第16章「霧の中の観覧車」

霧の中に観覧車の輪郭がぼんやりと見えた。


ビルの上、街の中心部に生えた観覧車。


僕はそんなところに観覧車があったのかと訝しみつつ、

試しにその場所まで歩いてみることにした…


…この街は年に何度か霧に包まれる。


夏の急に寒くなった時期や

冬や春の雪解けの早朝に

濃いミルク色の霧が辺りを覆う。


そうなると、だいたい車5台分までの視界しか確保できないので、

人々は難儀しながら目的地までのろのろ運転で向かう。


しかし、その日は何も予定がなかったので、

僕はたまには霧の中を散歩してみようかと気まぐれを起こし、

街の中をさまよっていた。


街の様子は霧が出ていると出ていないとでは随分違う。


輪郭はぼやけ、距離感がわからなくなり、

太陽が見えないため、時刻さえもわかりにくくなる。


周囲にもどれほどの人がいるのかわからないため、

誰もいない道を独り占めしている気分になり、

半ばワクワクして歩道を進む。


そうして、5分ほど歩いた頃であろうか。

僕の前方から小さな人影がやってくるのが見えた。


「もうすぐだからね、もうすぐだからね…。」


それは、箱を抱えた

小学校低学年ほどの少女だった。


箱の中には黒い毛の塊が入っていて、

僕は休日の早朝に出歩く少女を不審に思い、

どうしてこんな朝早くに箱を持って歩いているのかと

少女に尋ねてみた。


すると、少女はためらいながらも

こう答えた。


「えっと…ウチのミィが死んじゃったの。

 ミィっていうのはこの猫なんだけど、

 もう起きないってママに言われたの。」


僕は彼女の持つ箱の中を覗き込む。


猫はすでに死んでいた。


時間が経っているためか、

冷えた体はさらに冷たくなっており、

ダンボールの中にただ小さく収まっている。


「でもね、観覧車に乗れば生き返るって。

 元気になるって友達から聞いて、ここまで来たの。」


そう言って、彼女はビルの屋上の

霧の中に浮かぶ観覧車を見上げる。


「私、これからあの場所に行くんだけど、

 お兄ちゃんも一緒に来る…?」


少女の目、ビー玉のような瞳は僕の目を覗き込む。


…それから2分後、

僕は死んだ猫の入った箱を持つ少女と共に

霧に浮かぶデパートのガラス戸を押し開けていた。


…デパートの中は人っ子一人いなかった。


店内は消灯されており、

階段横の古めかしいエレベーターだけが

わずかな明かりを放っている。


「早く、屋上にいこう。」


少女の声を合図に、

僕は少女と共にエレベーターに乗り込むと、

観覧車のある屋上行きのボタンを押す。


…それにしても妙なところだ。


早朝に開いていたこともそうだが、店員一人いない。

果たしてこんな場所で観覧車など動いているのだろうか。


そんなことを思っていると

屋上についたのかエレベーターのドアが開き、

僕らの目の前に一台の観覧車が姿を現した。


…それは、大きな観覧車だった。


半径が屋上の半分以上を占拠するような大きさであり、

円形の車輪の周りにカラフルなゴンドラがついた

オーソドックスなタイプの観覧車でありながら、

年季の入った重厚感があった。


その巨体はゆっくりと軋む音を立てながらも回り続け、

見上げる僕らを圧倒している。


「大きいね。」


「うん。」


いつしか、僕はそんな返事しかできなかった。


「すげえよな、これで俺も大人になれちゃうんだもんな。」


気がつけば、少年の声がした。


見ると、隣に半ズボンをはいた

小学校低学年ほどの子供が立っている。


「俺、知ってるんだ。これに乗れば大人になれるって。

 いいか、お前ら見てろよ…!」


そう言って、少年はさっと駈け出すと

勢いよく開いているゴンドラの中に体を滑り込ませた。


「ほら、これで回ればいいだけなんだぜ。

 簡単だろ?」


少年を乗せたゴンドラは、

じわじわと上に上がっていく。


「…私も…!」


すると、少女も駆け出し、

次のゴンドラの中に猫の入ったダンボールを置く。


「これで、生き返るなら…ミィちゃん…!」


そうして、少女はゴンドラから離れると

両手を組み合わせ、祈るように跪く。


「お願い、神様。お願い…!」


少女は必死に祈り続ける。


「お願い、お願い…!」


ゴンドラはゆっくりゆっくりと上がっていく。

少年と死んだ猫を乗せたまま。


やがて、一周回ったゴンドラはこちらの方へと戻ってきて…


「ミィちゃん…!」


その時、僕の耳に甲高い仔猫の鳴き声が聞こえてきた。


少女はすぐさま駆け出し、

先ほどまで死んだ猫を入れていたゴンドラに駆け寄る。


「ミィちゃん、ミィちゃん!本当に生き返った…!」


そうして、彼女が抱き上げたのは

一匹の黒い仔猫であった。


見れば、ゴンドラの中にはおがくずしかなく、

あの死んだ猫の姿は影も形もない。


「この傷、耳の後ろについた傷!

 この子、ミィちゃんの子供の頃の姿をしてる!」


少女は嬉しさのあまりぴょんぴょんはね、

仔猫は困ったようにピィピィ声をあげる。


その時、ハスキーな声がした。


「ほら、俺、大きくなっただろう?」


見れば、ゴンドラの中から先ほどの少年が顔を出した。


しかし、その背は幾分か伸びており、

声も若干低くなったような気がする。


「よーし、もっと大きくなるぞ。」


そうして、少年はゴンドラに乗ったまま

2周目へと入っていく。


「ねえ、ミィちゃんも元気になったし、

 お祝いに少し遊びたいんだけど…いいかな?」


見れば、仔猫を抱いた少女はもじもじとしながら

近くにある小さなメリーゴーランドを見つめている。


しかしながら、他の遊具は有料らしく、

メリーゴーランドの前には四角い箱が立っており

『一回300円』とペンキで文字が書かれていた。


「…一回、だけだからね。」


そうして僕はため息をつくと、

少女を遊ばせるために財布を取り出した…


「すげえや、もうこんなに身長が伸びてる…!」


観覧車の中から聞こえるのは大人の声で、

頂点へと向かうゴンドラには背の高い青年の影がある。


僕は財布から消えていく硬貨を数えつつも、

今度は動くパンダに乗り込んだ少女に目をやった。


「嬉しいね、ミィ。今日のことはママに内緒だからね。」


彼女の肩の上に乗った猫は器用にバランスをとり、

揺れるパンダとその上に乗った少女に嬉しそうに声をあげる。


その時、僕はふと気づいた。


…猫、大きくなっていないか?


そう、先ほどまで、

少女の猫は仔猫ほどの大きさだった。


それが、今や成猫ほどの大きさへと変わり、

長い手足で少女の肩の上を移動している。


「うわーすげえや、ヒゲがこんなに…」


その時、僕の背筋を冷たいものが走った。


ギイギイと先ほどよりも早く回る観覧車。


その観覧車から聞こえる声。


ゴンドラの中から聞こえるのは

すでに青年の声ではない。


中年から老人へと変わる声だった。


ギィギィと軋む観覧車はさらに回る。

見れば、その回転速度はますます上がっていくようだ。


その時、少女の口から悲鳴が漏れた。


「どうして、どうして、なんで…ミィ…!

 なんで、この前みたいに毛が抜けるの!

 ぐったりしてるの…!」


見れば、止まったパンダの遊具の上で

少女が必死に猫を抱えている。


猫はすでに瘦せおとろえ、

毛がところどころ抜けかかっている。


老衰の兆候…!


「いや…また死んじゃうなんて、いや…!」


その時だった、ギギギッと後ろの方で

何かが軋むような音がした。


見れば、観覧車の中心部の軸が

わずかにずれている。


「やったー、大人…俺は…大人…。」


ゴンドラから伸びる腕。

それはすでに干からびた老人のものへと変わっている。


中の少年…いや、老いた老人は

観覧車がおかしな動きをしている

ことに気づいていない。


そして、どこから出たものか、

巨大なボルトがゴトンと下に落ちると観覧車は横に大きく歪み、

ゴンドラごとごろりと横に転がりだす。


「ミィちゃん…!」


その時、少女の腕の中で

ぐったりしていたはずの猫が飛び出した。


そして、タッタッと勢いよく駆けていくと

転がりゆく観覧車のゴンドラの中へと滑り込む。


「ミィちゃーん!」


僕はとっさに駆け出していこうとする

少女を捕まえる。


「そんな、ミィちゃん…!」


少女は何もない空をつかみ、

泣きそうな声を上げる。


同時に、転がる観覧車が屋上の柵を壊した。


回転が止まらない観覧車はそのまま転がり続け、

デパートの下へと、霧深い地上へと落ちていく。


…あっという間の出来事。


猫と少年を乗せたまま、

観覧車は下へと落ちていった。


「嘘…ミィちゃん…。」


その時だった。

不意に建物が揺れ始めた。


揺れは大きく、まともに立っていられない。


そして、気づく。


周囲の遊具が壊れていくことに。


メリーゴーランドも、パンダの遊具も、他の乗り物も、

まるでネジを外したかのようにバラバラに分解され、

崩れていく。


僕はとっさに少女を担ぎ、

エレベーターでは危ないと判断し、

建物の中へと続く非常階段を降りていく。


…だが、階段を降りるあいだも

揺れは収まらない。


いや、ますますひどくなっていく。


僕はすすり泣く少女をかばいながら階段を降りていく。


今や、ドーン、ドーン、という派手な音が周囲に聞こえ、

その都度建物が揺れていく。


これは一体なんなのか。

なぜこんな音がするのか。


その時、一歩踏み出した僕らの前方に

何かが穴を開けた。


崩れる鉄骨。

落ちていく瓦礫。


その時、僕は見た。


巨大なショベルカーを。

建物を崩していく黄色いショベルカーを。


その下には何百人という見物人と

工事現場の人々がこちらを見ている。


何で、何で…。


半ばパニックになりながらも

僕はショベルカーを避けるように少女を担いで進む。


もうもうと瓦礫とともに土煙が上がる中を

半ば咽びながら、右へ、左へ、

とにかく地面に足がつくところまで必死に走る。


そして、最後の段を踏みしめた時、

出口のドアをくぐる瞬間に思い出す。


…そうだ、ここはデパートなんかじゃない。

ここは、この場所は…。


「…あ。ここ、市役所になっちゃった。」


少女の声に気がつけば、

僕は建物の外…市役所の外に立っていた。


そう、すっかり忘れていた。

この場所は市役所だ。


僕が街にいた時から、

ここは市役所だったじゃないか。


途端に、少女の重さが肩にのしかかる。

安堵とともに疲れがくる。


そうして、僕がゆっくりと少女を降ろすと、

少女はつと顔を上げて、大きな声で叫んだ。


「声!仔猫の声が聞こえる。」


そうして、少女は市役所と雑居ビルのあいだ、

路地の隙間へと腕を差し込むと、

慎重に、そろそろと抜き出しながら

片手ほどの小さな毛の塊を手に取った。


「ミィ…!無事だったのね…ミィ…!」


それは、仔猫だった。


観覧車で見た時と同じ、

耳の後ろに傷のある黒い小さな仔猫。


仔猫は少女の手に抱かれたところで安心したのか鳴き止み、

今度は小さな寝息を立て始めた。


「よかった…本当に、良かった。」


気がつけば、少女は泣いていた。

ポロポロと涙を流し、喜んでいた。


「もう、離さないから。ずっと、一緒だから。」


そう言うと、少女は小さな仔猫をぎゅっと抱き締める。


…いつしか、霧が薄くなっていた。

出勤途中のサラリーマンが道の向こうからやってくる。


少女は仔猫を抱きしめながら、泣き続ける。


僕は少女の肩にそっと手を置くと話しかけ、

彼女を家まで送るために立ち上がり、

二人と一匹で人混みの中へと歩き出した…


…それからしばらくして、

僕は街の図書館である新聞記事を見つけた。


それは『デパートの観覧車、落下事故から30年』という見出しであり、

デパートの目玉として屋上に据え付けられていた大型観覧車が暴走し、

多くの死傷者を出した事件から30年が経過した旨のことが書かれていた。


当時の新聞によれば、観覧車は老朽化によりボルトのネジが落下し、

ゴンドラごと観覧車が横転したため、

周囲に死傷者の出るひどい事故になったそうだ。


その後、事故を機にデパートの売り上げは下がっていき、

閉店後に土地は街へと売却され、取り壊された跡地に市役所が建ったという。


…また、その記事には続きとして以下のようなことが書かれていた。


デパートの下へと落ちていった

観覧車の本体が未だに見つかっていないこと。


唯一、ゴンドラの中に乗っていた少年が

同じく行方不明になっていること。


…そして、記事の最後には、『行方不明の佐藤雄大くん(当時8歳)』

という名前とともにあの観覧車に乗っていた少年がモノクロのフレームの中で

笑っている姿が写しだされていた…

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