第3話

 同じころ、瓢一郎は校舎の屋上にいた。ひとりではない、郷山と鬼塚が一緒だった。それ以外の生徒はいない。やつらが閉め出したからだ。

「瓢一郎よぉ。おめえ、なに葉桜に取り入ってんだよ。なんで、葉桜がおめえをかばうんだ。あぁ?」

 鬼塚が坊主頭のいかつい顔を不自然に醜く歪め、瓢一郎に近づけた。

「そうだぞ。おまえいったいなにをやった?」

 郷山がにこにこ笑いつつも、のっしのっしと巨体を瓢一郎の方に歩を進める。

 放課後、屋上に呼び出された時点で、こういう展開になるのはわかっていたが、あまりに予想通り過ぎてなんの捻りもない。瓢一郎はうんざりした。

 いきなり鬼塚のストレートが顔面に炸裂した。

 普通ならこれでノックアウト。案の定、瓢一郎はダウンした。だが効いているわけじゃなかった。

 殴られる瞬間、体全体の力を抜き、それこそ柳の枝のように威力を受け流す。

 これぞ猫柳流拳法の防御面での奥義。だからほとんどダメージは受けていない。

「な? おめえ、今なにしやがった?」

 鬼塚もあまりの手応えのなさを不審に思ったらしい。

 う~む。どうも、きょうは本気っぽいな。

 瓢一郎は仰向けで空を見上げながら思う。

 いつもはせいぜい軽いジャブくらいだったから、受けるにしても適当にダメージを残して受けていたが、さっきは本気のストレートが飛んできたから、こっちもつい本気で流してしまった。

「なんだなんだ、だらしないぞ、鬼塚」

 郷山が倒れている瓢一郎の上からのし掛かろうとする。このまま馬乗りになられ、絞められたら堪らない。瓢一郎はその前にするりと立ち上がった。

 だが郷山はいつものノロそうなイメージとは裏腹に、じつに素早い動きで瓢一郎の襟を掴み、あっという間に背負い投げに持ち込む。

 コンクリートにたたき付けられそうになる瞬間、瓢一郎の体は放り投げた猫のようにくるりと裏返り、両足と捕まれていない左手でふんわりと着地した。

「な、なんだぁ?」

 郷山からも驚きの声が上がる。予想しなかったことに驚いたのか、そのまま押しつぶそうともせずに手を離した。

 それにしても郷山も本気だ。いつもなら、気に入らないことがあっても押さえ込むくらいだが、コンクリートの上に投げ落とそうとしやがった。

 きょう、瓢一郎のことで葉桜が姫華に恥をかかせた結果になったことが、よほど気に入らなかったらしい。

 ふたりの目が真剣になった。瓢一郎がじつは只者じゃないことを肌で感じ取ったようだ。

 やばいな、こりゃ。

 いっそ逃げようかとも思ったが、下に降りる階段の踊り場にはこいつらの仲間が何人も見張りに付いている。そもそもドアを開けることもできないだろう。

 こっちも本気になるしかないか。

 瓢一郎は覚悟を決める。

 学校でどう見ても得体のしれない拳法を使って変に目立つのは極力避けたかったが、今回はどうもそんなことをいっていられる場合じゃないらしい。

 ふたりの悪漢は用心しつつ、左右からじりじりと距離を詰めてくる。もう決して油断などしていない。それは顔つきや構えでわかった。郷山は両手を前に突き出しつつ、すり足で近づいてくる。鬼塚はきちんと拳で顔面をガードし、ステップを踏んだ。

 瓢一郎はほとんど無意識のうちに左手を地面に付け、招き猫のように握った右手の平を相手に向けた。

 滑稽なポーズだが、ふたりは笑わなかった。むしろさらに警戒色を強める。

「く、くそう。舐めやがって。郷山、やつを上から組み伏せて体を起こせ」

 瓢一郎の体勢が低すぎて、自分のパンチが使えないことに気づいたのか、鬼塚がヒステリックに叫ぶ。

 なるほどそれはいい作戦だ。郷山に押さえつけられ、鬼塚が殴る。ある意味、瓢一郎がもっともやられたくないことだ。

 郷山は納得がいったのか、上から覆い被さるように襲ってくる。

 瓢一郎は風のように横に動いた。

 郷山はすでに瓢一郎のいないところに前のめりに倒れ込んだ。

 その動きを信じられないといった顔で見ていた鬼塚が、不慣れな前蹴りで顔面を狙う。瓢一郎はなんなく右手でたたき落とした。

「人間か、おめえ?」

 鬼塚は驚嘆とも恐怖とも付かない声を出す。

 郷山は立ち上がり、じりじりと瓢一郎の後ろに回り込む。前後から挟み撃ちにする気だ。

『瓢一郎、大変よ』

 いきなり頭の中に色っぽい女の声が鳴り響いた。フィオリーナだ。昼間は暇をもてあましているらしく、ときどき学校に忍び込んでは瓢一郎にテレパシーで話しかけてくる。

『大変なのはこっちも同じだ』

 テレパシーを返す。今は相手にしている暇はない。

『暴漢が姫華を襲ってるのよ。一年生用の昇降口』

 天罰が下りやがった。だが、さすがに死ねばいいとは思わない。助けられるのなら助けてやりたいが、今の状況ではどうしようもない。いや、逆にこいつらに教えてやれば、現場に駆けつけるだろうから好都合か?

『姫華だけじゃない。陽子も一緒にいる』

『なんだって?』

『偶然居合わせたのよ。あ、伊集院がやられた。やばいわよ』

『今すぐいく。それまでおまえが陽子を守れ』

「まて、おまえら。こんなことをやってる場合じゃ……」

 ふたりに事情を説明しようとした瞬間、前にいた鬼塚が間合いを詰めた。後ろから郷山が近づく足音が聞こえる。

 鬼塚の変則的なパンチがごうと音を立て、上から振り下ろされる。

 瓢一郎はとっさに三つ足で体を真上に跳ね上げる。

 パンチが頭に当たったが、それを受け流すかのように前方に空転。

 そのいきおいに任せて、後ろから突進してきた郷山のみぞおちに貫手をぶち込んだ。

 足が地面に着くと、その反動を利用し右脚を思い切り跳ね上げた。

 踵が鬼塚の顎を下からかち上げる。

 そのまま体をねじって両足を地に付けるころ、郷山と鬼塚はばたりと倒れた。

 ぐずぐずしてはいられない。

 瓢一郎は走る。階段はこいつらの仲間に押さえられている。

 とりあえず、校庭側の端にいくと、フェンス越しに下をのぞき見る。

 黒塗りのリンカーン。姫華の自家用車が見える。その近辺では明らかにいざこざの気配。

『フィオリーナ。状況はどうだ?』

『やばいわよ。相手は拳銃持ってる』

 のんびりしてる場合じゃない。瓢一郎はフェンスの上端に跳ぶ。そのままフェンスを掴んだ。それを支点に振り子のように体を揺らし、校舎の外壁の外に出ている雨樋に跳んだ。

 両手で雨樋をキャッチすると、両足で樋を挟み、そのまま滑り降りる。

 目立つがそんなことをいっている場合じゃない。

 屋上の階段踊り場に待機しているやつらの手下が、あとで瓢一郎が屋上にいなかったことを不審に思うかもしれないが、そんなこと知ったことじゃない。

 とにかく今は、陽子の元へ行く。

 瓢一郎はあっという間に二階の高さまで滑り降りると、そのまま近くの樹に飛び移った。枝を掴むと、それをクッションにして校舎前の芝生に着地する。

 その瞬間、陽子の悲鳴が耳をつんざいた。

「陽子!」

 瓢一郎は黒塗りのリンカーンめがけて走る。

「瓢一郎くん」

 陽子が叫んだ。陽子の足下にはフィオリーナ。そばにはたしか生徒会書記の女子が立ちすくんでいる。車の前に倒れ込んだ老人。車に磔状態になった伊集院。そして拳銃を手にしている黒覆面をした制服の男。その銃口の先には脅えきった姫華がいた。

 この男は倒す。銃を撃つ前に。

「おい、こっちだ。覆面野郎」

 だがそいつは瓢一郎の声に惑わされなかった。冷静に姫華に向かって引き金を引く。

 くぐもった銃声と痛々しい悲鳴に、瓢一郎は冷静さを失った。

「このやろう」

 瓢一郎はリンカーンを踏み台に、高々とジャンプする。腕を左右に広げ、じゃんけんのパーの状態から指は内側に少し曲げた。鍛え抜かれた瓢一郎の指先は猛獣の爪なみの威力がある。

 くたばりやがれ!

 瓢一郎は殺意を込め、覆面男に向かって急降下するが、相手は動きを読んでいたらしい。機械のように冷たい目で見すえ、落ちてくる瓢一郎に向かって、冷静に銃口を向けた。

 やばい。

 男は非情に引き金を絞る。

 サイレンサーを使った独特の銃声は聞こえたが、弾は瓢一郎の体を貫かなかった。

 フィオリーナだ。フィオリーナがその男に飛びついたことで、狙いを外したのだ。さらにフィオリーナは男の拳銃をたたき落とす。

『今よ、瓢一郎!』

 瓢一郎はここぞとばかりに、男の首に向かって虎の爪のごとき指先を落下の勢いを乗せて振り抜いた。

 男は殺気を感じたのか、とっさにかわし、狙いを外す。瓢一郎の爪は、男の制服を引き裂いた。左の脇腹のあたりだ。

 だめだ。浅い。

 引き裂いたのは服だけで、男の肉をえぐることはできなかった。あるいは制服の下にプロテクターのようなものを着込んでいたのかもしれない。

 逃がすか。

 瓢一郎は間合いをつめた。同時にフィオリーナも横からせまる。

「にゃん」

 男は目にも止まらぬスピードで身をかわしつつ、フィオリーナを蹴り飛ばす。フィオリーナは壁に背を持たれて崩れ落ちている姫華の体にぶち当たった。

「野郎」

 瓢一郎は左手を床に付けると、それを支点に体を跳ばし、両脚で相手の足を刈ろうとする。男は野獣のように跳んでそれをかわした。

「きゃん」

 飛び退いた男は、陽子にぶち当たる。男は悲鳴を上げて倒れた陽子を睨み付けると、そのまま風のように走り去った。

「だいじょうぶか、陽子?」

「う、うん。だいじょうぶ。たいしたことないよ」

 陽子は怯えと驚きと恥ずかしさの入り交じったような表情で答える。

「で、でも、姫華さんが……」

 わかっている。さっき見た限り、姫華は心臓のあたりを撃たれていた。確認はしていないが、おそらくもう死んでいる。

 気になったのは、犯人が逃げるとき、陽子と真っ正面から顔をつきあわせたことだ。

 覆面をしていたからたぶんだいじょうぶだとは思うが、それでももしかしたら陽子を自分の顔の一部を見た目撃者として狙うかもしれない。

 男を追って警察に引き渡す。瓢一郎はそう決心した。

『フィオリーナ。そこにいて、陽子を守れ』

 テレパシーでフィオリーナに伝えると、瓢一郎は犯人が逃げた方向に走る。

「い、いかないでよ。瓢一郎くん。怖いよ」

「だいじょうぶだ。心配するな」

 瓢一郎は振り返ると、脅える陽子に満面の笑顔を見せた。そして犯人を追う。

 あいつはあっちの校舎の陰にまわった。

 同じようにまわりこんだ。誰もいない。人の気配もしない

 外だ。

 そう直感した瓢一郎は一気に塀を跳び越える。そこはあまり車の通らない狭い道だ。

 どっちだ? それなりに通行人はいるが、それらしき姿はない。どこかに逃げ込むにしても、通りに並んでいるのは民家ばかりだった。

 これ以上追いようがなかった。向こうから仕掛けてくることを願ったが、しばらくしてもなんの動きもない。

『フィオリーナ、そっちはどうだ?』

 陽子が気になって、交信してみる。だが、返事がない。

 いやな予感がした。

『フィオリーナ。なにがあった? 答えろよ』

『な、な、な、なにをおっしゃってるの? あなた誰? どうしてわたくしの頭の中に語りかけてくるの?』

「え?」

 返答したのはフィオリーナではなかった。この声。喋り方。まさか……?

『姫華?』

『そうですわ。わたくし、姫華です。でも、誰もわかってくれませんの。だって、だって……わたくし、猫になってしまったんですもの』

 いったいなにが起こったんだ? 瓢一郎は激しく動揺した。

 落ち着け。考えろ。どうすればいい?

『とにかくそっちの状況を教えてくれ。警察は来たのか? 陽子はどうなった?』

『そんなこと知りませんわ。だって、執事の佐久間が、……わたくしの体を車に乗せて運ぼうとしたので、とっさに乗り込んだんですもの。今車はわたくしの家に向かってます。っていうか、すこしはわたくしのことを心配したらどうですの?』

 信じがたいが、死んだ姫華の魂が、超自然的な力でフィオリーナに乗り移ったとしか考えようがない。

 となると、姫華の執事は、警察の到着を待たずに姫華の死体を自宅に運ぼうとしていることになる。病院ならわかるが、なぜ自宅に?

 さっぱりわけがわからなかった。そもそもそんな怪現象が本当に起こりうるのか?

 とにかく現場に戻ろう、と思った。

 犯人が現場に戻る可能性はほとんどないとは思うが、陽子が気がかりだった。少なくとも今は、フィオリーナの護衛が付いていないことだけは間違いない。

 いきなり車が目の前で止まった。車に詳しくはないが、真っ赤なBMWだっていうことだけはわかる。

「乗って、瓢一郎くん」

 中から声を掛けたのは、意外なことに葉桜だった。

「せ、先生? なにごとです?」

「いいから。犯人を追ってるんでしょう?」

 つまり、この先生は犯人の行き先を知っているのか?

「い、いや、だけど……」

 困惑していると、歩道側の左のドアが開いて、葉桜が降りた。彼女は何気なく右手を動かした。手を開いたまま、ゆっくりと。

 だがそれは錯覚に過ぎなかった。優雅な動きだったからそう見えただけだった。

 それは彼女の掌が瓢一郎のみぞおちに打ち込まれたときに初めて理解できた。

 ちゅ、中国拳法?

 体全体に衝撃波が広がる。瓢一郎はそのまま意識を失った。

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