第3話 居酒屋

 すぐそこだから、と先を歩く彼女についていく。九月とはいえまだ少し蒸し暑さを残す夜の隙間を、蟋蟀の鳴く声が街の喧騒に抗うように埋めていた。昭和の風情を残す、というよりは昭和をコンセプトに内装された居酒屋に入る。壁に貼られたブリキ製の看板。かつて商品の宣伝として民家の塀に貼られていたものだろう。それから裸電球。木製のテーブルに、プラスチックのビールケースが逆さに向けられ椅子の代わりとして置かれてある。

 いらっしゃいませ、と、愛想良く寄ってくる店員に二名で来店した旨を伝えると、奥の個室に通された。店内は酔客達の大きな声で賑わっている。

 とりあえず注文した生ビールが運ばれてくると彼女は明るい調子で乾杯を促した。二日酔いの影響下から脱したとはいえ、酒の進まない僕をしり目に、彼女はひと息にビールを飲み干した。空のジョッキを置き、メニュー片手に二杯目の検討をしている。ツマミ適当に頼むね、と店員を呼び出して注文を済ませていた。テンポ良く進められていく彼女のペースに、僕はただ従っていれば良かった。


「体調は良くなった? あ、わたしの名前はみどり、君は何て呼べば?」


「たかお、と呼んでくれれば」


「たかおくん、歳いくつだっけ?」


「二十五」


「ああ、やっぱり私のほうが上かぁ。でももっと若く見えるね、たかおくん。よく言われない? 学生さんかもしれないって思ってた」


「みどりさんは?」


「幾つに見える? なんてね。二十七だよ。相応でしょ?」


 相応とも思えるし、若いとも老けているとも思えた。つまり、二十七歳の標準的な女性の容姿が良く分からなかった。彼女はよく話し、よく食べ、そしてよく飲んだ。まるで何かに追われるように。


「たかおくんはさあ、仕事は何やってんの?」


「建築関係。主に内装だよ。暇なときはひと月仕事が無いこともあるし、忙しいときは二、三ヶ月休みを取れない事もあるんだ。仕事はきついけど、給料は悪くない」


「今は暇な時期なんだ?」


「そうだね。割と自由が利くんだ。前もって予定が分かっていれば休みを取る事もできる。だから、バント活動なんかもやりやすいんだよね。みどりさんは何してるの?」


「わたしは服飾関係。アパレルの雇われ店長ってやつかな。ってか、たかおくん、バンドやってんの? 全然そんな風に見えないんだけど」


「先輩がドラマーでね、俺バンド辞めるからおまえ代わりに叩けって、なかば強引に先輩の後釜としてバンドに加入させられたんだ。学生の頃、音楽系のサークルでずっとドラムをやっていたからある程度は叩けるんだよ」


「プロ目指してんの?」


「他のメンバーはね。僕はあまり考えたことはないなぁ。叩けといわれれば叩くし、他にいいドラマーが見つかったから辞めてくれといわれれば辞める。そのくらいの距離感がちょうどいいのかもしれない」


「へー、変わってんのね」


 みどりさんは二杯目の焼酎のロックをクイッと空け、少しぞんざいな調子でそういった。

 「プロを目指していない」というのは正確ないい廻しではない。そもそも、僕は何も目指していなかった。何かを求めたり欲したり、その行為に纏わりついてくるエゴや失望から自分を遠ざけていたい、それが本音だ。挫折、嫉妬、失望。人生に時折り交わってくる人間の暗部は、求めるが故に、欲するが故に、顕在化する、少なくとも僕はそう考えていた。自分の暗部を欲求ごと閉じこめる、そうしてさえいれば、善人でいられるのではないか。そんなふうに思っていた。そもそも、そのような思考そのものが善人からは程遠いものだという事実さえ、ねじ伏せて封じてしまいたかった。

 そこへ行くと、バンドのメンバーというのは理想的な関係性だ。メンバーが求めるものにドラムスとして答えることが出来さえすれば必要とされる。必要とされることで自分の輪郭が鮮明になっていく感覚が有り難かった。こちらからは求めない、しかし与えることが出来る能力がある。僕はその明確さの中に自分自身の存在理由を見いだしていた。


「ふうん、バンドマン、ねぇ」


 みどりさんの四杯目になる焼酎のロックも、もう少しで空になる。飲むペースがかなり速いのが気掛かりだ。彼女の白い肌はすっかり紅潮して、たまにろれつが廻らなくなることがある。


「だいたいさぁ、三十迎えたらある程度結果が出てないとおかしいだろって話。チャラチャラしてさあ、バンドマンなんて碌な奴いないよね」


 彼女はグラスをタン、と叩きつけ、店員を呼び五杯目の焼酎のロックを注文した。明らかに酔っている。


「あっ、ごめん。たかおくんは違うからね」


「いや、別にいいよ。間違っているとは思わないし。彼氏がバンドマンなの?」


 少し躊躇を見せた後、彼女は、そう、と答えた。


「元彼氏、だけどね。八年も付き合ってさ、バンドも生活も支えてやったのにさ、『好きな娘が出来たから』ってさ、そんなの通用するか? そりゃ、あたしだってさ、歳を取るわよ。若い子には勝てないしさ」


「そうなんだ」


「もともと浮気の多い奴でさ、バンドの客を喰うような最低の奴なんだけど、今回は浮気じゃなく本気なんだってさ、力説されたわよ。でも、本気ならしょうがないか、とはならないでしょ? 普通。頭おかしいとしか思えない」


「そうだね」


 とりあえずそう答えた。正直、何て答えたらいいのか分からない。

 よくある話といえばよくある話だとは思った。恋愛は法に拘束されない。そこには果たさなければならない義務も主張できる権利もない。法律に抵触さえしなければ、罪は存在しない。多くのひとはそんなふうに人生と向き合っているのだろう。


「八年だぞ、八年! 女の一番いい時期を費やした時間が八年、たかお! おまえにあたしの気持ちが分かるか?」


 みどりさんは少しずつ絡むような口調になってきた。良くない酔い方だ。

 六杯目を空け七杯目を注文しようとする彼女を止めた。もう、お開きにしよう、と説得し、伝票を持ってひとりレジに会計を済ませに行く。酔いがまわり聴力の落ちた客たちの声が、互いに自分の主張を相手に届けようと会話の音量を増幅させ、店の喧騒は飽和に達している。会計を済ませ釣りを受け取りトイレに寄って用を足したあと席に戻ると、みどりさんは机に頭を突っ伏していた。酔って路上で寝ていた自分がいうのも何だが、いくら何でも飲みすぎだ。


「みどりさん、帰るよ」


 彼女の肩を叩き声を掛ける。返事はない。


「部屋まで送ってこうか?」

 

 ふたたび声を掛ける。

 みどりさんは無言のまま顔をあげ、コクリと頷いた。

 









 

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