マニエルの杞憂
ここはとある伯爵家の屋敷の一室。部屋の主である伯爵令嬢のマニエルは気が気でなかった。本を読んでもちっとも頭に入らないし、刺繍をしようにも一向に手が進まない。窓から外を見ては来客が無いかを確認し、部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。
「お嬢様、少し落ち着かれて下さいませ」
「これが落ち着いてなんて居られるものですか。ルーエン様に変な虫がついているかも知れないのよ? 私のルーエン様に!」
マニエルは諭してきた侍女をキッと睨むと、拳をぎゅっと握り締めた。彼女がこんなにも落ちつきをなくしている理由。それは、王宮で行儀見習いをしている友人に聞いた、とある噂話だった。なんと、マニエルの愛しの婚約者であるルーエンが、最近とある少女と親しくしているらしいと言うのだ。何でも薬草園に併設された花畑で最近働き始めた少女らしく、ルーエンと親しげに会話しているところが度々目撃されていると言う。
「お嬢様、手配中のポーションが届きました。けど、本当にやるのですか?」
心配げな侍女に対し、マニエルは『ポーション』と聞いて目を輝かせた。マニエルはルーエンについた悪い虫を排除するためにはまず敵を知る必要があると考えた。そのために、最近市中に出回り始めたばかりの高級ポーションを入手したのだ。
「確認するけど、猫で間違いないわね?」
「はい。猫でございます」
マニエルは満足げに頷いた。マニエルが密かに入手したポーション。それは、人が動物の姿に変身出来るという魔法のポーションだ。ルーエンは猫好きなことは既に分かっている。どうせ変身するなら愛するひとの好きな動物になりたいというのは乙女心なのである。
「では、早速王宮に行くわよ! 薬草園の場所は調べたし、例の女はたいてい夕方頃にいるらしいのよ」
マニエルは侍女の差し出したポーションをむんずと掴むと早速出かける準備を始めた。今から愛しの婚約者であるルーエンに横恋慕する、そのふざけた女の姿を拝みに行ってやろう。マニエルは並々ならぬ闘志を燃やして馬車に乗り込んだのだった。
王宮の入り口近くに着いたとき、侍女は心配げにマニエルを見つめた。
「お嬢様……。やっぱりやめた方が……」
「何を言うの! ルーエン様が他人に奪われるのをただ指を加えて見ていろと?」
「でも、噂話ですし。ルーエン様は最近よくお嬢様の所にいらっしゃいますし、花もプレゼントして下さいますし」
「火のない所に煙は立たないのよ。とにかく確認してくるわ」
「じゃあ騎士団長との噂も……」
「?? なに?」
「いえっ! 何でもありませんわ。お嬢様……お気を付けて行って下さいませ」
「わかったわ」
ポーションの蓋を開けると、とても人が口にするものとは思えない程の悪臭が漂った。マニエルはごくりと唾を飲んだ。鼻を摘まむと、意を決して一気にそれを飲み干したのだった。
***
「お、猫がいる。ずいぶん毛並みがいい猫だな」
王宮を歩いていると、マニエルを見つけた道行く騎士や侍女が珍しそうに視線を向ける。それもそのはず、マニエルは見事な毛並みの美しいペルシャネコに変身した。一目見ただけで高級猫であること明らかだ。
「おーい。猫! おいで」
たまたま前方から歩いてきた魔術師と覚しき若者がマニエルに手を差し出す。マニエルはツンと澄ましてその若者の横を素通りした。マニエルが呼ばれて応える若い男性は世界中でルーエンただ一人であり、他には有り得ないのである。気安く人に呼びかけるなと言いたい。
「ニャー」
「お、鳴いた」
気安く呼ぶなと言ったつもりが相手には通じなかった。マニエルはその若者を無視すると再び歩き始めた。
二十分位歩いただろうか。マニエルが薬草園に辿り着いた時、にっくき宿敵は花畑で花の世話をしているところだった。マニエルは忍び足でそっと近づいた。ピンク色の髪を可愛らしく結いあげた少女はマニエルより少しだけ幼く見えた。白い肌に頬はピンク色、目元はくりっとした優しい印象で、悔しいことになかなか可愛い。
しかし、マニエルも社交界では美女として名を馳せているのだ。こんな所で負けるわけにはいかないのである。こんな虫も殺さぬような穏やかな見た目をしながら人の婚約者に横恋慕とは、人の風上にも置けないとマニエルはいきり立った。
「ニャー」
ちょっと! と声をかけたつもりが、またもや自分が猫であることを失念していた。宿敵はマニエルを見るや否やパッと表情を綻ばせた。にこにこしながらこちらに近づいてくる。
「こんにちは、猫ちゃん。まあ、綺麗ね。ここの猫なのかしら?」
『綺麗』と聞いて、マニエルは少しだけ気をよくした。なにせ、マニエルは世間一般で美人だと言われている。目の前の宿敵と違い、化粧だってしっかりとしている。ちょっとばかし可愛いだけの美少女には負けないのだ。わかったらさっさと横恋慕をやめて引っ込んでろと言ってやった。
「ニャー」
「本当に綺麗な猫だわ。瞳が金色なのね」
宿敵はマニエルを見つめて微笑んだ。褒めたって懐柔されるものかとマニエルはキッと宿敵を睨み据えた。宿敵はキョトンとした顔でマニエルを見つめている。
「リアちゃん、何しているの? あれ、猫?」
しばらく間合いを取ったままで睨みを利かせていると、心地よい低音が聞こえてマニエルは体を震わせた。この声は、忘れるはずもない愛しの婚約者の声だ。振り返ると案の定、筆頭魔術師のケープを羽織った婚約者がいた。なんと恐るべし、職場で見る制服パワー! いつも素敵な婚約者が更に素敵に見える。犯罪級のかっこよさである。
「あ、ルーエンさん。この猫ちゃんが迷い込んで来たんですけど、ここの猫ですか?」
宿敵はこともあろうか婚約者に馴れ馴れしく話しかけた。婚約者であるマニエルを差し置き話しかけるとは、許しがたき暴挙である。マニエルは「フー!!」と宿敵を威嚇した。そんなマニエルの体が
「猫? ん?? この子……」
ルーエンはマニエルを抱き上げるとじっと見つめてきた。こんなにも見つめられたことはこれまでに無い。マニエルはなんだが気恥ずかしくなって顔を隠した。
「あら? 顔を洗ってるわ。この子、すごく綺麗な猫ですよね」
「んー、綺麗だし可愛いね」
ルーエンはにんまりと笑うとマニエルを抱き直し、頭を撫でてきた。
「ルーエンさんには懐いてますね。私はさっき、威嚇されました」
「威嚇? 可愛いその子がそんなことを?」
ルーエンの怪訝な声にマニエルはビクリと尻尾を揺らした。敵はなかなかやる。なんと余計な事を言うのか。先ほどのは威嚇ではなく、目力の
「ニャー」
「ルーエンさん、今日は何を?」
「うん。今日もマニィに花を作って貰ってもいい?」
「もちろんです。ルーエンさんは本当に婚約者さん想いですね」
宿敵はにっこりと微笑むと花束を作り始めた。いつもルーエンがマニエルに持ってくる、シンプルながら可愛らしい見た目の花束だ。ここに来てマニエルは気づいた。どうやら、会話の内容と二人の距離感を見る限り、ルーエンと目の前の少女は色恋の関係ではなく、純粋に友人同士のように見えた。
「こんな感じでどうでしょう? 今日も婚約者さんが好きなピンク色でまとめてみました」
「うん、いいね。きっと喜ぶと思う」
目の前の宿敵あらため、少女はそれを聞いて嬉しそうにはにかんだ。差し出された花束はピンク色の花と、小さな白い花がバランスよくまとめられている。少女はポケットから黄色のリボンを取り出すと、器用にそれにリボンをかけ、あっという間にシンプルな花束を作り上げた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。マニィはこの花が気に入るかな?」
「ニャー」
もちろんですわ、と答えたつもりである。ルーエンは目を細めるとマニエルの両脇に手を入れて目線を合わせた。大好きな人の顔が近づく。鼻の頭にふにっと柔らかい感触が触れて、すぐに離れた。
──キ、キ、キスされたわーーー!!!
「ルーエンさん、なんだかその子、さっきから様子がおかしくないですか? 手をバタバタしていて、まるで悶絶してるみたい」
「ははっ、本当に可愛いよね」
ルーエンはくすくす笑いながらもう一度マニエルを抱きなおすと、その体を優しく撫でた。
***
王宮の入り口近く。マニエルの侍女は主人の帰りを首を長くして待っていた。なにせ、お嬢さまが猫の格好で王宮に入り込んだのだ。だれかに捕獲されやしないかと気が気でならない。今か今かと待ちかまえていると、見覚えのある白い猫が戻ってきたのを見つけて侍女は慌てて駆け寄った。猫は「ニャー」と一回鳴いて馬車に飛び乗った。しばらくするとポーションの効き目が切れ、猫はもとの姿のマニエルの姿に戻った。
「お嬢さま、どうでしたか?」
「色々と初体験が多くて……。幸せな時間だったわ」
「初体験?」
「ルーエン様に体中を撫でまわされて口づけられたの」
「まあ!!」
侍女は驚きのあまり両手で口をふさいだ。猫の姿で恋のライバルを牽制に行ったはずが、いつの間にそんなことになったのかと驚きを禁じ得ない。
「ルーエン様が私のこと、『可愛い』って」
ぽっと頬をピンク色に染めたマニエルは、両手の人差し指の先っぽを合わせてもじもじとする。
「やっぱりルーエン様にふさわしいのは私に違いないわ。とっても優しく私に触れて下さったのよ」
「それはそうでございましょう。そんなことになって、結婚しないなどあり得ませんわ」
侍女はマニエルの言葉にうんうんと頷く。夢見心地のマニエルの元に花束を持ったルーエンが訪れたのは、僅かその数時間後のことだった。
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