阿賀孝典/6:マーチ

 大人になってしまったと思ってた。


 色あせた世界でタスクをこなして、あとはぬるくて穏やかな日々が続いて行くことを喜ぶためだけの、そんな人生のフェーズになったんだって思ってた。


 でもさ、まだ、こんなに胸が震えるんだよ。

 やりたいことが、こんなにあるんだよ。

 なりたい自分が、どこかにいるんだよ。

 来てない未来が、そこにあるんだよ。


 俺はいつのまにか勝手に、未来の自分を殺してたんだ。


 進め、進め。


 誰がなんと言おうと、歳をいくつとろうと。

 心臓が動く限り、明日が来る限り。

 とにかく、今日とは違う場所に。


 大丈夫。


 間違ったって、構わないから。


* * *


 花火大会の翌日、朝10時。


 随分と深く眠っていた。


惰眠だみんむさぼる』でも、『泥のように眠る』でもいい。


 自分が液体になってしまうんじゃないかってくらい、今までの不眠分を取り戻すみたいに、本当に深く眠った。


 なんだか、いくつも夢を見た気がする。


 起き抜けにまず、昨日の夜のことを思い出した。


『いってらっしゃい』

 日和の言葉を思い出す。

 日和の可愛らしい顔を思い出す。


 いかん。首をブンブンと振って、ベッドから降りる。


 部屋を出ると、じいちゃんの部屋から、


「いや、お義父とうさん、そんなこと言ったって、今日は無理だよ」


「ダメだ、なんとかして行かないと、子供が待ってるから……」


 そんな会話が聞こえた。


「ん? じいちゃんどうした?」


 部屋を覗き込んでみると、じいちゃんがベッドの上でぐったりしている。


「なんか、おじいちゃんね、昨日の花火大会の後の町内会の飲み会で飲みすぎちゃったんだって。でも、おじいちゃんいつも市民プールの前でアイスキャンデー売りやってるでしょ? まだ夏休みは終わってないんだから行かなきゃって言ってて……。そんなに言うならちゃんとお酒を控えればいいのに……」


 母さんが代わりに答える。


「飲める量の限界が去年とは変わったみたいだなあ……。抑えとくんだった。いい大人が、やっちまった」

 じいちゃんが存外冷静に自分を責めている。


 ふう、と一息つく。


 今日は寝てようかと思ってたけど、どうせもう寝らんないだろうしな。


「分かったよ、俺が代わりに行ってくるんでいいか?」




 ということで、自転車屋台をひいて市民プール前に向かう。


 自転車屋台といってもなんのことはない。


 荷台にアイスキャンデーとドライアイスを入れたクーラーボックスを積んで、ハンドルのところに大きなパラソルを取り付けているだけだ。


 クーラーボックスには、大きく

『アイスキャンデー 50円』

 と書かれたA3の紙が貼り付けられている。


 小学生の頃、何回かじいちゃんについてきたことがある。


 その時は、俺がサドルに座って、じいちゃんがおれごと自転車をひいてくれた。


 なんだかアトラクションみたいで楽しかったのを思い出す。


 あの頃は、一日がとんでもなく長くて、それでもやっぱり夏休みは短くて、眼に映るものが全部特別に見えて。


 自分自身が何者かなんて考えなくても漫画の主人公みたいに笑って、キラキラした景色を駆け回っていたなあ、と思う。


 一夏町と隣町の境界線を見つけにいくだけのことを『大冒険』と呼んでみたり、道に落ちていたちょっと綺麗なだけの石ころを宝物みたいに持って帰ったりして。


 いつから、夏は、特別な季節じゃなくなっちゃったんだろう。


 いつから、俺は、主人公じゃなくなっちゃったんだろう。




 夕方くらいまで、自転車の横で道ゆく子供に声がけをしていたら、高校生くらいの少年が少し遠くでこっちを見て呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。


 奇妙なやつだ。


「どうした?」

 と声をかけてみる。


「……売っているの、いつものおじいちゃんじゃないんですね」


「ん? ああ、じいちゃんは、昨日の花火大会のあとの町内会の宴会で飲みすぎちゃったみたいでな。家で寝込んでんだよ。でも、『子供達が待ってる……』とかうわ言みたいに言って来るもんだから、孫の俺がとりあえず売りに来たってわけ」


 そう俺が言うと、ひどく安心したみたいにため息をついて、


「じゃあ、亡くなったわけじゃないんですね」


 と言った。


 思わず笑いがこぼれた。


 二日酔いで寝込んでいるくらいのことで、死んだ心配までされてるぜ、じいちゃん。

 

「いや、あれだけ元気だとしばらくは大丈夫じゃねえかな」


 でも、いつまでも、なんてことはないか。


「でも、まあ、そんな風に油断してちゃいけないんだろうな。なんだって」


 大切なものを、大切にする。

 それは、こんなにもわかりやすいのに、なかなか出来ないことだから。


 安心したらしい少年が飲みはじめたペットボトルを見て、つい、

「お、そのスポドリ」

 と言ってしまった。


「ん? これですか?」


 そう言ってペットボトルのラベルを見せてくれる。


 わざわざちゃんと見せてくれなくたって、見間違うはずがない。

 昼夜ちゅうや問わず何百回も見たロゴだ。


 だって、そのスポドリのCMは、それこそ俺が明け方まで働いて必死に作ったものだったから。


「それ、いつも飲んでるのか?」

 何の気なしに聞いてみる。


「いつもってわけじゃないんですけど、今年は結構毎日飲んでますね。CMがすごく好きなんですよ」


 ズキュン、と柄にもない音を立てて心臓が跳ねた。


「見たことありますか?」


 当たり前だろ。

「知ってるよ」


 目に涙を浮かべた俺の顔を見て、少年が一瞬たじろいでいた。


 当たり前だよな。


 自分で自分が可笑おかしくなる。


 その後も少年としばらく話をした。


 嬉しくなってしまって、ついつい話すぎてしまった気がする。


 彼はアイスキャンデーを一本買って、

「ありがとうございました」

 と言って去っていった。


 ありがとうは、こっちのセリフだろ。



 いてもたってもいられなくなって、少年を見送った後すぐに、俺はアイスキャンデー用の自転車屋台を引っ張って、家路を走っていた。


 なんだろう、アスファルトがきらめいて見える。


 あのスポドリのCMが好きだと、彼は言ってくれた。


 俺の仕事が、ちゃんと誰かに届いていたんだ。


 俺は、コーヒーを淹れただけかも知れない。

 俺は、お菓子を買いに行っただけかも知れない。

 その間、何回クライアントを殴りたくなったかわからない。

 その間、何回、嘔吐おうとしてしまったかわからない。


 朝日と夕日の区別もつかない、忙しい日々の中ですり減ってすり減って、いつの間にかゼロになってしまっていた心。


 今日なんか無くなれと何度願っただろう。

 明日なんか無くなれと何度願っただろう。


 大切なものも、大切な人も、形がわからなくなるくらいに傷つけて、それでも大丈夫な顔をできるやつにならないと、大丈夫ではいられなかった。


 もう、夢なんか見ちゃいけないんだと思っていた。

 もう、何かを感じる余地なんか残っていなかった。


 でも、

「CMがすごく好きなんですよ」

 っていう一言が、こんなにも嬉しい。


 胸が熱くて、目頭が熱くて、ああ、こういう時に、あのスポドリが必要なんだな、と思う。


 そんな風に思えるものに関われて、よかった。

 と心から実感する。


 そして、それと同時に、俺は本当に自分がやりたいことに気づいた。



 家に到着すると店番をしていた母親に、

「汗だくじゃないの!」

 と驚かれた。


 大急ぎで、売れ残りのアイスキャンデーを店の冷凍庫に入れる。


 そのままレジの後ろ側のドアから阿賀家に入って行く。


「ちょっと、部屋にこもるわ!」

 と言って自分の部屋への階段を駆け上がる。


 二階の廊下で、起きてきたじいちゃんとすれ違う。


 一分一秒が惜しい。


 でも、後悔しないように、

「じいちゃん、おかげで今日いいことがあった、ありがとう!」

 それだけを言って、自分の部屋の扉をバタンと大きな音を立てて閉める。


 ガサガサとカバンをあさる。


 仕事のことを忘れに帰って来たくせに、唯一持って来ていた仕事の資料。

 

『炭酸飲料 若年層向けCM 依頼用資料』


 あった、これだ。


 スポドリと同じ飲料メーカーの炭酸飲料のCMをうちで請け負っているが、企画が難航していてなかなか決まっていない。


 アイスキャンデーを買ってくれた少年と話した時に強く思ったこと。


『あのCM、俺が考えたんだ』って言いたい。


 これなら、今なら、自分の考えた企画を出せば、議論の土俵に上げてもらえるかも知れない。


 勝負できるかも知れない。


 採用されるかも知れない。


 怖い気持ちもある。


 自分の企画なんか出したら、才能がないとバカにされるかも知れない。


 お前の領分じゃないと叱られるかも知れない。


 でも、


『恐れることなく、立ち向かえ。傷ついても、前に進め』


 そう、おれが彼に言ったんだ。


「もう、やるしかないだろ」


 自分の顔を両手のひらでパシンと叩く。


 よし。

 机に向かう。



 お題はシンプル。

『若年層にこの炭酸飲料を飲んでもらえるCMを作る』

 それだけだ。


 その後、机にかじりついて色々な案を考え続けた。


 情報収集のためにPCを開きながら、A5版のノートに手書きでアイデアを書き溜めて行く。


 書き連ねて、塗りつぶして、破り捨てたら、またゼロになる。


 どの案もあまり納得いくものにはならず、ノートだったはずのものがただの紙くずになっていく。


 うとうとしながら、起きて、書いて、またうとうとして、を繰り返すうちに、明け方になっていく。


 最後に時計を見たのは、朝の8時ごろだった。


 

 ……ハッと目を覚ます。


 いつの間にか机に突っ伏して寝ていたみたいだ。

 身体が痛い。

 お腹がぐうと鳴る。そういやメシ食ってないな……。


 すでに、時計は15時を指していた。

 やってしまった……。


 起き上がると、はらりと肩からブランケットが落ちた。


 目をこすりながら脇を見やると、

『昨日はアイスキャンデーを売って来てくれてありがとう』

 とじいちゃんの書いたメモ紙があった。


 ふふ、と笑みがこぼれる。


 スクリーンセーバーになっていたPCに触ると、一通のメールが届いていた。


 差出人は、日和だった。


『西山くんの撮ってくれた映像の編集が終わったみたいなので、送ります。身体に気をつけてね』


 添付のファイルを開くと、ムービーが流れはじめた。


* * *

『先輩』


 カメラのこちら側から【少年】の声がする。


『ん?』


 画面の中の日和−–【先輩】が答える。


『夏が終わったら、もう、会えないんですか?』


 そう聞かれた【先輩】は、困ったように笑う。


 シーンが切り替わり、二人は色々なところに行く。


 おそらくこれが最後だということが分かっているだけの、主観映像のデートムービーだ。


 テトラポットに登ったり、カフェでご飯を食べたり、自販機の前で炭酸飲料を飲んだり、バス停に並んだりするだけの。


 最初は、ひどいムービーだ、と思った。


 見ていて恥ずかしくなるほど、主観的で、独りよがりで、一方通行な、ただの片思いの記録だ。

 

 だけど。


 見ているうちに段々と引き込まれて行くものがあった。


 これを撮影している主人公から被写体への溢れる憧れと、悔しさに似た嫉妬しっとが、むせ返るほど伝わってくる。


 このエネルギーは、なんなんだろう。


 【少年】が【先輩】に告白するシーンがあるのかな、と思ったが、そんなシーンはなく、ただ、夕焼けの駅で、


『もう君とは、私は、一緒にいられないよ。……ね?』


 と寂しそうに【先輩】が笑うシーンで作品は終わった。


 夏の終わりと共に、【先輩】はどこかに行ってしまったのだろう。


* * *


 だいたい3分くらいの小さな映像作品だった。


 ラストシーン、日和の演技が上手すぎたのは、どういうわけなんだろうか。


 映像の中の日和は、本物の女優だと言っても通用する綺麗さだった。


 ひいき目もあるかもしれない。

 でも、本物の女優と仕事をしている俺の目は、まがりなりにもある程度の精度があるはずなんだ。


 少しほうけたあと、俺は物語の中盤を再生する。


 見逃せないシーンがあったのだ。


『ぷはあー!』


 【先輩】がそう言う声を聞いた瞬間、立ち上がる。


 階段を駆け下りて、父親のところへ向かい、聞いた電話番号をメモし、携帯電話を取り出す。


 プルルルルル……。


 呼び出し音が鳴る。


 ガチャッと音がする。


「もしもし?」

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