第2話
3
異様に低い背丈をさらに縮めるように腰を折り、用途不明のエプロンを身に着け、レジの奥に鎮座し、大きな虫眼鏡で小説を読む老人。それがここ、古谷古書店の店長、古谷一之介の姿だった。
店内の本棚と本棚の間隔は辛うじて人がすれ違うことが出来るほどしかなく、どの棚も天井まで伸び、あらゆる古書が隙間なく詰められている。床の上にはまだ値段のつけられていない本が要らないチラシのようばらまかれていた。おまけに入り口の外にも三つのカートがあって、その中には比較的安価な本が埃をかぶった状態で並べられていた。
「ああ、きみか」
レジの前に突っ立ていると、古谷がぼんやりと声を上げた。ここへ越してきた20歳の時から9年。彼とはもう長い付き合いだ。
「さっき吉見書店へ行ってきましたよ」
わたしは古谷の耳に聞こえるように、ゆっくりと大きく口を動かす。
わたしはとりあえず吉見書店で10冊のAI小説を購入し、その後ここへ来た。売れる小説を自分の手で生み出すと息巻いておきながら、その方法がまったく分からなかったのだ。とりあえず今名作として語り継がれている作品を買い集め、何か法則がないか調べるつもりだった。当然AI小説も売れ筋の作品だからチェックする必要がある。
「良い本は見つかったかい?」
「いいえ。AI小説ばかりでした」
古谷はわたしの口からAIという単語が出た途端、大袈裟に笑った。
「良いじゃないか。それを読みたい人がいるっていうことだ」
「良くないですよ。AIが書いた小説なんて、本音を言うと、毛ほども読みたくない」
「どうしてだい? 読んでみたことがあるのかい?」
「いや」わたしは首を横に振った。「これから読みます」
「売れているとうことはそれだけ面白いということだ。作家AI作成者によれば、売れる本にはある程度法則があって、それを踏襲して書かせているようだがね」
わたしは目を見開いた。やはりAI小説を購入したのは間違っていなかったらしい。
「しかし、もしその法則を完璧に守れるAIがいる場合、もうわたしのような物書きが名作を書くことは不可能になってしまうんでしょうか?」
わたしの問いを受け、古谷は今日初めて顔をしかめた。
「ううむ。それについて話すなら、まずは名作の定義からしなくちゃいけない。傑作との違いも確認する必要がある」
「わたしが思うに、傑作は突出して優れた部分のある小説で、名作はそれに加え、時を超えて残り続ける小説だと思っています」
「そうだね。とりあえず傑作と名作の区別はそれで良いとしても、では、その対象は誰だい?」
「対象というと?」
「たとえば私がこれを名作だと思うとしよう」古谷は手元にある古書、太宰治の『人間失格』をつかむ。「しかしきみにとってこれは駄作だったとする。そうなると、名作とは何だい?」
「多数決で決まるんじゃないでしょうか? 名作だと思う人の方が多ければ名作で、そう思わない人が多ければ違う。それだけの話だと思います」
「なるほど。私の中での名作の定義とは大分違うようだ。私にとって名作というのは、自分が名作だと思う作品であり、他者の意見で簡単に揺らぐものではない。たとえば妻との思い出の作品は、誰が何と言おうと名作であり続ける」
「そう、ですか」
老人は緑茶を口に含んだ。
「私は、きみは自分が名作を作れないと思い込んでいるだけだと思うんだ。きみとって名作ならそれは間違いなく名作だし、そうでなければ違う。それじゃダメなのかい? やっぱり世間でも名作扱いされたいのかい?」
「そりゃそうですよ。だからこんなに悩んでいるんです。今はまだわかりませんが、今後もAI小説が残り続け、それが名作だと証明された場合、もう人間に名作を書くことは不可能になってしまうんですから」
「まあ、きみの基準だとそうだね。でも私は思うんだ。おそらく、どれだけAI小説が優れていても、それを超える作品を生み出すことが可能だと」
「でも、人間の脳のメカニズムを完全に解明して、確実に大衆の心をつかむことが可能な小説が作り出されるようになったら、つまり、AIが人間を超えてしまったら、それを超えることなんて、無理じゃないですか? 今はまだ何とか食いついている状態ですが、今後は……」
「きみの基準で考えても、そんなことはないよ」
「どうしてですか? どうやって優れたAI小説に対抗するんですか?」
「対抗する必要はない」
「でも、対抗しなきゃわたしたち人間の本は売れなくなるばかりじゃないですか」
「大丈夫だよ。AIというのが、身体を持って、人間とまったく変わらない生活を送るようにならない限り、彼らは人間じゃないんだ。だったら、きみはまだ、もちろんきみの言う基準で、名作を書くチャンスがある」
「どうしてですか?」
「私たちは人間で、彼らはそうではない。そういうことだよ」
わたしには、古谷の言葉の意味がまったく分からなかった。
4
こんなに面白い本を読んだのは、いつ以来だろう?
それが、わたしがAI小説を初めて読んで抱いた感想だった。わたしの中で確立されていた人間が書いてない=人間味がないという図式は完膚なきまでに打ちのめされた。大抵の人間が書くより人間味にあふれているし、文章表現も豊かで、読みやすかった。長編を休憩なしで読み切ったのは久しぶりだった。
それから約二週間、わたしの生活は主に読書とプロット作成にあてられた。今までないがしろにしてきた、どうすれば今売れるのか、という点について突き詰めて考えた。すると十冊ほどAi小説を読み切ったところである法則が浮き出てきた。
まず、多くの人が理解しやすいトピック―ー友人、家族、恋愛、スポーツなど――を厳選して取り入れること。あまりに多くのトピックを詰め込むと話が複雑になる。文章も似たような傾向があって、難解な漢字や表現が多いものは売れない。ストーリー構成は映画でよく用いられる三幕構成方式が多く、これも分かりやすいものが良いようだ。そして大事なのが魅力あるキャラクター。特に主体性のある主人公が望まれる。
もちろん、この法則に当てはまることなく売れた作品も星の数ほどあるが、そういう作品は売れた理由を見つけるのが難しく、わたしが目指すべきところではないだろう。
ふと机の端に目をやると、電気ケトルの上部のモニターが緑色に点滅していた。わたしはコーヒーを淹れ、カーディガンを羽織ると、肌を掠める冷たい隙間風をしのいだ。モニターに向き直る。
「さて、やるか」
自分を鼓舞するように言うと、三つの法則に従ってプロットを作ることにした。一から話を作るのは時間的に厳しいから、以前途中で投げ出してしまった青春小説を元にアイデアを膨らましていく。
しばらく打鍵音を響かせていると、ふいに、古谷の発言が脳裏をよぎった。
『わたしたちは人間で、彼らはそうではない。そういうことだよ』
わたしは雑念を振り払うように首を左右に振ると、再びキーボードをたたき始める。深く考えちゃ駄目。せっかく一定の法則を見つけ出したのに、躓くわけにはいかない。
それにあの時は意地になっていたが、よくよく考えれば、わたしは名作を生み出す必要はない。ただ売れれば良い。1800円の単行本で印税率が10パーセントの場合、19万部売れれば3000万の印税が入る。文庫化のことを考えればそこまで売れる必要はないし、印税以外の収入だってある。後世に語り継がれる必要は微塵もない。
白紙だったワードが右端から埋まっていくのを見て、わたしは心を落ち着けた。
「ただいまー」
作業開始から数時間、午後三時半になった頃、玄関から楓の声が聞こえてきた。わたしは慌ててデータを保存すると、鬱蒼とした自室を飛び出した。
短い廊下の先、玄関マットの上に、楓が腰を下ろしていた。少し茶色がかった長い髪に覆われた陶器のように白い顔には、母親譲りの薄茶色の瞳があった。
楓はわたしが買ってきた楓を象ったストラップのついた真っ赤なランドセルを開き、中からクリアファイルを引きずり出し、一枚のプリントをわたしに差し出した。
「授業参観!」
わたしは楓の言葉を聞き、言葉を詰まらせた。
プリントに書いてある授業参観日の日付は11月3日、土曜日。余命で言えばまだ11カ月ほど猶予があるが、その1か月を丸々家で過ごせるほど甘くはない。症状が進行すれば入院を余儀なくされる日も来る。果たして行けるかどうか……。
「すまない。楓、お父さん、これ行けるかどうか分からないんだ」
「でも、お父さん、私に優しくするって言ってた」
わたしが余命宣告を受けてから一週間後。これからはなるべく家で執筆し、楓の側にいることを誓ったのだ。
「……分かった。行くよ」
楓の薄茶色の瞳は、子供ながらに妙な迫力があり、その両目に射すくめられると、わたしは何も言えなくなってしまう。妻の顔が思い浮かぶからだろうか。
「絶対だよ」
わたしは渋々とうなずき、楓の後を追うようにリビングへ向かった。
楓が小学校に上がる際、わたしは今の自室を楓に渡そうと考えていたのだが、「わたしよりもお父さんの方が必要でしょ」と断られてしまった。そういうところも妻によく似ていた。実際執筆にはかなりの集中力を要するためその通りだから言葉もない。
「お父さんそこ座ってよ」
気が付けばわたしはリビングの机を囲む椅子の一つに腰を下ろしていた。向かいの席に楓が座る。床に届かない足を揺らしながら、「ぶらぶらー、ぶらぶらー」と言った。
「どうかしたのか?」
わたしが恐る恐るたずねると、楓は腕を組んで眉間にしわを寄せた。
「お父さん。私に隠してることあるでしょ」
「……な、ない」
「お父さん。最近私にすごく優しい」
「それは、そう約束したからだ」
「そう約束してくれた理由が、私には分からない。だから多分、お父さんは隠し事をしてるんだと思う」
「してない」
「嘘は良くないってお父さん言ってた」
楓の薄茶色の瞳に映る世界は、嘘を許さないようだ。
「か、隠し事はある」
「ほら、やっぱりあるでしょ」
楓は自慢げにうなずいた。
「だが、その内容は言えない」
「え?」
楓は鳩が豆鉄砲を食ったように目を見開いた。
「言えないんだ。どうしても」
「どうして? 私たちは家族なんでしょ」
「もちろんそうだ。だが、家族だからこそ、どうしても言えないことがあるんだ」
「お父さんはわたしなんてどうでも良いんだ」
「違う。どうでも良くないからこそ、言えないことなんだ」
「どうでも良くないからこそ言えないこと」楓は単語一つ一つを噛みしめるようにゆっくりと言った。「全然分かんない」
「そ、そうだ! 楓。夢はあるか?」
わたしは思わず話を逸らした。
「ユメ?」
楓は異国の言葉を耳にしたように首を傾げる。
「そう。夢。将来これになりたい、これをやりたい、みたいなことはあるか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「今の内から夢を持っていると、将来有利なんだ」
「ふうん」楓は興味なさげに目を落とした。「そうなんだ」
「ないのか?」
「……お医者さんになりたい」
「い、医者か」
「そう。お父さんがいつも頭痛そうにしてるから、それを治すの」
「……良いことだ。頑張って勉強するんだよ」
「でも、お医者さんになるには、たくさんのお金が必要だって、わたし聞いた」
「そんなことない。お金の心配なんかしなくて良い」
「うち貧乏だよ」
「大丈夫なんだ。お父さんが次の作品で一発あてるから」
「一発あてる?」
「大ヒット作品を生み出すんだ。そうすれば医者なんてわけない。こんなおんぼろアパートともおさらばだ」
「本当に?」
楓は珍しく目を輝かせた。
「本当だ」
わたしは確信をもって答えた。大丈夫。次の作品は売れる。まだプロット作成の段階だが今まで自分が執筆したどの作品よりも万人受けする。絶対に大丈夫だ。
「良かった。じゃあわたし宿題やるね」
楓は憑き物が落ちたように明るい顔をしてランドセルから数学ドリルを取り出した。わたしは楓の頭を撫でつけてから、邪魔をしないように静かにリビングを離れると、自室に戻った。
何としても売れる作品を書かなくちゃいけない。
その使命を胸に、再び椅子に向かった。
4
ファミレスの喫煙席で煙草をふかしていた中西は、印刷されたわたしのプロットを読み終えて笑みをこぼした。
「面白いよ。というか、プロットの時点で面白いって思える小説なんてほとんどないからな。不思議だ」
「とにかく面白い物語を目指して書いてみました」
「そうだろうな。物語が面白ければ、プロットも面白くなる。小説の魅力は別に物語の面白さだけじゃないが、多くの人々がそれを重視する。だから、こうやって分かりやすく面白い物語っていうのは受けるはずだ」
「売れている小説の法則を、自分なりに解釈して書いてみたんです」
「なるほど。まあ、それが出来る時点で間違いなくおまえには才能があったんだろう。理論を学んで面白い物語が書けるなら皆やってる」
しかし、その発言とは裏腹に、中西は思いつめた様子で灰皿に煙草を押し付けた。
「ただ、それももうとっくにAIが達成してしまったことだがな」
「……そうですね」
わたしは冷めたホットコーヒーを喉に流し込んだ。
「これが20年前に書ければ、間違いなく大衆受けする作品が出来ていたはずのに。後世に語り継がれるかどうかは知らないが、ある程度のヒットは見込めただろう」
わたしはうなずいた。
「確認したい。人生最期の小説が、これで良いのか? AI小説の真似事をした大衆向け小説で良いのか? これは確かに良い物語だが裏を返せばそれだけだ。この小説には、おまえが見えてこない」
「わたしが、見えない」
「多くの作家は何か伝えたいことがあって小説を書くもんだ。特に処女作にその傾向が強い。自分がどうしても書きたいものを、必死に紡いで、文章にするんだ」
「でも、作家の中には売れることを目的に文字を綴る人もいますよね。別に伝えたいことがない人も。金儲けのためにやる人だって」
「いる。そしてそうやって売れた作家もたくさんいる」
「だったら……」
「何度も言うが、それは、20年前の話だ」
わたしは押し黙った。
「今は作家性が問われる時代だ。だが、おまえという人間を小説内に持ち込まず、AI小説に真っ向から立ち向かうというのなら、好きにやってみろ」
逡巡はなかった。わたしは深くうなずいた。
「大丈夫です。やってみます。わたしはわたしの書きたい物語じゃなく、売れる物語を書かなくちゃいけないんです」
「分かった」
中西はもう、何も言わなかった。
6
心地良い打鍵音を響かせながら、日々を邁進した。
プロットが完成してから1カ月。執筆はおそろしいほど順調で、今まで散々苦労しながら小説を作り上げていたのが嘘のようだった。緻密なプロットを立てたことが功を奏したらしく、1日約5000文字新規に打ち込むことが出来た。もちろん途中で書き直すことも多々あったが、それすら楽しくて仕方がなかった。
毎日一定以上の文字を追加出来たため、楓と過ごす時間も増えていった。締め切りに終われる生活から解放されたこともわたしの心を楽にした。
「お父さん、お仕事なくなっちゃの?」
「違う。むしろ逆だ」
「逆?」
「仕事がうまくいっているから、こうして楓と一緒にいれるんだ」
楓は大層喜んでわたしにあらゆるお願いをしてきた。幼い時からわがままを言わなかった楓のことを、わたしは勝手に大人びている子だと決めつけていたが、実際は違った。わたしに自由な時間が増えたと分かった途端、楓は「いつも一緒が良い」と言い出した。掃除、洗濯、風呂、料理、読書、睡眠。枚挙にいとまがない。特に楓は図書館と古書店へ行くことを好んだ。どうやらわたしに似て読書好きらしい。わたしはそれに可能な限り応えた。一緒にいればいるほど楓がいかに出来た子であるかが分かり、わたしは喜び、悲しんだ。
相変わらず頭痛と全身の痺れには悩まされたが、医師によれば病気の進行はきわめて遅く、年齢を考えると奇跡に近いと言われるほどだった、おそらく、継続的に行われた放射線治療と科学治療、規則的な生活、楓との幸せな日々が、わたしを癒してくれたのだろう。
しかし、すべてが上手くいっているように見えても、全身を巣くう数多の癌細胞たちは日夜努力に励んでいるらしく、わたしの死が抗いようのない事実だということは、依然として変わらなかった。
それでも日々は過ぎていき、気が付けば春になっていた。冬に葉を落としたキンモクセイは、日ごと生気を帯びていき、朝も、昼も、夜も、若葉の穏やかな香りが空気を満たした。近所の小川に咲き始めた桜は、楓が5年生に鳴る頃には満開をむかえた。わたしたちは木漏れ日が注ぐ満開の桜の下をよく並んで歩いた。
「小説。出来上がったんだ」
わたしは自身の執筆状況について、その日初めて楓に言った。
「お父さん。いつも頑張ってたから、きっと売れるよ」
わたしはその言葉に喜んだが、少し考えて、楓が「きっと売れるよ」と言ったことに疑問を抱いた。
「どうしてお父さんが売れたがっているのを知っているんだ?」
「そんなの見てれば分かるよ。私の目は、嘘を見抜く力があるの」
冗談めいた口調で言った楓の薄茶色い瞳を見ると、本当に嘘を見抜く力がある気がしてくる。
「これからは気を付けないとな」
わたしが小声で言うと、楓は「そうだよ。私には全部お見通しなんだから」と誇らしげに鼻を鳴らしていた。
やがて、出来上がった小説を中西に渡した。なぜかわたしは新人賞の授賞式よりもはるかに緊張した。
「大丈夫だ。大丈夫。これはきっと売れるよ。おれが保証してやる」
中西はいつものように大袈裟に笑った。その日だけはわたしも一緒になって笑った。自分の書きたいこととは少し違っていたが、わたしは今回仕上げた作品を、心の底から面白いと思っていたからだ。きっと売れる。そうやって、不安に押しつぶされそうな心を、根拠のない自身でたっぷりと満たした。
そして、楓が新しい教室に慣れ始めた頃、ようやくわたしの小説は刊行へと至った。初版1万部。出版不況の中ではずいぶんと多い方だ。わたしはそれを出版社からの期待と捉え、一時的に執筆活動を辞め、楓との日々をとにかく大事にし、結果の報告を心待ちにした。
やがて春の陽気を打ち消すように長い梅雨がやって来た。毎朝窓の外には曇天が広がっていたが、わたしは心を曇らせることもなく、自分を信じて一心に連絡を待った。書店へ行くのだけはどうしても気が引けたが、図書館や古書店は相変わらず何度も訪れた。
6月も後半になると雨の日が少なくなり、ある日を境に蝉が飛び交うようになった。少し早い夏の到来だった。我が家では初日からクーラーを稼働させ、楓の水筒にはお茶の代わりにスポーツ飲料を投下、冷凍庫に楓が好きなレモン果汁入りのアイスを買い込み、熱中症に備えた。学校でも早い段階からクーラーの使用が認められているようで、安心した。
中西からの連絡が来たのは、六月が終わる寸前だった。
「……残念だが、今回は、初版止まりだ」
その言葉を耳にした時、わたしの心の中で辛うじて留まっていたも何かが、音もなく崩れ落ちた。
わたしは黙って、電話を切った。
7
「申し訳ないが、楓ちゃんは引き取れない」
中西からそう告げられた時、わたしは頭が真っ白になった。
楓の将来の明暗をかける大勝負に、呆気なく敗れたことが現実味を帯びてくる。
死期の近いわたしへの応援を込めて刷られた1万冊の本の多くが、書店にすら残らずに出版社へ戻されていた。わたしは書籍化した自分の作品を遠方の書店で見かけ、思わず購入した。クーラーで十分に冷やされたリビングの机にそれを置き、両目を閉じて、時計の針が進む音をじっくりと聞いた。
やがて時間が来ると、わたしは電車を乗り継いでアルバイト先に向かった。職歴と体力のない29歳男が選べた唯一の職業は、簡単なデータ入力だった。それも紙をなくす仕事だ。売れない小説家にはちょうど良かった。企業や個人宅に眠っている紙媒体の情報、特にAIでの解読が困難なものを、ワードかエクセルに打ち込む作業が主な仕事だ。
わたしはこの仕事が比較的好きだった。頭をほとんど空っぽにして文章を書くのは新鮮だった。目の前にある文字を認識して可能な限り正確に素早く打ち込む。それだけだ。タンタンタン。無機質な打鍵音が部屋中の至るところに転がっている。タンタンタン。一丁上がりだ。
家に戻ると、楓がわざわざ料理を作って出迎えてくれた。図書館で借りた本を参考にしているらしく、時々ミスをして飛んでもないものが出来上がることもあったが、美味しかった。まずいけど笑顔で食べる、ではない。ただ純粋に、美味しいと思った。理由は分からなかった。
「お父さん。小説、書かないの?」
楓は叱られた子供のような表情をして、何度かそうたずねてきた。
「書かない」
わたしはその度に首を横に振った。売れない小説を書いている暇があるなら、シフトを増やして金を稼ぐか、楓と一緒にいた方が良い。小説を好き勝手に書けるのは十分な時間と金があるやつだけだ。
何度も断っていると、楓はその内何も言わなくなった。
いつしかわたしはバイト先と家を往復するだけの日々を送るようになった。日に日に夏が深まっていく。徐々に蝉の鳴き声を不快に感じるようになり、やがて風鈴の音色すら嫌になった。
病気の具合は最悪で、目覚めた時の頭痛は鈍器で頭を殴られているようだった。手足の痺れも冗談では済まないレベルに達し、仕事に支障を来すようになった。目は正常だったためミスはなかったが、タイピングが異様に遅くなった。「もう少し早く打ってもらえないかな?」という上司の優しい言葉は一週間後には「真剣にやってくれ」に変わり、更に一週間後には「申し訳ないが、辞めてもらいたい」になった。わたしは仕事を失った。
その日の帰り道は本当に暑かった。夏の日差しに熱せられたアスファルトから立ち上る陽炎が、わたしの視界を曖昧にさせた。水分も取らずふらふらとさまよっていると頭がぼんやりとしてきた。思考も陽炎のように揺らいで、自分がどこにいて、何をしているのか、その内分からなくなっていく……。
駅から自宅までの五分が永遠に感じられた。全身から汗を垂れ流しながら、足を引きずるようにして歩を進めた。蝉の鳴き声に共鳴して痛みだす頭をおさえる。限界だった。水を失った喉は空気を吸うたびに燃え上がるように熱くなった。規則的に呼吸することすら困難になったわたしは、蚊の鳴くような声で言った。「だ、だれか」と。道に誰がいたかは分からない。助けてほしかった。
古谷古書店。
その看板を目にした時、わたしは、自分の意識が底知れぬ闇へ落ちていくのを感じた。
8
薄く霧がかかったような視界の先、見知った顔がある。茶色がかった髪に包まれた陶器のような白い顔にある薄茶色く大きな瞳。その人物が必死に大声を出している。「ぅとうさん!」私は首を傾げながらそれをじっと見つめる。「っとおさん!」徐々に言葉が鮮明になっていく。おぼろげだった視界が焦点を結ぶことによって明瞭になり、全身を包む布団と、白に覆われた部屋、そして、楓を映し出す。
「お父さん!」
わたしは目をいっぱいに開き、その言葉に応えようと腕に力を入れる。
「あ、あれ」
わたしの右腕は、ピクリともしなかった。
「お父さん! お父さん、大丈夫!? どこか痛い?」
「い、いや。大丈夫だ。楓、ありがとう」
わたしは声を発しながら安堵した。
「ここは病院だよ。お父さん、今日のお昼頃、古本屋さんで倒れているところを見つけられたの!」
「そ、そうか」
「良かった」
楓は目元にたくさんの涙をためてわたしを見た。頭の中に散乱していた記憶の欠片が元に戻っていく。
「ごめん」
わたしが謝ると、楓は泣きながら笑った。よく分からない表情だった。
「心配、したっ」
「ごめん」
「心配だったっ!」
「本当にごめん。小説が売れなくて、父さん、たぶんおかしくなったんだ」
「ごめんじゃ済まないんだから!」
楓は小さな手を交互に使って何度もわたしの右上でを叩いた。わたしはそれを他人事のようにじっと見つめていた。あれ? おかしい。いくら9歳でも、これだけ熱心に殴られれば少しくらい痛みを感じても良いはずなのに。
わたしは今度は左腕に力をこめる。電流が走ったように少し動いたが、それだけだ。右腕は、やはりピクリとも動かない。
「お父、さん?」
わたしは自分の頬に涙が伝っているのに気付いた。あれ? どうして? どうしてわたしは泣いているんだ? わたしは悲しくない。自分の脳に腫瘍があって、摘出手術もうまくいかず、放射線治療と化学治療に頼って生きてきたことは、十分に理解しているじゃないか。今更どうして悲しむ必要がある……だって、わたしは、もう……。
「お父さん。腕、動かないの?」
楓がわたしの右手を持ち上げて言う。
「あ、ああ」
「そ、そんな! じゃあ、お父さんは、もう!」
小説を書けなくなっちゃたんだ!
その言葉は、まるで水中で聞いたように不鮮明で、しかし不思議とはっきり聞こえた。
「は、はは」
わたしは楓と同じように涙をボロボロと流しながら笑った。自分の右手と左手を交互に見つめる。脳からの命令にストライキを決め込んだ二つの腕が、置物みたいにベッドの上に転がっていた。わたしはその様子を見て、涙の理由を悟った。
ああ、わたしは、小説が書けなくなって、泣いているんだ……。
やっぱりわたしは、こんなになっても、小説が書きたかったんだ。
自信作ですら売れないという烙印を押された今でも、わたしの根っこは小説に張り付いて微動だにしない。データ入力が楽しいなんて嘘だ。自分で考えていない文章を書くのが一番辛いのは、誰よりも理解しているはずなのに。
「お父さん」
楓は目元に溜まっていた涙をか細い手で拭い、充血した目を向けた。
「どうしたんだ?」
「やっぱり、小説書こうよ」
楓の薄茶色の瞳の前では、嘘をつけない。
「こんな腕じゃキーボードは叩けないよ」
「私が書くよ。お父さんが話して、私がキーボードを打つの。でもそれだとすごい時間がかかるから、えーあいに書いてもらった方が良いかも。直すのは伝うよ!」
「でも、どうせ売れないんだ。誰の心にも響かないんだ。だったら、そんなもの書いたって意味がない。時間の無駄、無駄なんだよ……」
「そんなことないよ」
楓にはっきり言われると、本当に、そんなことないような気がしてくる。
「でも……」
「私のっ!」楓はわたしの右手にすがりついた。「私の心には響くよ! 他の皆がそうじゃなくても、私はお父さんの書く物語、大好きだよ!」
「楓。嬉しいけど、嘘は良くない。まだわたしの小説なんてまだ理解出来ないだろう。習ってもいない難しい漢字がいくつもある、絶対に、分かるわけない」
「ち、違うよ! 昔、お父さん絵本書いてくれたじゃん!」
「絵本?」
「そうだよ。お父さん、私のために絵本書いてくれたんだよ。忘れたの?」
「あ、ああ。そう言えば、そんなこともあったな」
昔幼稚園へ通ってきた時の楓は、ひどく落ち着きがなく、絵本の読み聞かせの時間になると必ず暴れまわっていた。当時わたしは子育てに全力を注いでいたが、母親の代わりにはなれなかった。楓はことあるごとに自分の不満を周囲にまき散らした。
わたしはその対策として、楓の好きなものを詰め込んだ一冊の絵本を書いた。小説家のわたしにとっては最初で最後の絵本となったが、楓に読み聞かせたら、思いのほか好評だった。毎日読み聞かせを続けていると、楓は少しずつ幼稚園での読み聞かせをきちんと聞くようになり、家でも読書をし出し、落ち着いた子供へと変化した。
「私、あの絵本、大好きだった……。あの絵本をが面白かったから、私、読書するようになったの」
「そう、か」
「今まで読んだ本で一番面白かったよ。あの本が」
楓の言葉を聞いた途端、わたしの頭の中に、よぼよぼの老人が掠れた声で放った言葉が蘇った。
『わたしにとって名作というのは、自分が名作だと思う作品であり、他者の意見で簡単に揺らぐものではない。たとえば妻との思い出の作品は、誰が何と言おうと名作であり続ける』
楓にとって、わたしが書いた絵本は、名作だったのだろうか?
目の前でわたしをじっと見つめる楓を見つめ返す。
「だからお父さん、また書こうよ」
想像してみた。
それは、きっと売れる小説ではない。物語は支離滅裂で、構成はぐちゃぐちゃで、大衆のためには書かれておらず、ただ一人の女の子に向けて書かれた自己満足の物語。ひどく退屈で、大抵の人間が最後まで読まずに放り投げるだろう。それでも、一人の女の子の心の中には一生残り続ける。そんな作品。
わたしは、それを書こうと思った。
何もかも勘違いしていた。
どうせもう何を書いても売れないのなら、働くことも出来ないのなら、自分が一番大好な小説を、楓のためだけに書こうと。
楓にとっての名作を書く。
それだけで良かった。
「書くよ」
わたしは自分でも驚くほど強く言った。
「え?」
楓は大きな目をさらに大きくし、きょとんとする。
「書くよ。他の誰でもない、楓のための物語を、命をかけて、書いてみせる」
「お父さん!」
胸に飛び込んでくる楓を、動かない両手で必死に抱きしめた。
わたしに残された時間が少ないことを知って散々泣きわめいた楓を家まで送り届けてくれたのは、やはり中西だった。
「おれ、楓ちゃんを引き取るよ」
中西は死にぞこないのわたしを見てそう言った。
「良いんですよ。もう」
「え?」
「わたしはずっと勘違いしていました。楓はわたしみたいに臆病で、寂しがり屋で、繊細なんだって。でもそんなことなかった。あの子は本当に強い子です。きっと楓なら、どこへ行ってもうまくやれる」
「だ、だが……」
「楓なら大丈夫です。あなたにはあなたの生活があります。だから、大丈夫」
「……そう、か」
「ただ、一つお願いしたいことがあるんです」
「お願い? 何だ? 何でも言ってみろ」
「最期に一作。小説を書かせてください」
「小説……? でも、出版できるかは分からないぞ。それに、たとえ出版にこぎつけたとしても、その……言いにくいんだが……売れないかもしれない」
「良いんです」
「え?」
「売れるとか、売れないとか、そういうのはどうでも良いんです」
わたしが迷いのない目を向けると、中西はいつもみたいに屈託のない笑みを浮かべた。
「そう、か。そうかそうか。分かった! 何かよく分からないが、書きたい物語があるんだろう? おれが最後まで付き合ってやるよ! 何なら出版だって!」
中里は強く胸を叩いた。
そして、わたしの人生最期の執筆が始まった。
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