奈良圭吾/6:絶対値

 おれはずっと、小賢しく、計算ばかりして、スマートに、器用に生きて来た。


 別に、それが間違ってるとは思わないし、愚直な姿勢は人の胸を打つからなんて言い始めたら、それこそ計算じゃないかと思う。


 でもこの夏に。

 計算出来ない、コントロール出来ないものが、自分の心の中にあると知った。


 こうなるって分かっててやってることなのに、こんなに痛くて、苦しくて、悔しくて。


 でも、大人になるってことがもし、この痛みを感じなくなるってことなんだったら。

 そんな風にはならなくったっていい。


 痛くてもいい、苦しくてもいい、悔しくてもいい。


 おれは、水沢のことが好きなんだ。


* * *


 図書館からの帰り道。


 陽炎がゆらゆらと揺れている。


 汗をかきながら歩く。


 蝉の声が耳にへばりつく。


 右手に持ってるペットボトルのスポドリはもうすっかりぬるくなってしまって、もう何か別の飲み物みたいになってしまっていた。


 おれは、水沢と吉野の握手を、思い返していた。


 いつもぽわーっとしているくせに、吉野はこういう時にかっこいいんだ。


 もう同盟は解消してしまったけど、あいつが報われる世界だといいな、と思う。


 水沢、にしやん、吉野......と思い返して、おれが素直に幸せを願えているのは吉野だけなのかもしれないな、と、嫌なことを考えた。


 水沢のこと、応援するって決めたはずなのにな。


 家の近く、ビニールのバッグを持った髪の濡れた小学生たちとすれ違った。

 市民プールから出て来たのだろう。


 遊んできたくせに、何かのご褒美みたいに、アイスキャンデーを食べながら歩いている。

 

 市民プール前に売っているアイスキャンデーは、50円。


 どうやって生計を立てているのだろう、と思って一度親に聞いたことがあるが、近くの酒屋のおじいちゃんがほぼ老後の道楽どうらくでやっているというようなことを言っていた。


 一夏町の住民は、市民プールのプール開きと共に、チャリにアイスキャンデーをいっぱいに詰めたクーラーボックスを乗せて売りに来る麦わら帽子のおじいちゃんを見て、毎年『ああ、今年も夏だ』と感じる。


 今年は猛暑日が続いているから、夏は十分に感じているのだけど、少しのぼせてしまった頭を冷やしたほうがいいかもしれない。


 アイスキャンデーを買って食べよう、と、市民プールの前へと向かった。




 そうして歩いて市民プール前についた瞬間、チャリの屋台を見ておれは呆然と立ち尽くすことになる。


 そこでアイスキャンデーを売っていたのは、いつものおじいちゃんじゃなく、若いお兄さんだったのだ。


 えっ......? あのおじいちゃんは、亡くなってしまったんだろうか?

 

 名前も知らない、どこから来ているのかもよくわからないおじいちゃんだけど、勝手におれは、おれたちはあのおじいちゃんを夏の風物詩扱いして、風物詩だから、毎年変わらずにそこに来てくれると思い込んでいたんだ。


 いつかは来なくなることくらいわかっていた。


 でも、そのいつかは、永遠に来ないともどこかで思ってたんだろう。


 そんな愚かなことに、今さら気づいて、今の今まで思い出しもしなかったそのおじいちゃんのことで、おれは頭が真っ白になってしまっていた。


「アイスキャンデーいかがですかー」


 と言って手を叩いていたお兄さんが立ち尽くしているおれを見つけて、


「どうした?」


 と低い声で声をかけてくるまで、おれはサボテンみたいにそこに固まっていた。




「……売っているの、いつものおじいちゃんじゃないんですね」


 と、なんとか返事をする。


「ん? ああ、じいちゃんは、昨日の花火大会のあとの町内会の宴会で飲みすぎちゃったみたいでな。家で寝込んでんだよ。でも、『子供達が待ってる……』とかうわ言みたいに言って来るもんだから、孫の俺がとりあえず売りに来たってわけ」


 今日は寝てようと思ったのに……と小さくつぶやいているお兄さんの前で、ほおーっ、と息をついた。


 忘れていた汗が今更噴き出して来る。


「じゃあ、亡くなったわけじゃないんですね」


 一瞬キョトンとした後、かはは、とお兄さんは笑う。


「いや、あれだけ元気だとしばらくは大丈夫じゃねえかな」


 なんだか、不思議な魅力のあるお兄さんだ。


 顔も整ってるけど、何か別のところに、芯のある感じがした。


「でも、まあ、そんな風に油断してちゃいけないんだろうな。なんだって」


 と、不意に真面目な顔になるところなんか、かっこいいと思った。


 安心して噴き出した水分を取り返そうと、ペットボトルのキャップを開ける。


 ぐぐっとあおっていると、


「お、そのスポドリ」


 と、お兄さんが嬉しそうに声をあげた。


「はい? これですか?」

 そう言ってペッドボトルのラベルを見せた。


「それ、いつも飲んでるのか?」


 指差して聞かれる。


「いつもってわけじゃないんですけど、今年は結構毎日飲んでますね。CMがすごく好きなんですよ」


 ラベルを見ながら答える。


 好きな女子が他の男子に告白して成功するのをみかけた男子高校生が、涙を流して、それを隠すようにそのスポドリをぐっとあおって走り出す。


 それをみている教師役の若手女優が、「夏だねえ……」と呟くのが印象的な、青春真っ盛りみたいなCM。


 本当は、水沢が飲んでいるからということもあるんだろうけど、そこは言うのも恥ずかしいから伏せておく。


 今年のCMが抜群にいいのは、本当だった。


「見たことありますか?」


 と顔をあげると、


「知ってるよ」


 と、瞳を潤ませながらニッコニコの笑顔が目の前にあった。


 なんでこの人、こんなに嬉しそうなんだ......? てか、泣いてる?


「切ないCMですよね。成功している告白の裏側にもこういう人の気持ちがあるんだなー、ということなんでしょうけど。このスポドリのCMとしてなんであれが流れるのはちょっとわからないですけど……」


 おれがそう言うと、


「あのCMは、このスポドリが涙と同じ成分だってことを言いたいんだよ。『とにかく、恐れることなく、立ち向かえ。傷ついても、前に進め。そこで流れたしずくは、全部この飲み物がカバーするから。』っていうことなんだ」


 とお兄さんが説明してくれた。


「ほお……、なるほど……すごいですね。そんなこと、よくわかりますね」


 素直に感心してしまう。この人、何者なんだろう。


「まあ、多分、だけどな。伝わってなきゃ意味ないしな」


 と、お兄さんは照れ臭そうに笑う。


「でも、僕は、わかってなかったけど、スポドリ、買ってるんで」


 ペットボトルを軽く掲げる。


「多分、CMの意味はめちゃくちゃあるんだと思います」


 そう言うと、


「そうだよなあ......」


 とおれの言葉を噛み締めてるみたいだった。


 おれはおれで、今のお兄さんの話を、ラベルを見ながら反芻はんすうする。


『とにかく、恐れることなく、立ち向かえ。傷ついても、前に進め。』


 おれは、どっちに進めばいいんだろう。


 水沢を応援すればいいんだろうか。


 水沢を奪えばいいんだろうか。


 宙ぶらりんの心。


 前に進め、と言うけれど、前は、一体どっちなんだろう。


「悩み事か何かあるのか?」


 お兄さんが顔を覗き込んで来る。


「お礼に、聞いてやろうか?」


 なんのお礼だろう、と思いながらも、おれは少しだけ問いを発した。


「前に進みたいって思うけど、前ってどっちだろう。って思うんです。自分が何をすべきか、わからなくて」


 具体的なことは何も言わないのに、なんだか恥ずかしくて死にそうだった。


 ポエムじゃんか、こんなの。こういうのは、にしやんの領分だ。


 ちょっとの時間もいたたまれなくなって、やっぱいいです、と言おうとすると、


「本当は、前なんかないんだよ」


 とさえぎられる。


「前なんかない。どっちに行ったってどっちかに行かなかったことになるんだから」


「だから、そう言う時は、」


 お兄さんが、ニヤリと笑う。


「どっちを選んだ自分の方が好きかを考えるんだ、少年」


 どっちを選んだ自分の方が、好きか?


「前でも後ろでも右でも左でもいい。自分だけの正義に従って、今じゃないどこかに踏み出すことだよ」


 そうか。おれには、おれだけの大事な正義があるだろう。


 視界が一気にクリアになる。


 やるべきことは、たった一つだ。


 この恥ずかしげもなくポエムを連発するお兄さんのことが、おれは好きだな、と思った。


 少し、にしやんに似た雰囲気があるとも思った。


 そのあとおれは、上機嫌なお兄さんからアイスキャンデーを買って、


「ありがとうございました」


 と言って、そこを立ち去った。


 すぐにケータイを取り出して、メッセージを送る。


『話があるんだけど、会える?』



 にしやんからの返事を見たのは、翌日朝起きた時だった。メッセージが届いていたのは、早朝5時。


『ごめん、映画の編集作業に没頭してて……どうした? 明日なら会えるけど。』


 その映画とやらのことも、おれは全然聞いてないんだけどな。


 友情っていうのは、はかりづらい間柄だ。


 本当は、恋人だってなんだって、そうなのかもしれないけど。


『明日って、今日のこと? 明日のこと?』


 そう返事をして、テレビを見ている。


 昨日話したCMが流れている。お兄さんの解説を思い出しながら聞くとまた違った味わいがあった。


 お昼前ごろ、

『今日のこと! いつでも大丈夫』

 と返事が来た。


『じゃあ、このあと1時に、神社で』


 さすがに、あんなに青春劇場を繰り広げたばかりで、図書館には行きづらい。




 1時少し前に神社に行くと、木陰のベンチに、もうにしやんが座っていた。

 おれは、お守りみたいにスポドリを握りしめている。


「おっす」


 右手をあげると、にしやんがそれに応じて立ち上がる。


「圭吾、どうしたの? いきなり」


「まあ、ちょっとね」


 なんか、昨日も今日もこんな感じで緊張してるな、おれ......。


 大事な話なんか、無くたっていいのに。


 ただただ肩組んで、一緒に勉強して、一緒にハンバーガーとポテト食って、一緒にバカな話をできていれば、本当はそれでいいのにな。


 水沢が吉野に話をする時にしていた覚悟を、今さら実感を伴って理解する。


 かっこいいな、水沢。


 おれ以外、みんなかっこいいじゃんか。


 にしやんが困ったような顔で首を傾げてる。


 にしやんの座っていたベンチに座りながら話す。


「にしやんにまだ言えてなかったことがあってさ」


「ん?」


 にしやんが隣に座る。



 おれは、ふうっと息をつく。


「おれ、好きな人がいるんだよ」


 前を見ながら言う。


「おお、そうなのか......」


 普通だったら、もっと驚いたり茶化したりするんだろうけど、わざわざ呼び出されたにしやんは、その先に続く言葉を分かってるみたいだ。


「その好きな人って、もしかして……」


 おれは頷く。


 にしやんが頷き返す。


「そっか、やっぱり吉野さん、か……」


 はあああ!?

 全然分かってなかった!!


「いやいやいやいや、なんでみんなそういうの!?」


「え?」


 にしやんがすっとぼけた顔をしている。


「違うよ、吉野じゃない! もはや吉野が可哀想だわ!」

「ええ、違うの?」


 シリアスな空気が台無しだ。


 なんなんだこいつ。


「あんね、にしやん」


 真顔に戻る。


 こいつはきっと、おれが思ってるよりも鈍感どんかんなんだ。


 おれだけの小さな正義のために、おれは、これを伝える。


「おれが好きなのは、水沢。水沢ひなただ」


「え?」


 にしやんが驚いた顔をする。


「え、いつから?」


「中学三年くらいの頃から」


「ええ、全然気づかなかった......」


 頭を抱えるにしやん。


「どう、思う?」


 今日の目的は、おれの告白じゃない。


「え? どう、って?」


「おれが水沢と付き合ってるところを想像したりして、何か思うことないか?」


 今日の目的は、にしやんの水沢への無意識の想いを引き出すことだ。


「なんか、モヤモヤするとか、ヤキモチやきそうとか……」


 今まで、ただの幼馴染だった水沢への想いを、気づかせることだ。


「水沢とはおれが一緒に居たいんだ、と思ったりしないか?」


 当たり前すぎて気づかなかったのは、にしやんだって同じなはずだから。


 にしやんは何かを考えている。


 多分、何を言われてるのかを考えてるんだろう。


 祈るようにペットボトルを握りしめる。


 そして数秒後、一点の曇りもない目でにしやんは言う。

 


「いや、全然、二人が付き合ったらすごくいいな、と思うよ?」



 瞬間、心臓に空砲を打ち込まれた感じだった。

 はは、と乾いた笑いがこぼれる。


「圭吾。僕が好きなのは、日和さんだけだよ」


 なんだ。なんだよ。


 おれたち、完敗じゃんか。


 西山青葉は、清々しく、かっこいいやつだ。


 もう、日和さんのセンはないだろうに、変な目移りなんか全然せず、こんなに諦めが悪い。


 でも、だから、水沢はにしやんのこと、好きになったんだな。


 こぼれた笑いがどんどん大きくなって、そのうち涙がこぼれ出て来た。


「笑うなよ、僕だって、頑張ってんだから……」


 にしやんがいじけている。


 おれはにしやんがフラれたことを笑ってるわけじゃないんだけど、もう訂正できない。


 今喋ったら、この涙が笑い涙じゃないことがバレてしまう。


 涙を隠すために、補うために、スポドリを一気に飲み込む。

 

「夏だねえ……」


 震える声で、絞り出す。


 痛い、苦しい、悔しい、でも。


『恐れることなく、立ち向かえ。傷ついても、前に進め』


 それが前なのか後ろなのかは分からないけど。


 自分がさっきまで居たところと違うところにいることだけは、分かった。

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