第15章「生体化学応用研究所・宿舎」

春先に、ゼミ仲間の秀治がバンドを始めた。


そのせいで、僕もマネージャー代わりに

広報や会場のセッティングなどを手伝うことになり、

帰宅時間が遅れることも多くなった。


「どうせ、家にいるだけでなんにもすることないだろ?

 俺が誘ってるんだからさ、感謝しろよ?」


そう言って、ケラケラと笑う秀治を無言で

バイト先のコンビニにねじ込み、

僕はさっさと自転車で帰ることにする。


線路沿いにある住宅街のコンビニは、

夜の8時を過ぎたあたりでも煌煌と光を放ち、

駐車場にはひっきりなしに車が停まっている。


その上には人が住めるようなアパートがあり、

建物の裏手には住人のものだろうか、

小さな物置の奥に何台もの車が停められていた。


秀治の話では2階は会社の女子寮だそうで、

時々上の階の住人が買い物に来るのだという。


「女の子が毎回買い物に来るなら羨ましい環境じゃないか」と

言ってみるも、秀治の反応はイマイチ良くない。


「まあ、な…お前も見てみればわかるよ。」


そう言って、

翌日にまた秀治をコンビニまで送った後、気づく。


コンビニの建物。

その後ろに置かれた車。


そのどれもがバンやキャンピングカーなど

大型車ばかりであり、小型のミニバンなどは一つもない。


しかも、その窓にはどれもガムテープが貼られており、

内側から中の様子が見えないようになっていた。


…こんな状態で、ちゃんと運転なんてできるのか?


そんなことを思っていると、

ピンポーンとコンビニのチャイムが鳴り、

中から誰かが出てくるのが見えた。


僕はとっさにそちらの方へと顔を向け、固まる。


…そこに着ぐるみがいた。


遊園地などで見るような

ウサギの着ぐるみ。


その着ぐるみは肩に大きなカバンを引っ掛け、

先ほどコンビニで買ったであろう

スナック菓子の入った袋を持っていた。


そうして、ゆったりとした足取りでコンビニの二階へと上がると、

真ん中のドアをガチャリと開けて中へと入っていく。


「…そうなんだよ。防犯上なのか知らないけどさ、

 二階の住人みんながそうらしいんだ。」


昼食のきつねうどんを食べながら、

秀治は困ったようにそう言った。


「他にもタヌキとかネコとかクマとか、

 とにかく俺が見ている限り、

 女子寮の住人はみんな着ぐるみらしい。」


そうして箸を置くと、

秀治はコップの水を飲んでため息をつく。


「それにさ。俺、気づいちゃったんだけど。

 あの着ぐるみの持っているカバン、

 街じゃ有名な、生化研のマーク付いてたんだよね。」


その名前なら僕も知っている。

生体化学応用研究所。


確か医療関係の大手企業であり

CMにもバンバン名前が出ている会社だ。


「でさ、実はウチのコンビニって異常なほどに給与がいいんだよ。

 時給制のバイトのくせに、月額は下手なサラリーマンより良い。

 これってさ、上のアパート持っている会社が絡んでるのかな?」


そう言いつつも秀治は箸を持った手を遊ばせる。

みれば、秀治のうどんは、ほとんど減っていない。


「…ま、良いんだけどさ。そろそろバイトやめようかと思っているし。

 あんまりあの会社で良い噂を聞いたことがないからさ…。」


そうして、再び水を飲む秀治の目の下には

大きなクマが見えていた。


「…なんか、最近寝不足なんだよな。

 最初は夜間のバイトを入れたせいかとも思っていたんだけど

 毎晩寝るたびに変な夢ばかり見てさ、すぐ起きちまう。」


そう言ってため息をつく秀治に対し、

僕は試しにどんな夢を見るのか聞いてみた。


「ん…なんていうかな。

 真っ黒な階段を一段一段作る夢なんだよ。

 周りには俺と同じようなバイトの人がいてさ、

 みんなでひたすら螺旋階段を作ってるの…変な夢だよ。

 目が覚めた時には汗びっしょりでさ、気分が悪くなるんだ。

 バイトに行くまではこんな夢、見たことなかったのに…。」


そして秀治はカバンをしばらく探ると

『辞職願』と書かれた一つの封筒を取り出した。


「…正直、日を追うごとにしんどくなるし、

 体調を理由にバイト辞めようかと思っててさ。

 具合が悪くなってもアレだから一緒に来てくれないか?

 入り口で待ってるだけでいいから。」


僕は、その言葉に素直にうなずく。

確かに、ここのところ秀治は具合が悪そうだった。


平日にふらつくことも多かったし、

勉強にも身が入っていないように見えた。


僕が帰りに一緒にバイト先に行っていたのも

そんな彼の体調を心配してのことだった。


「ありがとな。恩にきるよ。」


そうして、僕は学校帰りに秀治とともに

彼のバイト先へと向かうことにした。



夕暮れ時、僕はコンビニの端に自転車を停め、

秀治を待っていた。


春先とはいえ夜近くになると空気は少し冷え込み、

僕はコートのボタンをしっかりと閉じる。


周りを見ると、日が落ちてきたためか

家々の明かりもポツポツとつき始めていた。


秀治によると、すでに店長には

ある程度体調のことや辞職したい旨は話していたそうで、

辞表を渡して2、3話せば大丈夫なようにはなっていると

本人は言っていた。


僕はそのあいだに時間が空くので、

このあいだのバンド活動でかかった

費用の計算をしようとスマホを取り出し、

メモを見ながらぽちぽちと会計を始める。


…そうして、10分ほど経った頃だろうか、

不意に、僕のスマホ画面に何かが映った。


それは、長い耳を持っていた。

それは、どこを向いているかわからない顔をしていた。

それは、僕の画面をじっと凝視し…


『暇ナノ?』


そう言った。


甲高い声。


大人の出すものよりもハイトーンで

子供の声に近い。


しかしながらその声は僕の背よりも高い

ウサギの着ぐるみから発せられていて…


『ジャアサ、モット面白イモノ見セテアゲル。

 コッチ来テ。』


そう言うと、ウサギの手は僕の腕をむんずとつかみ、

そのまま建物の裏へと、コンビニの裏へと僕を連れて行く。


『ジャジャーン』


コンビニの裏手。

二階の住人の車が駐車された建物の裏側で

僕は壁際に追い詰められていた。


大きなカバンを肩にかけたウサギは

今しがた購入したと思われるカッターを

コンビニの袋から取り出し、

無表情なままでチキチキと刃を出す。


…いつしか、僕はパニックになっていた。

口内はカラカラで、叫びたくとも叫べない。


『イッキマース!』


そう言うと、いきなりウサギは自分の着ぐるみの首部分。

頭と下の着ぐるみの隙間にカッターを突っ込み、

ぐいっと横に引く。


ブシュュゥ…という気味の悪い音。


着ぐるみの隙間から、

鮮血がはみ出し首から下を汚す。


がくりと崩れ落ちる着ぐるみ。


肩にかけたカバンが地面に落ち、

中に柔らかいものでも入っているのか、

ベシャリと音がする。


苦しいのか、

四つん這いの状態になる着ぐるみ。


その首筋からはダクダクと血が滴り落ち、

今にも地面に広がるかと思えたが…


…なぜか、その血は地面に広がらない。


下まで垂れた血は、地面に触れるか

触れないかのところで止まっている。


そして、次の瞬間。


信じられないことに

血はスルスルと首元へと戻っていく。


逆再生のように着ぐるみに染みた血も

じわじわと着ぐるみの中へと戻っていく。


そして着ぐるみは起き上がると、

頭と着ぐるみのあいだに手を突っ込み、

ガバッと首の部分をさらし、こう言った。


『イッリュージョーン』


その時、僕は気づいてしまった。


首の部分の傷口が、生々しい傷口が

つうっと塞がれていくこともそうだが、

もっと当たり前のこと。


そう、ウサギの着ぐるみの中身。

女性の顎が全く動いていないことに。

中の人から全く声が出ていないことに。

僕は気づいてしまった。


…では、その声はどこから出ているのか。


腹話術のような、甲高い声。

子供のような声。


その声は着ぐるみの持つ

カバンの隙間から漏れ聞こえていて…


『アー、ゴメンゴメン、スグニ呼ビニ行クカラ。』


気がつけば、

ウサギの着ぐるみが僕から離れていた。


そして、駐車場に止められていた一台の車。


キャンピングカーのドアから

ネコの着ぐるみがじっとこちらを

見つめていることに気がついた。


『ソーダッタ、ソーダッタ。

 部長ニ階段ガ出来タ話ヲスルンダッタ。』


そう言うと、ずるずると音を立てて離れていくウサギ。


僕は内心ホッとしつつ、

そろそろと表の方へと行こうとして…気づく。


ネコの着ぐるみ。

こちらの方をじっと見つめる着ぐるみ。


その肩にかけたカバンから何かが覗いていた。


…それは、赤子だった。

真っ黒な肌をした、目の赤い赤子。


それはカバンの中から頭の半分を覗かせ、こう言った。


『ジャアネ、オ兄チャン。マタ遊ボウネ。』


それは、先ほど聞いた声。

着ぐるみと、全く同じ幼い子供の声であり…


「…大丈夫か、顔真っ青だぞ。」


気がつけば、僕はぐったりと自転車に寄りかかっていた。


目の前には、僕を見下ろす秀治の姿があり、

心なしか来た時よりも顔色が良くなっているように思えた。


辺りはすっかり暗くなり、

コンビニの明かりが煌々と付いている。


「…ったくよお、どうしたんだよ。

 急に裏から走って出てきて、

 もしかしてこの上のお姉ちゃんでも誘っていたのか?」


その質問に、僕はブンブンと首をふる。


「…ああ、そう。まあ、名残は惜しいけど、

 俺も音楽活動に専念したいって言って辞表出したし、

 店長も納得してさ、何と太っ腹なことに金一封もくれたよ。

 あーあ、辞めるのが惜しかったなあ…。」

 

秀治はそう言いながらも店を離れるように歩き出す。

僕はその言葉を訝しげに思いながらもそれに続く。


…確か、秀治の辞める理由は

体調が優れなかったからではなかったか?


それに、あれほど辞めたがっていた職場を

何で今更になって惜しがるんだ?


そうして、目の下にクマ一つない秀治は

遠くなる店を見ながら大きく伸びをした。


「…ま、しょうがないよな。

 半年のバイトで貯金は十分に貯まったし。

 お、見ろよ、店長も手を振ってくれているぜ。

 別れの挨拶っていうのも悪くないもんだな。」


僕は、自転車を動かしつつも

秀治の指さす方を向いてギョッとする。

 

店の前に、コンビニのエプロンをつけた

クマの着ぐるみがいた。


黒い、肩に大きなカバンをかけた

大きなクマの着ぐるみ。


そして店の二階、

アパートの女子寮にも着ぐるみがいた。


キツネ、オオカミ、ウサギ、ネコ…

それぞれのドアからそれぞれの着ぐるみが顔を出し、

大きく腕を振る。


みんな、肩にカバンをかけながら大きく腕を振る。


そうして、中に何が詰まっているかもわからない

カバンを持った着ぐるみたちは、僕らが線路の角を曲がるまで、

ずっと、その大きな手を振り続けていた…

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