第2話 悪夢


『神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであった。ようやく難所を超え、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのである。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった……』


 不意に携帯電話が鳴る。


 読み進めていたカミュを脇に置き、携帯の画面を確認すると、バンドのギター担当、堂本からの着信だった。昨日、無断で打ち上げを抜けてきた後ろめたさはあったが出ないわけにはいかない。


「もしもし、たかおくん? 昨日は打ち上げ、どうしちゃったの?」


 堂本は不機嫌そうな声でいう。


「電話しても繋がらねえしさ。昨日はたかおくんにとってうちのバンドの初ライブじゃん? 途中で帰るっていうのはどうなの。帰るにしてもさ、ひと言いって欲しかったわ」


「ごめん。体調が良くなくてさ。みんな盛り上がってたから、なんか、悪いなと思って。それより、ライブの集計、どうだった?」


「ああ、客入りは悪くなかったよ。多分、今までで一番良かったんじゃねえかな。CDも完売したしさ。とりあえずたかおくんの機材、リュウジの車に積んであるから、また取りに行ってやってくれよ」

 堂本は不機嫌な調子のまま、じゃあまたスタジオで、といい電話を切った。


 脱退したドラマーの後釜として入ったバンド。そのバンドの新メンバーによる初めてのライブの打ち上げを途中で抜けてくるというのはさすがにまずいと、思ってはいた。しかも、自主制作CDの発売記念ライブだ。けれども、ライブハウスの関係者や常連客、見ず知らずの人間たちに混ざって馬鹿騒ぎする気にはどうしてもなれなかった。そもそも、メンバーたちに対しても未だに多少の距離を感じている。そして「あのこと」に対する想いも自分のなかで整理されないでいた。飲んで騒いで、などといったことは到底出来る気分ではない。


 軽い動揺から、本を諦め、ソファーに寝転がり天井を眺める。彼女は何故僕を助けたのだろう、もう一度考えてみる。見ず知らずの男を自分の部屋に残して平気なのだろうか。勝手に合い鍵を作られるとは考えないのだろうか。いつまでたっても鍵を店に届けに来ないと、不安に思ったりしないのだろうか。そんな事を考えていた。


 身体はまだ酔いを残しているようだった。動こうと思えば気怠く、脳の中にガラスの破片が入り込んだかのように、チクチクと頭が痛んだ。瞼を閉じても眩しい。朝から昼へ向かう健全な日の光が頼みもしないのに、網膜に明かるさを届け続ける。まるで正しさの象徴のように、逃げられはしないのだと、僕の影を深く濃く鮮明に暴き出す。

 仕方なく起き上がり、遮光カーテンを閉める。ソファに寝転がり「何も考えないようにしよう」という事ばかりを考えた。「何も考えないように」とはつまり何を考えないことなのだろう。今のこの思考は「考えている」ことにはならないのか。今、この瞬間、「何も考えない」ということを考えてしまっているのではないか。意思より先に思考が考えることを求めてしまう。まるで合わせ鏡の世界のように終わりを見せない意識の追いかけっこ。その堂々巡りな思考の無意味さを思う内に、僕は再び眠りの底へと沈んでいった。



          *


 夢を見た。


 いつもの夢だ。


 部屋に独りでいる。部屋にはひとつ机が置かれてあるだけで、他に家具と呼べるようなものは何もない。その机の上に置かれている携帯電話を、じっと見つめていた。何故そうしているのかはわからない。ただ、そうしなければならない焦燥を感じていた。


 部屋は静けさに包まれている。無機質なほどに。僕は何かを待っている。何を待っているのかはわからない。ただ、何かを待っていることだけははっきりと自覚をしていた。


 不意に携帯電話が鳴る。耳障りな高い音を出して、責めるように鳴り続ける。出ないわけにはいかない、そう、思う。けれども、なかなか電話を手に取ることができない。電話に出てしまえば大変な後悔を抱えることになると、自分の意識がそう警告をする。


 携帯電話は更に激しく非難するように、音量を上げて鳴り続ける。


 なぜ出ないの? あなたのどこにこの電話を拒否する権利があるっていうの? 早く出なさいよ。そこにいることは分かっているんだから。あなたはまた、そうやってわたしを傷つけるつもり? あなたが出るまでこの電話が鳴りやむことはないのよ?


 着信音がそう語りかける。


 あなたの悪意が……


 たまらなくなって携帯電話に出る。電話口からは狂ったように罵声を浴びせる女の声が聞こえてきた。内容は聞き取れない。ただ、激しく喚き立てて電話のスピーカーを震わせていた。


 この声の主を知っている。


 何かをいわなければ。そう思う。けれども、声を出そうとしても、声が出てこない。声を出さなければ、声を出さなければと、必死になって声を出そうとする。それでもやはり、声は出ない。呼吸が速くなり、動悸が激しさを増す。不吉なほど、大量の汗が額を濡らしていくのがわかる。身体は動かない。


 声は激しく罵り続ける。


 やがて少しずつすすり泣きに変わる。


 何の予兆もなく突然通話が途絶える。


 再び静寂が訪れる。


 僕は呼吸をやめていた。


         *


「ねえ! ちょっと大丈夫?!」


 身体を揺すられる感覚、力強い声。眠りから戻っていく意識。瞼を開くと彼女の心配そうな表情が目に入ってくる。自分の乱れた呼吸の音が聞こえる。生きている、まず、そう思った。


「凄い汗! それに、酷くうなされてたよ? 本当に大丈夫? どこか具合が悪いの?」


「ああ……」


 我ながら情けない声だな、と思いつつ彼女に伝えるべき言葉を探した。


「鍵を返そうと思ったんだけど、お店の場所が分からなくて……」


「ごめん! 急いでたから教えてなかったかも! そんな事より、本当に大丈夫なの? ちょっと普通じゃなかったよ? うなされ方が」


 大丈夫、とだけ答えた。こめかみから首筋に向けて汗が流れていく。彼女の革製のソファが汗で濡れているのに気づいた。


「ごめん。ソファ、汚してしまって」


「いいのよ、別に。気にしないで。でもなんかほんと、びっくりしちゃった。ほら、昔あったでしょ? 映画。なんだっけな……そう、『エクソシスト』! あれに出てくる悪魔に憑かれたひとみたいにうなされてるんだもん。焦っちゃったわよ」


「今、何時?」


「もう夜の七時半。もしかして、ずっと寝てたの?」


「ごめん、長居をしちゃって……」


「謝ってばっかりだね。いいのよ、何も気にしなくって」


 彼女は笑いながら答えた。歯並びが綺麗だと思った。


「昨日は助けてくれて、本当にありがとう。鍵、返すね。じゃあ、帰るよ。ほんと、助かった。いろいろ、ありがとう」


 簡潔に礼をいい、そそくさと帰ろうとすると彼女は引き留めるようにいう。


「ねぇ、ごはん、食べてないんじゃない? よかったら一緒に食べにいかない? 近くにずっと行ってみたかった居酒屋があるんだよね。女ひとりだとなかなか行きづらくてさ」


 彼女は僕の腕を取り顔を覗き込む。そして、ポンと肩を叩いてひとこと付け加えた。


「私に対するお礼も兼ねて。もちろん、君のおごりでね」

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