水沢ひなた/6:へたくそな笑顔
どうして、大切な人ほど、たくさん傷付けてしまうんだろう。
* * *
図書館から帰ってリビングに向かうと、お姉ちゃんはもう家に帰っていた。
「ひなたちゃん、遅かったねー。もうご飯出来てるよ」
お姉ちゃんはまた水出しコーヒーとやらに牛乳を入れて飲んでいたみたいだった。
「でもよかったね。雨やんでから帰ってこられて。おねえはちょうど電車乗ってる時に雨に降られちゃって、降りてからしばらく雨宿りだったよ。駅向こうの本屋に雑誌を買いに行って来たんだけどね。夏は夕立あるから、折りたたみ持ってっとかないとだねー」
お姉ちゃんはうちと話すとき、昔から自分のことを『おねえ』と呼ぶ。お姉ちゃんのそういうところが、可愛いな、とうちは思う。
ひとまず手を洗って、お母さんと3人で夜ご飯を食べた。お父さんはいつも帰りが遅いから別だ。
明日の花火大会がどうだとか、今日は雨で散々だったとか。色々な話をしながら、ご飯を食べる。
なんだか、本当は大したことじゃないと思うのに、このあと阿賀さんの話をすると思うとすごく緊張してしまい、ご飯の味もよくわからなかった。
答えは
「ごちそうさま! 先シャワー浴びるね」
ご飯を食べ終えて、お姉ちゃんが浴場に向かった。
はー、緊張する。
リビングのソファで呼吸を整えていると、スマホが震える。
夏織からのメッセージだ。
『ひなた、30歳になったときお互い相手がいなかったら西山くんと結婚するらしいじゃん! ずるい!』
ん? なんだそれ。
『何それ!笑』
『今日西山くんが言ってた! なんで言ってくれなかったのー!』
ははあ。これはうちを責めると見せかけて青葉と話したってことを自慢したいパターンか。
『はいはい、青葉と話せてよかったね〜』
ってか、青葉もあの約束覚えててくれてたんだ……。
胸の奥のあたりがググっと持ち上げられる感覚。
ちょっとだけ、息苦しい。
『そう、そうなの! まあ、良かったことだけじゃないんだけど……。明日聞いて欲しい!』
だけど今、うちはちょっとそれどころじゃない。
というか、これは、夏織のためでもあるんだ。
だって、友達は絶対大切にしなきゃだから。
『はいはい。明日ね〜』
明日の花火大会に、うちは夏織と一緒に行く。
うちにとっては十何回目かの花火大会だけど、去年の春に引っ越してきた夏織にとっては一夏町の花火大会は2回目だ。
一昨年までは青葉とか、中学の女友達とか、応援団の後輩のゆずとかと一緒に行ったりしていたけど、去年は青葉がバイト先の出店に駆り出されていたりしたこともあったのと、引っ越してきて友達になったばかりの夏織を是非案内したかったのもあって、去年初めて、一緒に行ったのだ。
明日の予定なんかを決めているうちに、お姉ちゃんが戻ってくる。
「ひなたちゃん、シャワーどうぞー」
そう言い残して、お姉ちゃんは部屋に戻って行く。
まずは、シャワー、浴びるか。
5分足らずでシャワーを浴びて風呂上がりの牛乳を飲み終えて、お姉ちゃんの部屋の前に立つ。
深呼吸。
息を整える。
頑張れ、ひなた。
顔を軽く二回叩いて、お姉ちゃんの部屋をノックする。
「はーい」
気の抜けた声がした。
緊張する。変な汗が出て来る。これなら、シャワー浴びるの、あとにすればよかった……。
そろーっと、ドアを開ける。
お姉ちゃんはバランスボールに乗りながら買って来たばかりのファッション雑誌を読んでいた。
お風呂にはもう入ったから、ヘアバンドをつけてTシャツにハーフパンツ。
なんか、こういう「美容」みたいなの、去年くらいから一気に増えたなあ。ヨガとかもやってるっぽいし。
「今大丈夫?」
「んー、大丈夫だよ? どうしたの?」
雑誌を脇において話を聞いてくれようとする。バランスボールからはおりないままだけど。
そそっとベッドに腰掛けさせてもらって、話を切り出そうとする。
「明日、青葉と撮影に行くんでしょ?」
話を切り出すつもりが、別の話をしてしまった。いやー、うち、情けないな……。
「うん、そうだよー。どうしたの、そんな思いつめた顔して。別にデートするわけじゃないし、よしのちゃん? だっけ? にも迷惑かけないよ」
ケロッとした顔でお姉ちゃんが言う。
「あ、うん、そうなんだ……。あ、一応、吉野は名字ね」
そういうことを言いたかったわけじゃないけど、青葉に脈がないっぽいことがわかってそれはそれでなんだかなあ……。
うちは、もう誰の味方なのかよくわからなくなっちゃうな。
誰を応援すればいいんだろう。友達は、みんな、大切なのに。
「じゃあ、夜の花火大会は行かないの?」
話のついでに聞いてみる。
「花火大会は、今年は行かないんじゃないかなあ。夕方で撮影終わるなら行けるかもだけど、とはいえ、青葉くんと行くのは……ねえ?」
いや、ねえ? って言われてもな。
まあでも確かに、来ない方がいいと思う。夏織とすれ違ったりしたら、ショックを受けちゃうだろうし。
「そうだね。やめといた方がいいかも」
お姉ちゃんは「よっ」と言って、バランスボールをはじめる。
「その話聞きたかったの? ひなたちゃんは心配性だなあ。てかさっきご飯の時その話したじゃん」
そうだったのか。全然聞いてなかった。
一息つく。
よし、ここで言わなきゃだめだ。
「コホン……今日さ、お姉ちゃん駅ついたの何時くらい?」
「んー、4時くらいかな。雨がすごかったから、それから15分くらい雨宿りしてたよ」
じゃあ、阿賀さんと入れ違いだったんだな。
ていうかあの人、もしかしてお姉ちゃんのこと見かけて避けていたんじゃないのか……?
「どうしたの?」
両足をあげて、バランスボールをしながらだけど、優しくお姉ちゃんは声をかけてくれる。
こんな素敵なお姉ちゃんを悩ませるなんて、阿賀さんはやっぱり、悪い人なんだろう。でも、本当の本当は悪い人じゃないってことも、うちには分かっている。
うちに分かるくらいだから、お姉ちゃんも分かってるんだろう。
だから、すごく難しいんだ。
「あのね、」
一呼吸。軽く咳払い。
「今日駅で阿賀さんに会ったの」
その瞬間、お姉ちゃんの優しい顔が、凍りついた。
バランスボールの上で凍りついたお姉ちゃんはゆっくり後ろに倒れていき、そのままバランスを崩して、尻もちをついてしまった。
「いたた……」
漫画みたいにお尻をさするお姉ちゃん。
「……大丈夫?」
「ひなたちゃん、ちょっと起こして……」
手を引いて起こしてあげる。
本人は多分、大人っぽいと思ってバランスボールとかやってるんだろうけど、こういうお姉ちゃんを見てると、大学生って、ハタチって、そんなに大人じゃないんだなって思う。
起き上がったお姉ちゃんは、バランスボールをよけて、床にお姉さん座りする。
お姉ちゃんが髪を触りながら、
「で、阿賀孝典さんがいたって? 駅に?」
なぜかフルネームで聞いてくる。
「うん。夏の帰省だって」
お姉ちゃんは、下唇を噛んで、うつむく。
んんー…と考えるみたいな声が漏れる。
うちは、そっと、待っている。
お姉ちゃんを。その結果を。
10秒ちょっとして、お姉ちゃんがそっと顔を上げた。
「そっか……。それで?」
その顔を見て、うちは、軽く身震いをする。
「あ、いや、だから、会いに行ったりしなくて、いいのかなって。阿賀さんちに行けば会えるんじゃないかな? あと、連絡取ってみるとか……」
なぜかうちがしどろもどろになりながら説明する。ていうか他に何があるのさ……。
「向こうから連絡をくれないんだから、会いたくないんでしょ、私に」
淡々と、お姉ちゃんは続ける。
「そりゃそうだよね。向こうで新しい出会いとかもあるんだろうし、そんな中、昔の女なんかに会うのなんか、絶対めんどくさいもん。私なんかまだ子供だし、キャンキャンわめいてうるさいんだよきっと。そもそも付き合ってたのかどうかだって……」
「待って、お姉ちゃん」
少し大きな声でさえぎる。
「ん?」
ねえ、お姉ちゃん。
「なんで、ずっと笑ってるの?」
お姉ちゃんの唇が
「だって、私は……もう、大人だから」
また、無理やり笑いながら。
でもお姉ちゃん、多分、もう、無理だよ。
「ねえ。お姉ちゃんは、大人なんかじゃないよ」
お姉ちゃんの表情がかげる。
ああ。私は、何を照らすためのひなたなんだろう。
でも、言わなきゃいけない。
「そんな風に聞き分けいいふりをいくらしたって、阿賀さんはお姉ちゃんの中から出て行かないよ。本当に、もうどうでもいいなら、そんな風に無理やり笑ったりしないよ。あんな男、どうでもいいよって、ポイッて出来ない気持ちなら、向き合うしかないんじゃないのかな」
一気にまくし立てる。息が切れる。苦しい。
お姉ちゃんはまたうつむいてしまう。
「そうだよね」
お姉ちゃんが、ポツリ、ポツリと話し始める。
「そうだよね、私はまだ大人になんかなれてない。だって、子供だって言われたから。子供だから、私には孝典さんのこと分からないんだって言われたから。だからさ、大人になれてないうちは孝典さんに会ったってしょうがないよ。孝典さんのこと、分かることすら出来ないんだもん」
一呼吸置いて、吐き出すみたいに言う。
「だから、私は、孝典さんには会わない」
お姉ちゃんの表情を見ることはできないままだ。
「お姉ちゃん、本当に、それでいいの?」
「うん」
お姉ちゃんは顔を上げて、また笑って頷く。もう、やめてよ……。
「ありがとうね、ひなたちゃん」
そんな一言まで添えて。
「お姉ちゃん」
綺麗に伸ばしているはずの爪をカリカリといじっているお姉ちゃんに向き直っていう。
「うやむやにして、後悔、しないようにね」
自分は何様だ、と思いながら。
「話は、それだけ。じゃあね」
下手くそに笑っているままのお姉ちゃんに小さく手を振って、静かに部屋から出る。
後ろ手にドアを閉めて、一息つく。
電気の消えた暗い廊下はなんだかいやに静かで、足元を涼しい風が駆け抜けた。
天井を見上げて大きくため息を吐いた。
ため息で幸せが逃げるとしても、うちには追い求めているものなんてないから、別にいい。
うちが吐き出した幸せの空気を、お姉ちゃんが吸ってくれるなら、それでいいと思う。
お姉ちゃんが阿賀さんと会わないのは、夏織にとっても、もしかしたら青葉にとっても、いいことじゃない。
奈良の言葉を借りるなら、フェアじゃない、だ。
お姉ちゃんは、本当にそれでいいと思っているのだろうか。
……分からない。恋も知らないうちには、経験がなさすぎる。
お姉ちゃんは傷つくことを怖がっているだけに見える。でも、本当にこのまま忘れていけるならその方が傷つかずに済んで、そのうちいい思い出になるのかもしれない。
阿賀さんなんかとまたくっつくことになったらむしろ妹として心配だ。また同じことが起こりそうだもん。
もしかしたらその隙間を、誰かが上手に埋めてしまえる日が来るのかもしれない。
誰か、の候補によく知っている男子の顔が浮かんで、胸がズキンと痛む。夏織の代わりに。
でも。
じゃあ、お姉ちゃんは、何のためにファッション雑誌を読んで、何のためにバランスボールに乗って、何のためにコーヒーを飲んで、何のために髪を伸ばして、何のためにあんな笑顔を貼り付けているんだろう?
ほら、それがもう、答えじゃんか。
走り出せ、間に合わなくなる前に。
ごめんね。
心の中で謝りながら、急いでケータイを取り出して、大切な友達に電話をかける。
「もしもし?」
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