第1章 勇者さまの耐えられない軽さ④

 クノハは念入りに旅の準備をした。使い道がなく死蔵していた金を引っぱり出して、軽くて丈夫な麻の服を新調した。そして長めの睡眠をとり、体調を整えた。


 ヴァナの村はクノハが隠遁している山から、山を三つ越えたところに位置する。ふつうの人間なら急いでも二日はかかる距離だが、クノハならば湯が冷めきるよりも早い時間で到着することができる。


 だからこそ油断してしまったのだ。


 ロゼが出立する日の朝、ヴァナの村から宿場へとつづく街道にクノハは出向いた。ロゼはこの街道を通り、宿場から出る馬車に乗って目的地のトッカの町へ向かう。


 しかし街道には人っ子一人いなかった。かわりに、サギらしき白い鳥が数羽、一カ所に固まるように群れて翼をバタバタさせている。


 すごく嫌な予感がした。サギは肉食だ。

 身体中から冷や汗が噴き出る。


「あ、ああ……!」


 クノハはサギに駆け寄り、手をでたらめに振り回した。


「あっち行け! 散れ!」


 サギは飛びあがったが、からかうみたいにクノハの回りを飛び回る。クノハも意地になって、まるで激しいダンスでも踊るみたいに手を振り回す。


 サギはようやくどこかへ飛んでいった。クノハはほっとして下を見る。


 今度はウサギが群れていた。


「たかるな!」


 クノハはウサギも追い払い、目をもどした。


 白銀の鎧兜を身につけた人物が倒れている。白銀の鎧は聖騎士のみが身につけることを許される防具である。ちなみに、ロゼの職業は聖騎士だ。


「おお……」


 クノハはうめいた。足から力が抜けて地面に膝をつく。


 ――まさかこんな序盤で……。まだ旅すらはじまってないじゃないか……。


 ヴァナ周辺には危険な魔物は生息していないはずだ。それなのに、なぜ、なぜ。クノハは自問しながら、聖騎士のかたわらにひざまずいた。


 ――すまない……俺がのんびりしていたばっかりに……。


 スコー、と妙な音が聞こえてきた。


「ん?」


 頭を巡らせて周囲を見るが、街道にはクノハと聖騎士の鎧のみ。風でも吹いて鎧に反響したのだろうか。


 クノハは恐る恐る兜をはずした。


 さらり、と流れ落ちた銀色の髪が陽光を受けて白く輝く。彼女は鎧の首当てに後頭部を乗せて目をつむっていた。


 思わず息を飲んだ。つんとした鼻、つやつやしたくちびる、ふっくらとした頬。まるで芸術家が磨きあげた造形物のような色と形。ほかの部位と比べて愛嬌さの際立った垂れ目が、美しいだけではない人好きのする雰囲気を醸していた。


 しかしもう、彼女がその目を開けることはない。クノハは後悔と罪悪感から逃れるように目をつむった。


 すう、とまた空気の漏れるような音がしてクノハはまぶたを開いた。


 その音はロゼのピンク色のくちびるから漏れていた。


 ――熟睡してらっしゃる……!?


 ロゼは死んでいなかった。死んだように眠っていただけだった。クノハは驚き呆れ、安心した。そしてつぎにやってきた感情、それは怒りだった。すうっと大きく息を吸い、


「起きろやあああああ!」


 と、耳元で怒鳴りつけた。ロゼは鎧のなかでびくんと身体を震わせた。手足をばたばたがちゃがちゃさせるが起きあがれない。


 クノハと目が合った。ロゼはのんびりした口調で言う。


「え、どうしたの……?」

「それ、俺がいま言いたいセリフランキング第一位のやつな」


 ロゼはぱちぱちとまばたきした。


「わたしは――寝てた」

「情報が増えない……」


 クノハは額を押さえた。


「なぜ寝ていたかと聞いてる」

「鎧が重くて……」


 ロゼは鎧だけでなく、背中には大剣まで背負っていた。


「お前……それで旅に出ようとしたのか?」

「パパが外は危ないからって用意してくれたんだよ。でも村を出てすぐに『重い』って気がついて」

「気がついて?」

「でもまあ『なんとかなるかなあ』って思って」

「思っちゃったかあ……」

「しばらく歩いてみたら、これはちょっと無理だなあって。少し休憩しようと思って腰を下ろしたら背中から倒れちゃって、ずっとこのまま。うふふ」

「そっかあ」


 ――彼女と話をしていると牧歌的な気分になってくるのはなんなんだろうか?


「ぐったりしてるから死んでるのかと思ったぞ」

「死んでないよお。どうせ動けないし寝てただけ」

「なんなのその割りきりのよさ……」


 これが『開いた口が塞がらない』というやつか、とクノハは心底理解した。


「動物がたかってたからてっきり、その……もう土に還りはじめてるのかと」

「わたし、寝てるとよく動物が集まってくるんだあ」


 ロゼはほわほわとした微笑みを浮かべた。


 ――ああ……わかる。なんか知らんけどすっごい動物に好かれそう。


「わたしね、旅に出るんだ」


 ロゼは空を見やり、自分のことを話しはじめた。


「ヴァナの村で生まれてずっとそこで育ったの。外は危ないからってパパが言うからほとんど外に出たことがなくて、でもずっと『外の世界はどうなってるんだろう』って想像してた。たまにやってくる旅のひとから珍しいアイテムとか本を譲ってもらって、それを部屋に並べて……。パパもママも村のひとたちも好きだけど、いつか外の世界に行きたいって気持ちはどんどん大きくなっていった。そしたらこの前、女神さまがやってきて『あなたは勇者だから魔王を退治しなければいけません』って言われて。『これだー!』って思って。だからわたしは」


 ロゼは真剣な表情でクノハを見た。


「勇者として立ちあがったの!」


「寝てるけどな」

「あははー」


 ロゼは「あちゃあ」みたいな顔をした。


 ――あはは、じゃねえよ。


「お前な、見も知らない人間に自分のことをぺらぺら話しすぎだ。聞くかぎり、そこそこ裕福な家の娘なんだろ? お前をさらって身代金を要求するかもしれない」

「大丈夫だよ」

「だから……もっと疑えよ。世界は甘くないんだよ。とくに人間は魔物より怖いんだぞ。信用すると痛い目を見る」

「さらうの?」

「さらわないけど」

「ほら大丈夫だった」


 ――こいつ……緊張感の欠片もないな。


 ロッカからロゼに与えられた啓示は『トッカの町の鉱山に住みついて悪さをするオロチを退治せよ』というものだが……。


 ――町にたどり着けるかも怪しい……。


 ともかくこのままでは埒があかない。クノハは鎧と首の隙間に手を差しこんで引き起こした。立ちあがったロゼはほっとしたように息をついた。


「ありがとう! わたしはロゼ。あなたは……」

「クノハだ」

「ありがとうね、クノハ」


 屈託のない微笑みを向けてくる。


「……」

「? どうしたの?」

「え? あ、いや、なんでもない……」


 ロゼの声ではっと我に返り、視線をそらした。


 久方ぶりに生身の女性を間近で見たとか、影で人助けをしてきて礼を言われたのははじめてだったとか、ロゼのあまりの無防備さに呆れたとか、言葉を失ってしまった理由としてそれらも決して嘘ではない。


 ただ一番の理由は、単純に――見とれた。だからなにも言えなくなってしまった。


「ところでクノハはこんなところでなにをしてたの?」

「あ、そうだそれだ!」


 クノハは照れ隠しに大声を出した。


「神託を受けた勇者が魔王を退治するためにヴァナの村から旅立つという話を聞いてな、そいつを出し抜いてやれば名声を上げられると思ってやってきたのだ!」

「そうなんだ――わあああああ!」


 ロゼは手をバタバタさせながら、今度は前のめりに倒れた。カエルが平泳ぎするみたいに手足を動かすが、やがて力尽きてぐったりした。


「く、クノハ……もう一回、助けて」

「……話が進まないから、村に帰って軽装に着替えてこい」

「そうする」


 引き起こされたロゼは、鎧をがちゃがちゃいわせながら村へ引き返した。

 クノハは深くため息をつき、街道沿いの岩に腰かけた。

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