第3話


 9


 初めは絵本を書こうと思ったが、楓はもうそういう年齢ではないことに気付く。しかし9歳の女の子に向けた小説を書くのも存外難しい。仕方がないから、17歳でデビューしたわたしにとって一番得意な青春小説を書くことにした。今の楓ではなく、17歳。高校二年生になった楓へ向けて、わたしのすべてを注いだ物語を書くと決めた。

 プロットは必要なかった。むしろ、とめどなくあふれる文字を頭の中で削るのに苦労した。口頭で文章を伝えなければならなかったことは大変だったが、それすら気にならないほど創作が楽しくて仕方がなかった。

 気が付けば記録的な猛暑にもかげりが見え始め、はめ殺しの窓の向こう側に真っ赤に色づいた楓が茂っていた。世界は秋に染まっていた。妻と出会い、楓が生まれ、余命を宣告され、わたしが死ぬ季節。楓の誕生日が刻々と近づている。

 ある日の夕時、夕焼けと紅葉が溶け合いそうな時間になって、病室のドアがゆっくりと開いた。

「あ、古谷さん」

 そこには、枯れ木の幹のような杖を片手に突っ立っている古谷の姿があった。以前電話で礼を言った時以来だった。

「やあ、具合はどうだい?」

「間違いなく死にますね」

「そうか。そりゃあ良い」

 古谷は豪快に笑うと、杖を壁に立てかけて椅子に腰を下ろした。

「今日はどうかしたんですか?」

「名作は書けたかい?」

「これから書きます」

 わたしが自身に満ち満ちた表情で言うと、古谷は目を丸くした。

「そうかい! 良かった。本当に。後悔しながら死ぬのもまた一興だが、どうせなら心地良く死にたいからね」

「はい。古谷さんのおかげです」

「ちなみに、どんな話だい?」

「一人娘のための物語です」

「そりゃあ良い!」

「たぶん出版されないでしょうし、仮にされたとしても、エンタメとしてまったく面白くないんで、売れないと思いますが、必ず書き上げて見せます」

「そうかそうか」古谷は嬉しそうに何度もうなずくと、杖を突いて立ち上がった。「そう言えば、以前わたしが言ったことは覚えているかい?」

「名作について、でしょうか」

「違う。AI小説と、人間が書いた小説の違いについてだ」

「ああ、そうでしたね。色々考えてみたんですが、結局分かりませんでした。どちらが書いたものも小説であることには変わりないですし」

「きっとそれは、きみが書いた小説が証明してくれるだろう」

「え?」

「では、わたしは帰る」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

「失礼!」

 ぴしゃりと閉められたドアの向こうに、杖と足が床を叩く音が交互に聞こえてきた。

 わたしには、やはり古谷の言葉が分からなかった。


 それから数日後、わたしは遂に、人生最期の小説を完成させた。


 10


 17本のろうそくを一斉に吹き消した私の向かいに、歯を見せて笑うおじさんの姿があった。

「良し。綺麗に消せたな。じゃあ行ってこい!」

 私は制服を着たまま家を飛び出し、電車を乗り継いで、とある駅で下車した。寂れた商店街をまっすぐに突き進む。路傍に生える満開のキンモクセイの甘い香りを全身で受け止めながら、わき目も振らずに走った。落ち葉を踏みつける音が心地良かった。

 吉見書店、というさび付いた看板の前で足を止めた私は、店内に足を踏み入れると、二階へ続く階段を駆け上がった。新刊が並んでいる棚に向かうと、お父さんの名前をつぶやきながら本を探した。

「あ」

 しかし、探し始めてから数秒で、私は見つけてしまった。

 本の海に埋もれていても、一目見れば分かった。真っ白いカバーの中央に描かれた、秋の楓のように赤く色づいたタイトルが記されている。

『きみのための物語』

 私はその題名をつぶやくと、両手で大事に取り、胸に抱えて階段を駆け下りた。


 11


 お父さんの小説が販売されてから一年後、私は古谷古書店を訪れていた。風の便りでもうすぐ閉店してしまうという話を聞きつけたからだ。昔お父さんとよく一緒に来ていたお店だったから、どうしても今の内に行っておきたかった。

 店内は最後に訪れた時と何ら変わっていないように見えた。天井にまで伸びる本棚に敷き詰められた大量の本は相変わらずだし、外に出されたカートに並んだ本も同じだ。一番変わったのは、床の上の本が少し増えたことだった。

 しかし、レジの前に立ってから、その考えが間違っていたことを思い知る。

「や、やあ。何かようかい?」

 レジの向こうに座っていた古谷は、以前とは比べものにならないほど更けていた。綺麗な白髪の生えそろった頭皮は見事に禿げ上がり、皺の数も増え、自慢だった歯は今や入れ歯だらけだ。

「あの、わたしのこと、覚えていますか?」

 私は戸惑いながらたずねた。

「あ、ええっと、そうだね、名前を言ってくれると助かるな」

「名前? ですか?」

「常連さんの中でも名前を知っているものは、ここに書き留めてあるんだ」

「楓、です」

 私が言うと、古谷は一瞬固まったが、しばらくしてから「あ!」と店中に響き渡る大声を上げた。

「楓、楓ちゃんだ!」

「はい。そうです」

「あの、小説家の娘!」

「は、はい」

「そうだ」古谷は後ろに積まれた本の山をあさり出し、やがて一つの小説を引きずり出した。「これ、読んだよ」

「きみのための物語ですね。父が書いた作品を、読んでくれたんですね」

「ああ、読んだ! 読んだとも!」

「どうでしたか?」

「最高だった!」

「良かったです。父も喜びます」

 何度も大声を上げて疲れたのか、古谷は少し深呼吸した。

「こういう小説を読んだ時、わたしは思い知らされるんだよ。AIが書いた小説と人間が書いた小説の違いについて」

「どう違うんですか?」

「楓ちゃんはこの本がどれくらい売れたか知っているかい?」

「きみのための物語、ですよね」

「ああ」

「100万部売れたって聞きました」

「そう。その通り。しかもこれは発売後一年で売れた部数で、出版部数で言えばもっと多いし、今後も増々売れるだろう。これがいかにすごいことか、分かるかい?」

「小説っていうジャンルで言うと、AI小説より売れたのは久しぶりなんですよね」

「そうだ。その通り」

「すごい嬉しいことです。でも、わたしは疑問に思うんです。どうしてこの小説が売れたのか? 正直、内容は支離滅裂です。晩年の父は言葉もうまく使えなくなって、最期の方なんて表現が小学生並みで、何より、私のためにしか書かれていない」

「そうだね」

「でも、とっても売れました。父が一生懸命話を考えて書いた小説よりも、たくさん」

「簡単なことだよ。これを買った人はね。この小説だけを読んだんじゃない」

「へ?」

「この小説の向こう側に存在する、楓ちゃんのお父さんの人生も一緒に読んだんだ。17歳で小説家としてデビューして、子供を授かり、妻を失い、病に侵され、娘のためだけに物語を書くと決めた一人の男の物語。小説内にはほとんど記されていないけれど、文章の節々からそれが見て取れるんだ。まあ、本音を言うと、出版社がつけた帯も良かったんだろうけどね。『病に侵された小説家が綴った、愛する娘への物語』なんて書かれていたら話題にもなるさ。単なるフィクションだったらありがちだけど、そうじゃないからね」

「そう、だったんですか」

「人っていうのは、小説を読む時、単にその小説の内容だけで評価をするわけじゃないんだ。人は、どう足掻いても、人なんだよ」そう言って古谷は一冊の本を取り出して、私に見せた。「昔太宰治というそれはそれは有名な作家がいたんだが、彼はとある小説の脱稿を済ませた一カ月後に一人の女と入水自殺してしまった。そして、その更に一カ月後に刊行されたのが、『人間失格』、つまりこの作品だ。これはまるで太宰治の遺書だと錯覚するような内容で、その小説の登場人物も、やはり最後自殺してしまう」

「あ、もしかして、だから……」

「そう。結果、『人間失格』は、文庫本だけで考えると夏目漱石の『こころ』と人気を二分する大ヒット作品となった。私はこの事実を受けて思うんだ。もちろん、太宰治という作家が素晴らしい作家で、『人間失格』が面白いのは間違いないが、彼が小説内のように実際に自殺してしまったという事実が、作品の評価を押し上げる理由の一つになったんだって。『人間失格』は、太宰治の小説であり、遺書だととらえられたんだ。実際に読めばわかるさ。彼が自殺した、という事実知る前と、知った後では、必ず評価が変わる。それは無意識の内に小説以外、つまり彼の人生も、作品の評価に加えてしまっているからなんだ」

 古谷は深く息を吸った。

「もちろん、作家性を加味しないで売れる小説もたくさんある。それこそ星の数ほど。でもね、どんな時も忘れないで欲しい。AIが人間の身体を得て、人間と同じように生活をする日が来ない限り、人間が書いた小説の需要がなくなることはない。それは、AIがいかに優れた小説を書こうともだ。人は、人なんだ。だから、人の書いた小説を、人の人生を読むんだ。人生を送っていないAIには、天地がひっくり返っても、自分の人生は書けない」

 私はその言葉を受けて、お父さんが書いた小説を見つめた。

「……やっぱりお父さんの小説は一番だったよ」

 静かに、そう言った。

 

 

 

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きみのための物語 テル @teru1235

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