きみのための物語

テル

第1話


 1 


 青々とした葉の中に咲く可愛らしい橙色の花を見つめ、わたしは静かに笑みをこぼした。

 半袖で一日を快適に過ごせる季節は終わり、代わりに秋がやって来た。道の両脇は満開のキンモクセイでいっぱいだ。冷風に乗った甘い香りが、わたしの身体を柔らかく包んでから、鼻孔へと流れ込む。肺を膨らませて、その空気を大いに味わった。

 キンモクセイの香りがしなくなった頃、わたしは自動ドアをくぐっていた。今度は新品の本の香りが空間全体にあふれていた。町で唯一生き残っている書店、吉見書店だ。

 店内に入るとすぐ右手に無人レジがあり、左手に階段があった。一階は漫画や雑誌がほとんどで、小説や新書は二階にある。階段を上った先には、特設コーナーが設けられており、月間売り上げ上位10作品が並んでいた。

 わたしは特設コーナーの前に立つと、1番を占有する作品に視線を注ぎ、深いため息を漏らした。それは、空と海の境界に白い服を来た男女が並んだ特徴的な表紙が目立つ「ブルーライトが消えない内に」という今年発売した青春小説だった。すべての本がラッピングされているから詳しい内容は分からなかったが、特段つまらなそうな本ではない。しかしわたしはその著者名を見て、大袈裟に肩を落とした。

 佐久馬幹人。いかにもペンネームらしいその名は、今年とある新人賞を受賞してデビューした新規気鋭の作家だ。そして、現在わたしの手元にある「ブルーライトが消えない内に」は、デビュー作ながら直木賞も受賞しており、2036年1月の発売以来、毎月この店の月間ランキング首位の座に君臨し続けていた。しかし珍しいながらもそういう事例はいくつかある。わたしが苦虫を噛み潰したように呆然と立ち尽くしていたのは、

 彼は、AI、すなわち人口知能だった。一般的にAIとは人工的(工学的)に作られた知能であり、その知能レベルの定義は様々だ。時には人と同程度の知能であり、時には人を超える知能でもある。2016年にAIが星新一賞の一次選考を通ってから20年。人工知能は飛躍的な進化を遂げた。明確な定義はまだ議論の最中だが、少なくとも、創作のある一点において人間はすでに超えられてしまったのだ。

 わたしはそのまま月間売上ランキングの10位まで確認する。先月と同じで、その内8作品がAIによって書かれた小説だった。人間によって書かれた小説は6位と9位に位置するが、どちらも長年活躍してきた有名作家であり、わたしのような底辺作家には到底手が届かない存在だ。

 今はまだ違うが、その内、売れる小説と売れない小説が明確になり、AI小説のみが店頭に並ぶ日が近いかもしれない。そうなった時、人間ははどんな作品を書けば良いのだろう? 売れることがすべてではないが、一体何のために創作をするのだろう? 少なくとも、その時生きていたら、わたしは……。

 わたしははっとした。ここへ来るといつもそうだ。自分を見失い、出口のない迷宮に迷い込んでしまう。わたしは自分を律するようにこぶしを強く握ると、何も買わずに書店を後にした。


 2


 青白い顔をした医師から告げられた「脳腫瘍ですね。余命はせいぜい1年でしょう」という言葉は、彼の風貌も相まって、悪魔からの死刑宣告そのものだった。

 摘出手術を受けて一週間が経ったが、わたしの胸の内にくすぶる不安は消えなかった。

 書店から家に戻ったわたしは、玄関に飾られた三人で取った家族写真を眺め、靴を脱ぎ捨てた。四つの錠剤を水と一緒に胃に流し込むと、脳の痛みと全身の痺れが少し和らいだ気がした。自室のドアを開ける。

 わずか四畳半の空間の至る所に本が積まれていた。壁沿いに置かれた机の上で怪しく光る二つのモニターに目をやると、完成済みのプロットと書きかけの小説が並んでいる。私は椅子に腰を下ろし、キーボードの上にそっと手を添えた。いつものように文字を打ち込み始めてみたが、わずか三行ほど書いただけでひどい吐き気に襲われた。最近はいつもこうだ。締め切りが近いのに、身体が執筆を拒む。

 17歳で小説家として生計を立て始めてから12年。プロットも作らずに自由気ままに筆を走らせていたデビュー当時は順調だったが、わずか数年後には仕事のほとんどをAIに奪われていた。それでも作家を辞めなかったのは、辛うじてファンがいてくれたこともそうだが、何より死ぬまでに名作を生み出したかったからだ。当時青臭さの塊だったわたしは、この世界には、他の誰でもない、わたしにしか書けない物語があると信じて疑っていなかった。

 しかし、それももう終わりだった。AI作家があらゆる賞を総なめにした時点で気が付くべきだったのだろう。わたしにしか書けない物語など、存在しないのだ。

 電気も点けずに椅子に揺られながら染みの浮いた天井を眺めていると、過去の様々な出来事が、泡沫のように浮かんでは消えていった。少し早いが、これが走馬燈なのかもしれない。

 記憶の底から何度もわきあがってくるのは、決まって妻のことだった。

妻に出会ったのもちょうど今と同じ季節だった。キンモクセイの香りに包まれた、四方を校舎の壁に囲まれた中庭で、わたしが書いた短編小説を読み、子供のような無邪気さで何度も面白いと言ってくれた。無垢な学生だったわたしは、その一言に突き動かされて小説家になると決めた。幸運なことに、17歳でとある新人賞の大賞に選んでもらった。

 家族と不仲だったわたしたちは、お互いが18歳になると、周囲の反対を押し切り、半ば駆け落ちのように同棲をはじめ、20歳に子供を授かった。秋に産まれたから名を楓とした。その時のわたしは、世界で一番の幸せものだと心の底から思っていた。そして、彼女もそう思ってくれていると盲目的に信じていたのだ。

 それがわたしの一方的な勘違いだと分かったのは、楓が産まれてわずか二年後のことだった。籍を入れてないことを不思議に思わなかったのは、本当に愚かだった。彼女はわたしの金を持ち出して姿をくらましてしまったのだ。わたしは無一文になりかけたが、他に出来ることもないため、ただ文章を書き殴って、楓との日々を守るため日銭を稼いだ。いつか名作を作り出せる日が来ると信じて。

 そしてもう七年が経った。つい先日まで言葉を話すのに苦労していたはずの楓も、立派に小学校生活を送っているようだった。わたしと違い、人付き合いが上手く、活発な子供だった。学業、運動共に優秀で、きっとこれから輝かしい未来、無数の選択肢が伸びているはずだ。楓なら何にだってなれるんだ……。いや、本当にそうだろうか?

 わたしは唐突に机の引き出しを開き、中から預金通帳を取り出した。貯金総額はわずか100万円。それだけだった。

 余命宣告を受けてから二週間、わたしはただ呆然と日々を過ごしていたが、今日になってようやく、その事実が現実味を帯びてきた。

 わたしが死んだら、楓はどうなるんだ?

 当たり前の疑問が今更ながら全身に重くのしかかってきた。わたしには一応母がいるがとにかく折り合いが悪く、到底助けは得られない。児童養護施設? 里親制度? どちらも駄目だ。楓は確かに人当たりが良いが、見ず知らずの人間がいる空間に押し込められて簡単に順応できるほど図太くはない。繊細なのはわたしに似ている。出来れば気心の知れた人間と一緒に暮らして欲しい。

「頼んでみるか」

 わたしはウェアラベルに呼びかけると、唯一の友人で担当編集者でもある中西に電話をかけた。

「もしもし」

「あ? ああ! 椋平か」

 中西はわたしが十七歳でデビューしてからずっと担当してくれている編集者だ。はつらつとしていて、悩みごとなど皆無に見える男だった。楓が小さい時よく遊び相手になってくれた穏やかな側面も持ち合わせている。

「ちょっと頼みがあるんですが……」

「ん? 締め切りなら伸ばさないが」

「いいえ、そうじゃありません」

「そうか。残念ながら女は紹介出来ない」

「それも必要ないです」

「じゃあ何だよ」

「不治の病にかかりました」

「……フジノヤマイ?」

「どうやら後1年で死ぬようです」

「病気なのか?」

「はい」

「病名は?」

「脳腫瘍。摘出手術を行いましたが、全部を摘出することは出来なかったようです」

「ふうん。そうか。大変だな」電話越しにライターを点ける音が聞こえた。「で、どうするんだ? 本当に1年後に死ぬなら、色々やらなくちゃいけないことがあるだろ」

 中西は淡々と言った。煙草をふかしているようだ。

「驚かないんですね」

「いや、正直何かしらの病気だと思ったよ。だっておまえいつも言ってたろ? 毎朝すごい頭痛がして、手足が痺れるって。何度も病院に行けって言ったのに」

「そうでしたね。すみません」

「いや、死ぬのはお前だから別に良い。で、おれは何をすれば良い?」

 中西は察しが良い。以前わたしが病気で少しの間入院した時もそうだった。わたしがもっとも気にかけていることの解決を手伝ってくれる。

「楓をお願いします」

 スピーカーからため息が漏れてきた気がした。

「断る」

「お願いします」

「……お前、今のおれの話を聞いてなかったか?」

「聞いてますよ。その上でお願いしているんです」

「いや、おまえの言いたいことは分かる。愛する娘が心配なんだろ? 楓ちゃんはとっても良い子だし、おれはおまえと気が合うから、出来れば面倒を見てやりたいが、残念ながらそんな金はない。女の子一人を大人に育て上げるのに、どれだけの金がかかるか理解しているか?」

「いくらかかるんですか?」

「その子の進路にもよるが、1000万から2000万くらいかかるって言われてる。楓ちゃんはもう9、10歳だっけか? それでも大学まで行くことを考えると、1000万くらいかかるんじゃないか?」

「……1000万」

「そうじゃなくても、天涯孤独の娘に何も残さないってのはどうなんだ? どうせ貯金も大してないだろう」

「全部で100万円です」

「それもこれから切り崩れるわけだろ。もし楓ちゃんが医者になることを夢見てたらどうするんだ? 私立に行かれた場合、莫大な金が必要になるぞ。そうじゃなくても、楓ちゃんが何かしたいって言ったときに、金がなきゃ何も出来ない。良いか? よく聞け。世界一の才能を持って生まれても、それを生かす場、つまり金がなきゃ無意味なんだ」

「夢……」

 楓の夢。考えたこともなかった。思えばわたしは今の生活を守ることで精一杯で、それ以外の何もしてこなかった。父親らしいことは一つもしていない。

 もし楓が夢を持っていたと知ったら、病に侵されなかった未来のわたしはどうしただろう? おそらく、何を犠牲にしてでもその手助けをするはずだ。妻の靴が玄関に並ばなくなった時に誓ったのだ。楓の幸せがわたしの幸せで、楓の夢がわたしの夢だと。

 わたしは乾いた喉にこべりつく痰を飲み込んだ。

「……稼ぎます」

「稼ぐ?」

「1000万でも2000万でも稼いでやりますよ」

「どうやって?」

「わたしは作家です。稼ぐ方法は一つしか知りません」

「そうか」中西は少し間を置いた。「もし本当に稼いだらおれが責任を持って育ててやるよ。連載中の作品は全部終わらしておく。せいぜい頑張れよ」

 わたしは短く礼を言って電話を切った。

 仲良く並んだ二つのモニターを見直す。眼鏡を拭く要領で薄汚れた画面を綺麗にしてから、背筋を伸ばして椅子に座りなおした。

 AI小説が流行し、分かりやすいエンタメを書くよりかは、人間にしか書けない物語を書くことが好まれる時代。それでもわたしは、多くの人の心の琴線に触れる作品を意図的に仕立てあげる必要があるのだ。

 わたしは新たなプロットを作り始めるため、キーボードを叩き始めた。

 もう吐き気はしなかった。

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