第20章「泥濘(でいねい)」

…暑い日が続いていた。


近くの小川を見ると大部分の水が干上がり、

死んだフナが蛆に食われているのが見えた。


気温35度を超える夏日が、

あと一週間は続くと天気予報は言っている。


僕は汗でシャツを濡らしながら、

書店屋で買った今日発売されたハードカバーの新刊を

カバンに入れ、土手沿いの道を自転車で漕いでいた。


財布の中には10円玉が一枚きり。

持ってきたペットボトルもすでに空になっていた。


自転車を漕いでしばらくしないうちに

腕は太陽の熱でジリジリと焼け、痛いほどになっていた。


樹木も植えてあるから土手沿いの道なら

少しは涼みになると思ったのが間違いの元だった。


あと10分もこの道をひた走るのかと

考えるとうんざりする。


そうしてふと下を見たとき、

一人の女性が橋の下にいるのが見えた。


…パンツスーツに半袖シャツを着た一人の女性。


彼女は水の枯れかけた川岸をウロウロとし、

一生懸命何かを探しているように見えた。


僕はその様子を少し眺めたあと、

自転車から降りて橋の下へと向かい…


「…ありがとね、一緒に探してくれて。」


そう言うと、この時期に珍しいほどの

白い肌をした女性は小さく笑った。


話によると、どうやら彼女は恋人からもらった

大事なネックレスを箱ごと川に落としてしまったらしい。


「車内が暑くてね。せめて風でも通そうかと思って

 窓を開けたのが運のツキでね、うっかり後ろの席に

 立てかけてたバッグの中身が転がり落ちちゃって、ドボン。

 …全く、荷物を満載にして車を運転するもんじゃないわ。」


「あーあ、」と盛大にため息をつきながら、

女性はぬかるみになった川底を見渡す。


日は当たらないものの、

橋の下の水量は著しく減っており、

蒸した空気に泥の臭いが混じっている。


「…暑いですし、探すのは夕方からでもよくないですか?」


僕がそう尋ねると、女性は首を振った。


「ううん。彼氏が結構嫉妬深いから、

 どこかにやったのがバレたら変な勘ぐり入れられちゃうんだ。

 …だから早く見つけないとね。」


そこまで言ったところで女性は「あっ」と声をあげ、

隅に置かれていた大きなバッグを取り上げると、

中から2本のスポーツドリンクを出してきた。


「喉、渇いているでしょう。せっかく手伝ってくれてるんだし

 熱中症で倒れちゃっても困るから、飲んで。」


正直、喉がカラカラだったので、

僕は半ばためらいながらも受け取り、喉を潤す。


考えれば、随分と喉が渇いていた。


中身はあっという間になくなり、

気がつけば僕の手には2、3滴ほどの

水分のほか、何も残ってはいなかった。


「…あはは。やっぱり喉渇いていたんだ。」


そう言って、女性もペットボトルの蓋を開けようとするが、

その時「あっ」と声を上げる。


「あった…!」


そうして、彼女の目線の先を見れば、

岸辺の反対側、橋の影になったところに

紫色のケースが水たまりの中から覗いていた。


僕は空のペットボトルをその場に置くと、

ぬかるむ足元に注意しながら川の上を歩く。


一瞬、泥に足が沈むかと思われたが、

干上がった川床はそれほど深さが無いように思えた。


そうして、10歩も歩かぬうちに

僕はケースのすぐ側まで近づく。


あとは屈めば楽に取れる…そう、思った時だった。


タプンッ

タプンッ


ケースが急に上下に揺れはじめた。


水たまりにいくつも波紋ができ、

その中をケースが浮き沈みする。


僕は慌てて取ろうとするも、

その瞬間、するりと僕の手を抜けて、

チャプンとケースは水の中へと沈んでしまった。


「あっ」


思わず声が漏れる。

まずい、水たまりの中に手を入れないと…


そう思った時、女性の声が耳に届いた。


「あ、右!右のほうに出てきた。」


「え?」と思いつつ、言われた通り右を向くと、

確かに今度は右の水たまりからケースが半分だけ飛び出している。


僕は何かの見間違いかと思い、

慌ててそちらの方へと手を伸ばす。


途端に、またチャプンっとケースは沈んでしまった。


「あ、今度は左!」


見れば、また左の水たまりから半分だけケースが出ている。


僕は半ばヤケになり、沈むより先に取ってやろうと手を伸ばすも

ケースはあっという間に水の中へと消えていく。


その時だった。


クスクス…

フフフ…


小さな、子供の笑い声が橋の下に響く。

一人…いや、三人以上の声が橋の下にこだまする。


パチャン、ポチャッ


気がつけば、水たまりや泥の中に、いくつもの小さな靴跡が付き

僕を遠巻きに囲むように集まりはじめた。


と、同時にまた別の水たまりから

すーっと半分だけケースが飛び出してくる。


僕は、どうも相手から弄ばれているのを感じ、

一瞬だけ取ろうとするのをためらう。


と、その時、僕の近くに影が出現し、

ケースを取ろうとするもそのまま空をつかんだ。


「くっそー、逃したか。」


見れば、それは対岸にいた女性であり、

履いているスーツの裾に泥が付くのも構わず、

どこか楽しげな表情で水たまりを見つめている。


「あ、あっちに行った。手伝って。」


そうして、女性が指さした水たまりに僕は慌てて飛びつく。


しかし、半分だけ出たケースはあっという間に沈んでいき、

彼女は悔しそうに別の水たまりを見つめ、走っていく。


「しょうがない、二人で捕まえよう。」


そうして、僕と女性は二人で

水たまりを移動するケースを追うことになった。


「こっちか」


「あ、逃げられた。」


「待って、待って。」


「あ、そっちに行った…。」


…それから10分ほど。


僕と女性は息を切らせながら

橋の下でケースを取ろうと走り回っていた。


ケースは全くというほど捕まらず、

女性のパンツスーツには無残なほどに泥が跳ね、

僕のジーンズも同様になり、お互い泥だらけになっていた。


姿の見えない子供の声は、

いつしか「キャア、キャア」というはしゃぎ声になり、

時折、歓声や、囃子声なども聞こえる。


「…ご、ごめん、もう無理、ちょっとタンマ。

 休憩させて、息が続かない…。」


…結局、ケースの追いかけっこは

女性の息が切れたところでストップした。


彼女は顎にたっぷりと溜まった汗を拭うと、

ふらふらと対岸へと歩いていく。


「うー、キツイ。こんな格好で遊ぶもんじゃないわあ。」


そう言うと、彼女は岸辺のコンクリートに尻餅をつき、

近くにあった手をつけていないスポーツドリンクをつかむと

一気に半分ほど飲み干す。


「あー、もう。君もこっちに来なよ。

 彼氏の分のつもりだったけど、これあげる。」


そうして、バッグから3本目の

スポーツドリンクを出すと僕の方へと放った。


「…ちょっと休憩しよ。あっちの子たちは、

 まだはしゃぎ足りないみたいだけどさ。」


見れば、泥の靴跡はペタペタとついては消えを繰り返し、

ケースはそれを追うかのようにあちこちの水たまりで

浮き沈みを繰り返していた。


「…遊んでいるんだよ、あの子たち。」


そう言うと、女性は膝を抱えてペットボトルの中身を飲む。

…その瞳はどこか懐かしくも寂しげに見えた。


「よく、子供だと気付きましたね。」


僕は、なんとなく思ったことを女性に言ってみる。

すると彼女は肩をすくめて笑って見せた。


「…いや、あの遊び方は子供だよ。

 この前まで保育士をしていたからよく分かる。

 だからつい、付き合って遊んじゃったんだよね…。」


そうして、彼女はしばらく水たまりを見つめていたが、

やがてズボンの渇いた泥をはたき落とし、立ち上がる。


「…そうだね、あのネックレス

 あの子たちにあげることにしようかな。」


女性の言葉に、僕は驚く。


「え、いいんですか?大事なものなんじゃ…。」


すると、彼女は首を振る。


「…いや、もういいかなって。

 彼からもらったものだけど…なんだかね。

 最近は付き合うのも、ちょっと疲れちゃってきてね…。」


そう言って、彼女は伸びをする。


「…仕事も変えて、環境も変えて、

 でも、本当にそれをしたかったかと言えば、

 そういうわけでもなくて…わかるかな、今の私の気持ち?」


腕を下げると、彼女は僕の方を向く。


その目はどこか悲しげで、

どこか迷っているようにも見えた。


でも、その迷いは学生の僕にはわからなかった。


仕事や将来なんてまるでわからないのが今の僕の現状だった。

そんな僕に何かを言う資格はないと思っていた。


だから素直に首をふると、女性は笑った。


「そうだよね、こんなのただのワガママだ。

 人間、できる環境で出来ることをしなきゃいけない。

 …頑張らなきゃ、いけないんだよね。」


そうして、前を向いた女性は「あっ」と声を上げる。


…橋の下、干上がった川の石の上に

紫のケースが載せられていた。


汚れもない、綺麗なケース。

彼女は川床を歩くとそれを手に取る。


「…よかった。何ともなってない。」


見れば、それは綺麗な真珠のネックレスで、

夏の日差しを浴びてキラキラと輝いていた。


「…返してくれて、ありがとね。」


女性はそう言うと、川床の石をトントンと叩いた。


「もちろん、君もね。」


そうして、女性は僕の方を見つめ、

ニッと笑った。


「…あーあー、それにしても服が泥だらけだ。

 これ、どう洗濯しようかなー。」


岸に上がると、女性は自分の

シャツやズボンを見て困ったような声をあげる。


僕も、同じくらいに泥で汚れているので、

今日の洗濯をどうしようか考えあぐねる。


女性はパシパシと泥を払う仕草をするも、

体についた泥は一向に落ちない。


「うーん、まあ車の中には着替えもあるし、

 ここでいっそ服を替えて…。」


途端に、女性の方から服のジッパーを下げる音がし、

僕はとっさに後ろを向く。


「え、ちょっと、どこで着替えようとして…。」


『イヤ、脱グノモイイケド、着テイルカラネ。』


…それは、どこかで聞いたような声だった。


甲高い声。


大人の出すものよりもハイトーンで

子供の声に近く…


『懐カシイヨネ、春ブリカナ?』


振り向いた背後。


そこに立つネコの着ぐるみは、

一抱えはありそうなバッグを肩から下げ、

中に紫色のケースを収めるとこっちを向いた。


『…ソレニシテモサァ、不用心ニモ程ガアルヨネ。

 ネットデ知リ合ッタ彼氏ナノニ、

 ワザワザ、オ金尽クシテ、稼グタメニシタクモナイ仕事シテサ、

 コーンナニ安イ、ネックレス大事ニシテサ…』


僕はそのネコをどこかで見たことがあった。


春先のコンビニ。

ガムテープの貼られたキャンピングカーから見えた顔。


…そう、その二階のアパートの住人は

みんな着ぐるみを着ていて…。


『カワイソウニネー、給料良イカラッテ、

 ウチノ会社ニ勤メタセイデ

 将来、マトモニ死ヌコトモ出来ナインダヨ。』


その時、強烈な暑さが肌を焼くのを感じた。


気がつくと、僕と着ぐるみは一台の車が停まった橋の上。

…炎天下の橋の上に立っていた。


『デモ、コレモ運命ダヨネ。仕方ナイ、仕方ナイ。』


そう言うと、バッグを肩にかけた着ぐるみは

道の傍らに停められたガムテープだらけの大型車に

乗り込もうとし…こちらを向く。


『ア、ソウソウ。君ハ秋、モウ一回ダケト会ウヨ。

 …デモ、絶対気ヅケ無イ。ソノ姿ニ気ヅク事ハ全ク無イ。

 最モ、覚エトク必要モ無イケドネ。』


『ジャアネ!』そう言うと、着ぐるみは車に乗り込み、

駅の方へと走り去って行った。


僕は半ば呆然としながら自転車のところに戻ると、

ペダルに足を乗せ、マンションへと帰ろうとした。


キャハハハ…


…その時、微かながら

橋の下から子供の声が聞こえた。


数人の子供のはしゃぐ声。


しかしその声は、どこか悲しげな、

哀愁を帯びたような声のように

僕には聞こえていた…

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