振りの刃が飛び出した。
「うわっ、わ、わ、わああ」
はじめて悲鳴が口から飛び出した。逃げるにも後ろは行き止まり。かといってナイフを持った男の脇をすり抜けて逃げるなんていう芸当が陽子にできるはずもない。
男がナイフを振りかざし、襲いかかってきても、陽子は動くことすらままならない。
もう一度奇跡が起きた。
塀の上に乗っていた猫が、ふたたび男に飛びかかった。
なんで?
男にも理由はわからないだろうが、予期はしていたらしい。ナイフを翻し、飛びかかってきた猫に斬りつけた。
人間離れしたすさまじいナイフ裁き。しかし、猫は体を空中で素早く捻り、器用にナイフの切っ先をかわすと爪を男の手に突きたてる。だが今度は男もナイフを手放しはしなかった。
猫が地に足をつけるのとほぼ同時に男はナイフの切っ先で払う。
猫はそれをさけ、高々とジャンプすると、空中で回転し、ふわりと塀の上に降り立った。
「ちっ」
男ははじめて口から音を発した。よほど忌々しかったのだろう。もっとも、たんなる舌打ちだったため、声の質はよくわからない。
男はもう猫に対して油断はしていなかった。猫と陽子に意識を二分しつつ、じりじりと距離を縮めてくる。隙を見せないために、猫も今度は飛びかかってこれないようだ。
なぜこの男が自分を殺そうとするのか? あるいはなぜ猫が自分を助けようとするのか? さっぱりわからないまま、陽子は立ちつくす。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。……あたし死ぬのぉおお?
男がふたたびナイフを振りかざし、陽子が死を覚悟したとき、三度目の奇跡が起こった。
人間が空から降ってきた。
いや、人間の服、しかも陽子と同じものを着ていたが、それは人間というより野獣に近かった。
体の動きはしなやかな豹を思わせ、長い髪はライオンのたてがみを連想させる。
それは落ちながら宙で一回転し、前足で男の手を打ち、ナイフを跳ね上げた。
そのまま四つ足のまま、ふわりと着地する。回転で舞い上がっていたスカートと流れるような黒髪もふぁさりと元に戻る。
陽子はそのときはじめて、その舞い降りた美獣が姫華であることに気づいた。
「な、な、なんなのよ、いったいぃいい?」
男も陽子に負けず劣らず動揺したらしく、体全体からとまどいのオーラを出しまくっている。
野獣と化した姫華はそんな隙を逃さない。獲物を襲う肉食獣そっくりの動きとスピードで、男に飛びかかった。
男の方も我に返ったらしく、やはり人間離れした跳躍力で真上に跳んでかわす。
姫華は両手を前足のように地面につくと、逆立ちの要領で体を跳ね上げた。
スカートはぶわっと花のように開き、そこからロケット弾のような蹴りが飛び出す。
男は宙に浮いたまま、姫華の蹴りを膝でブロック、着地ざまに逆に姫華の両手を刈り払う。
しかし姫華は床体操の選手のように、前方に回転しつつ足から降り立つと、そのまま天高く飛び上がった。
ひゅん。
するどい風切り音が響く。
まるでフィギュアスケートの選手のように空中でスピン。
スカートと髪が舞い広がる。
長い髪がまるで目つぶしのように男の顔面に被さり、翻弄したとき、縮込めていた腕を広げた。掌を鷹の爪のように開いて。
男の制服が破け去った。ほんとうの猛獣に襲われたように。
姫華の指先には、まるで虎の爪のような威力があるらしい。
男は地面に落ちている自分のナイフに飛びつく。
拾ってその切っ先を姫華に向けようとしたがすでに姫華はそこにいない。
風。その動きはまさにつむじ風のようだった。
姫華は流れるように敵に近づき、手首を蹴った。回し蹴りだった。
そのせいでナイフはこともあろうか、男の脇腹に突き刺さった。
「ぐ」
男はほんの一瞬だけ、苦痛の声を漏らしたが、それ以上はひと言も喋らない。形勢不利と判断したか、ナイフを抜かず、腹に刺さったままで逃走する。
「逃がすもんですか」
姫華は一瞬振り返り、猫に命令した。
「フィオリーナ、陽子を守って」
さらに陽子にいう。
「今のは夢だと思いなさい。いいですわね?」
姫華は男を追って陽子の視界から消えた。そのすぐあとに、大小でこぼこコンビの刑事が駆けつける。銃声を聞きつけた住民から通報でもあったのだろう。年配の小さい方の刑事が叫んだ。
「嬢ちゃん、なにがあった?」
なにがあった? それを説明するのは難しい。というか、とても信じてはもらえないに違いない。
そもそも陽子自身、今起きたことは夢のできごとのような気がした。
いきなり犯人に襲われた。ここまでは月並みだ。しかしその先は冗談としか思えない展開になる。
「あ、あの、……ええっと、その、つまりですね」
陽子は姫華が現れたことをいうことができなかった。
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