阿賀孝典/6:東への旅路

 いつだって、どっちだって、あなたの手を振る姿に、励まされた。


* * *


「せっかく帰ってきたんだから、明日の花火大会、屋台手伝いなさいよ」


 夕立が過ぎ去って随分涼しい匂いのする夜。


 そろそろ寝ようかという時、母さんが部屋に来て、そんなことを言った。


 実家で営んでいる阿賀酒店という寂れた店は、名前の通り個人経営の酒屋だ。


 コンビニの要素すら持っていない前時代的な店なのだが、古くから住んでいる親父の地元の友達をはじめとする町民のみなさんに愛着を持ってもらっているおかげで、細々とではあるが、ずっと続いている。


 親父に店を譲ったうちのおじいちゃんが毎年プール開きの時期には市民プールの前でアイスキャンデーを売っているのも、町では夏の風物詩とされている。


 その売上も多少でもあるんだろうか。


 屋台の手伝いなんて、最初は断ろうとした。


 一夏町の花火大会という、一番日和に会う可能性の高いところに行くのは気が乗らない。


 ただ、母さんがおれを元気付けようとして言ってくれていることもわかったし、なんといっても自分は数少ない男手である。


 当たり前だが、毎年、花火大会で出す生ビールはものすごく繁盛はんじょうする。


 一昨年までは毎年手伝っていたので、その繁忙具合は自分も身にしみて分かっているつもりだ。


 去年は当時たまたま雇っていた親父の友達の息子の高校生アルバイトを駆り出してなんとか持っていたらしいが、それでも相当大変だっただろう。


 今年はもうバイトも辞めたということなので、俺が出ていかなければ、行列をさばききれないかも知れない。親父も、もういい歳だ。


 逡巡しゅんじゅうした結果、

「わかったよ」

 渋々しぶしぶだけど、手伝いに行くと告げた。



 そして花火大会当日。


 朝から店で準備して、昼前には屋台を組み立てる。


 古くからの地元民としての強さなのか、花火を見る会場である一夏中学校の校門の目の前に今年も場所を割り当てられていた。


 自分が毎朝律儀に学ランを着て通っていた中学校の目の前で酒を売る、という不思議な背徳感には何年経っても慣れることがない。


 昨日の大雨が雲を連れていったらしく、今日はかなり暑い。


 生ビールが飲める貴重なお店であるうちの屋台は、夕方ごろからみるみる内に混み始めて、途中からは俺ももう日和に見つかるとか見つからないとか、そんなことは考えなくなっていた。


 無心に働いて汗を流していると、余計なことを、考えずにいられた。


 東京に置きっ放しの仕事のこととか、実は怠っているゴミ捨てとか。


 ある意味充実した時は一瞬で過ぎて、少し落ち着いて来たかな、という時、花火のカウントダウンが始まった。


 みんなが花火を見る為に、ビールを持って自分の定位置につく。


 もう、行列はほとんど解消していた。



『間も無く、第一部が始まります! 10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……』


 パァンと大きく一発目の花火があがる。


 ふう、と首にかけたタオルで額をぬぐった時。


 みんなが夜空を見上げている中、まっすぐこちらに向かってくる二つの人影に気づいた。


 俺は、腹をくくる。



 男子の方にも、見覚えがある。


 たしか、西山さんとこの坊主ぼうずだったと思う。


 日和を連れてきた西山少年は、うちの親に「ご無沙汰してます」と軽くお辞儀をしてから、俺の方に向かって来た。 


 ご無沙汰してますって。お久しぶりです、ぐらいにしとけよ。


 高校生が、大人びた話し方をするもんじゃない。

 子供でいられることが、特権なのに。


「日和さんが、話があるみたいなので、連れて来ました」

 こいつは、日和のなんなんだろう。


 後ろで日和がうつむいている。


 さっきまで繋いでいた手はもう離れていて、日和は伸びた髪の先をつまんで居心地悪そうにしていた。


 西山少年が、

「日和さん、大丈夫そうですか」

 と日和に声をかける。


 日和が頷く。


 少し微笑んで、

「それでは、僕は失礼します」

 と言ってどこかに去っていった。


 すげえな。あいつ、本当に高校生なのか?

 いや、でも俺が中学生の時に小学低学年とかだったからな……。


 そんな風に心の中でどうしようもない茶化し方をしないといけないほど、心臓がばくばくと動いていた。


 日和は、唇を噛んで、じっとこちらを見ていた。


「ちょっと、歩こうか」

 近くには親もいる。

 情けないところばっかり見せてるな。


 この町でも東京でも、俺は本当に愚図ぐずだ。



 じっくり話すには、花火の音がうるさすぎた。


 少し離れたところにある神社へとたらたらと向かう。


 この神社は、一夏中学校の生徒の中では有名な告白スポットだったりする。


 日和とは、その時は出会いもしていなかったけど。



 歩いている間、日和は無言でずっとうつむいていた。


 大人になっても、こういうの、全然上手にならないなあ、と思う。


 頭をかく。

 うーん……。


「髪、伸びたよな」

 元気? と聞こうとして、さすがにそれはないと思い、事実の確認から入った。


「ふーん、よく気付きましたね」

 日和は、なんだか拗ねている。


 さすがにこれだけ伸びていれば誰でも気付くだろうが、皮肉のつもりなんだろうか。


 いや。そもそも、日和だって、どんな表情をしたらいいか分かんないんだろう。

 ごめんな。



 少し無言の時間が流れる。



 遠くで、花火の音がする。

 神社の木々に隠れて、低い花火はここからは見えない。


「ふう……」

 小さく深く息を吐いて、日和が口を開いた。


「……孝典さん、いつ、帰って来たんですか?」


 孝典さん、か。


「昨日だよ。あ、その時ひなたちゃんに会ったよ」


「それは、ひなたに聞きました」

 ピシャリ。


 なんだよこれ、ストレス耐性無いから帰ってきたのに、ここでも胃がキリキリするよ……。


 でも、これは、俺が悪い。

 子供だった俺が。

 分かってはいるんだけど。


「やっと休みが取れて、な」


「そうですか」


 東京もアウェイで、でも、一夏町もアウェイで、おれの居場所はどこにあるんだろうな。お腹のあたりがどす黒い霧みたいなものでもやもやする。



 日和はチラチラ、とこっちを見ている。


「あの……色々言いたいことはあるんですけど、」


「そうだよな」


 覚悟する。


 よし、ちゃんと受け止めよう。


「まずは、」


 そして、全身で受け取った、日和が言った一言が、俺の感情を大きく揺らすのだった。




「おかえりなさい」



 

 しっとりと告げられたその一言は、

 きっと、日和にとっては何気ない言葉だったんだろう。


 おかえりなさい。


 でも、今の俺にはそれはあまりにも強く響いた。

 優しく、暖かい言葉だった。

 不意打ちに、目頭めがしらが熱くなる。

 

 なあ、日和。

 おれ、何にもないんだよ。


 大見得おおみえ切って出ていったくせに、何にも持って帰ってないんだよ。


 誰からも見放されて、見下されて、毎日戦いみたいな日々で、俺自身なんか、どこにも居なかったんだよ。

 

 でもさあ。


「俺はそんな風に『おかえり』なんて言ってもらって良い人間なんだろうか?」


「え?」


 突然うるんだ声で話す俺に、日和が、戸惑っている。


 そりゃそうだよな。


「日和を裏切って、上司も裏切って、誰の何にもなれない、役立たずの、なんの得もない俺に、帰る場所なんか、あっていいんだろうか?」


 声が震える。

 怖い? 嬉しい? なんだろう。


「本当に、何言ってるのかわからないですけど、」

 日和が呆れたように、ちょっとため息をつく。


「この町は、孝典さんの町じゃないですか」


 ああ、こんな、どうしようもない自分にも、帰る場所があったんだ。

 ここに、帰ってきてよかったんだ。


 だめだ、視界がにじむ。

 日和が認識できなくなる。


「え、何、いきなり、泣いちゃってるんですか。私、言いたいことまだ何も言ってないんですけど。怖い」


 手にハンカチを手渡される。

 いつからハンカチなんか持ち歩くようになったんだろう。

 おれの知らないこと、ばっかだな。


 借りたハンカチで目を拭って、一呼吸。



「あのな」

 ん? と首をかしげる日和。

 お姉さんかよ。


「実は俺、心を壊して帰ってきちゃったんだ」


 日和が目を見開く。


「心を壊して、って? うつってこと?」


 タメ口だ。おれは嬉しくなってしまう。


「似たような感じ。ていうか、会社で血を吐いて、休めって言われて」


 苦笑い。

 ニヒルなんてものとは程遠い、ただの苦笑いだ。


 日和の中では、かっこいいままでいたかったな。


「全然、寝てなくてな。ってこんな話するのもめっちゃかっこ悪いんだけど……」


「なんで?」

 目に涙を溜めた日和が言う。


「いや、いろんな仕事があってな……」


「そうじゃない」


 せきを切ったように、日和が話し始める。


「なんで血吐くほどになるまで、私に何も言ってくれなかったの? 今はどうか知らないけど、私たち、付き合ってたんじゃないの? 勝手に自分ひとりで頑張って、かっこつけて、それで血吐いて、バカなんじゃないの!? そんなに頼りない!? 私、そんなに子供!? 子供だってなんだって、孝典がそんなになる前にできたこともあったかもしれないのに!」


 ものすごい剣幕で叫ぶ。

 血を吐いた俺にそこまで言わなくても、とまた苦笑を重ねた時。


 Tシャツの裾を、小さな手が掴んだ。



「死んじゃったらやだよ、孝典……」



 くぐもった声がする。


 ああ、俺は何をしてんだろうな。

 こんなに最低で愚図ぐずで何も出来ない俺のことを心配してくれる人がこの町には居たんだ。


 帰る場所があるなら、何を、俺は恐れていたんだろう。

 帰る場所があるなら、どこまでだって行けばいいだけだったのに。


 日和の伸びた髪を撫でたい気持ちを、奥歯で噛み殺した。



「日和、本当にありがとう」


 赤くした目。

 唇を尖らして、そっぽを向く。


「別にありがとうとかじゃない……」


 裾は、掴んだまま。

 少し引っ張られているその感触だけ、ちゃんと覚えておこう。


 よし。


「日和のおかげで、おれ、また、やれるかもしれない」


 口にしないと、


「本当言うとすごく怖いし、」


 誰かに誓わないと、


「ちょっと油断したら動悸が激しくなって、息が苦しくなるけど、」


 逃げ出してしまいそうで、


「でも、とにかく、また戦って見るよ。だから、」


 でも、それでも、絶対に叶えたいから。


「いつか、おれが夢を叶えるのを、ここから見ててくれないか」



 俺の決意の言葉を聞いて、日和がしらーっと目を細めてこちらを見る。


「また、血、吐くの?」


 不意を突かれて、くはっ、と、少し吹き出す。

 やっと、笑う余裕が出来た。


「血を吐くことになる前に、連絡するよ」

 頭をかきながら軽そうに答える。


「もう、知らないけど、別に」

 言葉とは裏腹に、握る力が強くなる。


「ああ」

 嬉しい。


「私、孝典に言いたいこと、たくさんたくさんあったのに。そんな話聞いたら、何も言えなくなっちゃったじゃん。本当に、私は子供で何も分かってなかったんじゃん……。孝典がどんな働き方をしているか、想像することもしてなかった。東京で会った胸の大きい女の子と好きなように生きてるんだと思ってたし……」


「ああ、あの写真……」


 お別れにつながった、大げんかにつながった写真。


 あの女優見習いとは、あの後ただの一回たりとも会っていない。ただの仕事の付き合いだから、当然だけど。


 あんな女にこんなにかき乱されるなんてなあ……。もし会うことがあったら嫌味の一つでも言ってやろう。


 別に、あの子が悪いわけでもないんだが……。

 媚びを売る相手くらいは、見分けられるようになったんだろうか。



「ねえ、孝典」


「ん?」


 上目遣いで日和がつぶやく。

 東京で会ったどの女の子よりも可愛いな、と素直に思う。



「私たちって、また、やり直せるかな?」



 日和の言葉に、またこみあげてしまう。


 ありがたいな。


 あんなことをした俺に、帰る場所だけじゃなくて、そんなことを言ってくれるなんて。


 今すぐ抱きしめたい。髪を撫でたい。


 だからこそ、


「日和、今は友達でいよう」



 もう、俺は日和を傷つけるわけにはいかない。


 日和は、おれにとっての、帰る場所だ。窓明かりだ。


 夢を追う間は多分、恋人にはなれない。



「……はあ?」

 瞬間、日和の眉間にシワがよる。


 しっとりした空間に亀裂が走る。


「こっちもかなり勇気出して言ったんですけど」


 仮面が、剥がれた。そっちの方が、もっと可愛い。


 今の俺にそんなことを言う権利はないけど。



「夢をちゃんと叶えて、かっこいい大人になれたら、また、おれから土下座をして告白しにくるよ」


「そう、ですか」


 日和は裾を掴んだまま、そっぽを向く。


「だいたい、かっこいい大人は、土下座するんですかね」


「そういうことも、あるだろ」

 

 俺が笑うと、日和もやっと、へへへ、と笑ってくれた。


「私、誰かのものになっちゃうかもしれませんよ?」


「西山くん、とか?」


「……それは今、冗談にしちゃいけないやつです」

 じろっと睨まれる。


 あ、やっぱりそうなの?


「なあ、日和」


「はい?」


「次に帰ってきたその時はさ、また、おかえりって、言ってくれるかな」


 もう一度、こちらを見上げてくれる。


 微笑みながら。


「当たり前じゃないですか。だから、」


 Tシャツから小さな手が離れる。

 


「いってらっしゃい」


 日和が無理して笑う。



 ああ、やばい、と思って見上げた空には、高く高く、誰かの船出みたいに。


 強く、激しく、黄色い光の花が咲き乱れていた。

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