ドント・フォーゲット・トゥー・キャッチミー
ロム猫
第1話 僕を拾った女
「あ、生きてた」
眠りから覚めて瞼を開けると、そんな声がした。ぼやけた視界が少しずつ焦点を合わせて、世界の輪郭を鮮明にしていく。見覚えのない天井のクロス、照明の形、そしてこちらを覗き込む、一対の瞳。それが女の顔であることがゆっくりと認識されていく。見知らぬ女。微笑んでいる。
「ねえ、大丈夫?」
女が言葉を発した。意味が分からない。ここは何処だろうと考える。頭が、痛い。呼吸に混ざるウイスキーの匂いが鼻腔に触れる。吐きたくなる。何かを答えなければ、そう、思う。舌が、喉が、水分を失いねちゃねちゃと気持ちが悪い。知覚されていく不快な現象をひとつひとつ辿ることで、ようやく、自分が二日酔いであることを理解できた。
「ここは……?」
「昨日の夜のことなんだけど、うちの前の歩道にね、ひとだかりができててね……」
彼女は僕の言葉を遮るようにいう。
「そのひとだかりの中心にあなたが倒れていたの。行き倒れみたいにうつ伏せになってね」
まるで「あなたは何も悪くはないのよ」と優しく諭すような口調で説明を続ける。
「そんでね、みんな、ざわざわしてるだけで誰もあなたを介抱しようとしないの。わたしもどおせ酔っ払いが酔い潰れて寝ているだけだろうと思ったんだけど、誰かが警察を呼ぼうとしてたからね、大ごとになったらかわいそうだと思って、一緒にいた友達とあなたを部屋まで運び込んできちゃったってわけ。知り合いの振りをしてね」
彼女は、何か飲む? と尋ねた。ゆっくりと身を起こすと、自分がソファーに寝かされていたことに気づく。ありがとう、と返した言葉が何故か自分の声ではないように感じられた。
「はい、これでも飲んで」
彼女は目の前のローテーブルに黒い液体を注いだグラスをストンと置く。
「黒酢はちみつジュース。二日酔いによく効くんだって」
そういい、ふたたび彼女は微笑んだ。
何かを言うべきなのだろうと思ったけれども、言葉を探せなかった。現実と意識を上手く重ね合わすことができない。喉が焼けるように熱く、とりあえず出されたジュースを飲むと、冷たさと心地よい酸味に少しだけ身体が癒されたように思えた。
彼女は慌ただしく身支度をしていた。アンティーク調の鏡台の前に座り、茶色がかった長い髪をとき、素早く器用に結い上げていた。黒地に花柄のワンピース、背中越しに見ても細身であることがわかる。つけまつげの具合を確かめている仕草。鏡の中で彼女と目が合った。少し派手さを感じさせるのは化粧のせいか、けれども大きな目が印象的な整った顔立ちだ。歳は二十代後半くらいだろうか。動きをとめ、ニコッと笑みを投げかけてくる。思わず目を逸らし、残りのジュースをひと息に飲み干した。
「私、もう仕事に行かなくちゃいけないから、ゆっくり休んでって。鍵、渡しておくから、動けるようになったらお店まで返しに来てね。冷蔵庫の中のもの、好きに食べても飲んでもいいから」
相当急いでいるのだろう、彼女は早口でそう言うと、じゃあ、行ってきます、と足早に出かけて行ってしまった。鍵を返す先の、「お店」の場所も名前も告げずに。
彼女がドアを閉じた「バタン」という音を最後に、部屋は静けさに包まれた。
独り部屋に残され、少しずつ回復していく意識のなか、この状況を整理してみる。
ライブの打ち上げがあった。
途中で抜けて、独り、バーでウィスキーを飲んだ。
見知らぬ女の部屋にいる。
彼女の話からすると、飲み過ぎて歩道に倒れていたところを助けてもらったようだ。バーで酒を飲んだ記憶はあるが、その後の記憶は全く損なわれていた。とりあえず、部屋を出て外を確認してみると、見覚えのある場所、つまり、バーから地下鉄の駅に向かう途中で倒れたということなのだろう。確かに昨日は良くない飲み方をした。なかばヤケ酒のような、自分を傷つけなければならないような焦燥を抱えて飲んでいた。
無論、飲み過ぎて記憶を無くすというのは初めてのことではない。けれども、記憶を無くした上、路上に倒れて眠っていたというのは初めてのことだった。まして、見ず知らずの異性に助けてもらい、一晩を過ごす。こんなことが起こり得るのだろうか。
もし、僕が変質者だったら彼女はどうするつもりだったのだろう。自分が逆の立場であったら間違いなく、警察なり救急なりを頼ったと思う。道端に女が倒れている。介抱くらいはするかもしれない。けれども最終的には信頼のおける第三者に顛末を頼むに違いない。良かれと思って施した善意が厄介ごとになって返ってくる、そんなことはよくある話だ。彼女は善意からお節介を買って出たのだろうか。あるいは、この後チンピラが乗り込んで来て、ひとの女に手を出しやがって、と美人局のようなことが起こるのだろうか。よく分からなかった。
ふたたび、喉の渇きを覚える。冷蔵庫を開けると、例の黒酢ジュースらしきものがポットに入っていた。おそらく手造りなのだろう。グラスに注いでてひと息に飲み干す。
部屋は1Kで、十二畳くらいの広さだ。ベッド、ソファー、ローテーブル、鏡台、それから自家製の棚に大量のCD。大量のファッション雑誌。オーディオ、テレビに、本棚には漫画と文庫本。小綺麗に整頓されている。
トルストイ、シェークスピア、フランツカフカ、ドフトエフスキー、カミュ……、全て海外の作家の翻訳ものばかりで、日本人の作家の書籍はない。
「鍵をお店に返しに来てね」、彼女の言葉を思い返してみる。彼女が出かけたあと外に出る時、ドアは施錠されていなかった。つまり、この鍵はスペアキーでない可能性が高い。けれども返す先の「お店」がどこにあるかも分からない。一度家に帰りたかったけれども、部屋を開け放しで出ていくわけにも、施錠していくわけにもいかなかいだろう。そもそも、彼女が何時に帰ってくるかも分からない。それに、助けてもらったお礼もきちんと言えないでいた。
「待つことにするか」
この状況が夢でないことを確認するように、大袈裟な声を出してみる。何か退屈しのぎになるものはないかと本棚を物色してみた。少し後ろめたさを感じながら文庫本を漁ってみる。一番ページ数が少ないという理由で、カミュの『シーシュポスの神話』という表題の本を手にとってみた。
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