第9章「鯨骨静物群集」

…それは、朽ち果てていくクジラだった。


皮がはがれ、肉にカニや魚が食らいつき、

貝が生え、海の底に横たわる巨体。


崩れ、朽ち果て、食べられ、骨にされていく…


そんな課程が一つ一つ個々のボトルに収められ、

小さな世界を築いている。


それは30センチほどの小さなボトルに入れられた

精巧なクジラのフィギュアだった。


僕は壁じゅうに隙間なく置かれたフィギュアの世界を

ゆっくり歩きながら鑑賞する。


「『鯨骨生物群集』って、知っているかな?」


雑貨屋のお得意さんである乃木さんは

僕にそう尋ねながら薄い磁器に紅茶を注ぐ。


「クジラは死ぬと深海に落ちて、そこに棲む生物の餌になる。

 しかも、朽ちていく段階によってやってくる生き物が違うんだ。

 深海に生きる彼らにとってクジラは貴重な食料でもあり、

 住処になる。それらの生物群を『鯨骨生物群集』と呼ぶんだよ。」


乃木さんは、もともと有名な模型会社に勤めていた人で

定年を終えた後もこうして時々趣味でフィギュアを作っている。


この部屋も彼の制作したフィギュアのコレクション部屋で、

邸内のあちこちにはそんな乃木さんの趣味の部屋が

いくつもあるという話だった。


「…家内が亡くなってから、特にすることもなくてね。

 時々こういうことをしていないとボケてしまいそうになるんだ。

 この前なんか、自分の部屋がどこだかわからなくなりかけてね…。」


そう言って、くつくつと笑うと

乃木さんは僕に紅茶を出してくれた。


「ミルクは入れるかい?

 私は砂糖なしが好みなんだが、」


僕は素直にミルクをもらい、

美味しいジンジャーミルクティーをすする。


ほんのりとピリ辛な生姜の味が口に広がり、

飲み終わる頃にはお腹がポカポカと温まっていく。


乃木さんの話では週に3日はお手伝いさんが来て

掃除などをしてくれるのだが、今日はお休みの日だという。


「寂しいもんだよ、年寄りの一人暮らしは。

 こうして若い人が来てくれないと何の張り合いもない。

 周りの友人たちも亡くなった知らせばかりを寄越してくる

 これじゃあ自分が将来どうなるかもわからないね…。」


そう言って、乃木さんは綺麗に整った

グレイヘアを撫でつける。


僕は注文のアンティークボトルをすでに渡していたので

タイミングを見計らってお茶のお礼を言ってから腰を浮かす。


「…もう、帰るのかい?」


少し寂しそうな顔をする乃木さんに

僕は「次の配達がありますから」と短く告げる。


それに乃木さんはうなずいた。


「…そうだね、若いうちは忙しい方がいい。

 動けるということは生きている証拠だからね。

 また、用事があったら来てくれ。お茶をご馳走するよ。」


そう言って、乃木さんは椅子から立ち上がるとドアを開けた。


「廊下の角を曲がった先の階段だ。

 帰りに気をつけて、また会うのを楽しみにしているよ。」


僕は軽く頭を下げてから、部屋を出る。


長い廊下には幾つもの部屋があり、

肌寒い空気を感じながら

僕はロの字型の長い廊下を歩いていく。


中庭には葉の落ちた白樺が一本だけ伸びており、

氷点下のためか薄く雪を被った木は

水底で枯れた白いサンゴを思わせた。


僕は階段を足早に降り、玄関のドアを開ける。


その先には乃木さんの家の庭と

僕が仕事で乗ってきた車が停めてある。


…そう、停めてあるはずだった。


僕はドアの先を見て首をかしげる。


そこは、部屋だった。


壁じゅうにボトルに入った

小さなクジラのフィギュアが並んでいる部屋。


そのどれもが水底に沈んでいくクジラの姿であり

僕は首をかしげながら辺りを見渡す。


壁には青い壁紙が貼られ、

窓の外には雪がチラチラと降っていた。


…どうやら、開けるドアを間違えてしまったらしい。


僕は静かにドアを閉めると、廊下を歩き出す。


ロの字型になった廊下はどこまでも続いているようで、

僕は角を曲がった先にある今度こそ玄関と思しきドアを開けた。


…はずだったのだが、僕はまたそこで立ち止まる。


そこには、またボトルが並ぶ部屋があった。


中のクジラのフィギュアは皮がむけ始め、

サメや細長く白い魚が何匹も肉をつついている。


精巧でありながらも

どこか不気味さ漂うボトル群。


…確か、乃木さんはいくつも部屋を持っていたはずだ。

この部屋もその中の一つなのだろう。


僕は雑貨屋の山口さんから聞いた

乃木さんの家の話を思い出していた。


もともと奥さんが資産家の令嬢だったこともあり、

若いうちに建てた家はそこそこの大きさだったものの

その後増改築を繰り返すうち今の規模になったらしい。


乃木さんもたまに部屋がわからなくなるとは言っていたが、

ここまで迷う家もそうないだろう。


僕は早くも帰り道がわからなくなり始めている自分を

恥ずかしく思いながら、ドアを閉めようとする。


ビチャッ


その時、背後で何か濡れたものが落ちた。

同時に海で嗅ぐような磯臭さが鼻をつく。


僕は背後を振り向き、

床の上でうねる「それ」に少なからず驚いた。


それは、真っ白な魚だった。

ウナギに似た、細長い魚。


それは長い体をくねらせ、まだ生きているのか

廊下のカーペットの上をグネグネと動いている。


僕はその生き物に見覚えがあった。


先ほど見たクジラに群がる魚。

目の前で動く魚はそれとそっくり同じ姿をしている。


…乃木さんがフィギュアを作るのは知っていたけど

モデルにしている魚まで飼っているとは知らなかった。


しかしながら、このまま魚を放っておくわけにもいかず

つかもうとするも、魚はヌルヌル滑ってうまくつかめない。


そうしているうちに、魚の動きはだんだんと弱ってきて、

僕は慌てて乃木さんにこのことを報告しなければいけないと思い、

2階にある彼の部屋へと戻ることにした。


だが、しばらく歩くうちに

僕は乃木さんのいた部屋がどこか、

すっかりわからなくなっていた。


何しろ、同じようなドアが多い。

真っ白な廊下に真っ白な壁。

カーペットまで真っ白ならドアまで真っ白だ。


ドアには特徴も部屋番号もなく、

似たような景色がロの字型の廊下に繰り返されているせいで

僕はすっかり方向感覚がわからなくなってしまっていた。


…どうしたものか、諦めて帰るべきか。


そんなことすら考えていると、

不意に近くのドアからゴトンッと何かが落ちる音がした。


「…乃木さん?」


僕はドアを開けながら、そう尋ねる。


しかし、そこに乃木さんの姿はない。


あるのは壁に敷き詰められた大量のボトル。


その中で種類すら判別できないほど大量の魚に群がられ

もはや形もわからないほどに肉をつつかれる

クジラのフィギュアが並んでいた。


だが、それだけではない。

壁も、床も、真っ白な部屋の中。


その床に何百という魚が落ちていた。


ビチビチと、跳ねる魚。


小さなサメ、白いウナギ、

その他種類のわからないような魚が

床の上で大量に跳ねている。


魚特有の生臭い匂いが部屋中に充満し、

僕はその異様な光景と悪臭に後ろに引き下がる。


ビチャッ


その時、僕の肩を何かが跳ねた。


見れば、一匹の小型のサメが上に落ち、

床をのたうちまわっている。


それはどこから来たか。


僕は天井を見て「あっ」と声をあげる。


天井から無数の魚の顔が覗いていた。

いや、天井を魚が食い破っていた。


顔を出した魚は中へ潜り込むように体をくねらせ、

床の上へと落下する。


落下した魚はまた床のカーペットを食い破り、

床の中へと潜り込んでいく。


気がつけば、魚はあちこちにいた。


廊下にも、壁にも、床の上にも、

無数の魚が体をくねらせ、建物の中に潜り、食い破る。


…このままでは家がもたないかもしれない。


僕は入り込んだ魚によって建物が崩壊する様を考え、

冗談ともパニックともつかない光景に慌てて廊下を走り出した。


急いで乃木さんを探さなければならない。

ここにいれば家ごと潰れてしまう。


そうして、右へ、左へと走り、

おそらくここだと狙いをつけた扉を勢いよく開ける。


…そこには、また同じ部屋があった。


大量のボトルに入れられたクジラの骨のフィギュア。

その周囲を何か紐状のものが覆いつくし、

上を何匹ものカニが歩き回っている。


僕はその紐のようなものが何なのか、

すでに気づいていた。


数センチほどの管状の生物。

本来なら海の中でしか生きられないその生物は

今やこの部屋の床下から趣味の悪いキノコのように生え、揺れ動いている。


この生物のことをお茶請け代わりに話してくれたのは乃木さんであったが、

これらの生き物を乃木さんが部屋で飼っているとは到底思えなかった。


僕はゆっくりとドアを閉めると

足元にも生えつつある管状の生物や走り回るカニを

踏み分けて慎重に廊下を進んで行く。


すでに壁も天井も管状の生き物が占拠し、

足の踏み場もない状態だ。


先ほどまで穴が大量に開けられていたため、

廊下のどこまでが無事な床で、どこまでが無事な壁か管状の生物たちに

占拠されている今、その見分けはつかないように思われた。


だが、僕は進まなければならない。


こうなった原因はさっぱりわからないが、

ともかく乃木さんを探し出し、

一刻も早く連れ出さなければならない。


僕は膝下までざわつく管状の生き物の感触に

気持ち悪さを感じながら、一番これと思ったドアを開ける。


「…乃木さん!」


僕は、声をあげ部屋の中を見渡す。


…しかし、そこには誰もいない。


あるのは壁に並べられた小さなボトル。

無数の貝に群がられたクジラのフィギュアが

ボトルの中で整然としている。


いつしかボトルの置かれた棚には

茶色の二枚貝が大量についていた。


先ほどの魚たちの行き来のために

ほぼ骨組みだけになった部屋の床や壁にも、

合間を縫うように大量の二枚貝が張り付いている。


僕はドアを閉めると、

廊下を慎重に歩いていく。


「乃木さん、どこにいるんですか、乃木さん…!」


すでに足元には貝がはびこっていた。

貝の殻が靴にあたり、足の裏がチクチクする。


廊下や壁にもびっしりと隙間なく貝が張り付いていた。

貝の上には藻のような植物も生えており、

ドアノブにまで及んだそれはヌルヌルとしていて

触ることすら躊躇させる。


しかし、僕は息を吸い込むと

軋むドアノブを一気に押し上げ、中へと潜り込む。


「乃木さん!」


…そうして、僕は動きを止めた。


部屋の中には暖房がついており、

生暖かい空気は設定温度が高いことを示していた。


そして、部屋の中央には安楽椅子があった。

今まで部屋にはなかった一台の安楽椅子。


その中に、一人のやせ細った老人がいた。


グレイヘアのほとんど抜け落ちた老人。


彼は酸素マスクと点滴を身につけ、

半ば虚空を見上げながら、薄い息を吐いている。


その老人の横には一人の女性がいた。


エプロン姿のその女性は「看護師:逢坂」と

書かれた名札をつけ老人の顔を濡れタオルで拭っている。


そして彼女は手にタオルを持ったまま

僕の姿を見つけると不審そうな目を向けた。


「…どちら様でしょうか。乃木は…確かに目の前おりますが。

 自宅療養にあって、今はとてもお話できる状態じゃないんです。

 それに、あなたどこから入ってきたんですか?」


僕は返答につまり、

どう言ったものかと考えあぐねる。


しかし、その動揺は

目の前の老人によって打ち消された。


「…いいんだよ…彼は、私が呼んだ客だ。

 彼と二人きりにさせてくれ…。」


見れば、ゼイゼイと喘いでいるものの、

目の前の老人…乃木さんはしっかりとした目で

僕を見つめていた。


「乃木さん、でもお身体が…。」


そうして、看護師は僕と乃木さんを交互に見つめるも、

乃木さんは優しげな笑みを向け彼女にコクリと頷く。


「…10分だけですよ。」


そう言うと、看護師は根負けしたのか

小さくため息をついて部屋を後にした。


部屋に入ると、先ほどの肌寒さは嘘のようで、

僕は今まで見てきたものが夢のように思われた。


僕は招かれるまま、乃木さんの元へと近寄ると、

ゼエゼエと息をする彼の口元の近くに耳を寄せる。


すると乃木さんは苦しげながらも

酸素マスクを自分で外し、満足そうに息を吐いた。


「…ありがとう、楽しかったよ…屋敷の中は…大変だったね。

 大した冒険だったろうに…最後に、私の机の上にあるものを…見てくれ。」


僕は乃木さんの指差す机を見た。


その上には30センチほどの大きさのボトルが置かれている。


…それは、僕が持ってきたアンティークボトルであり、

中には深海に沈む首のないクジラの骨が入っていた。


完全に骨だけになり、

海底の砂の中に埋もれたクジラの模型。


「私の最後の作品だ…今まで作ってきた作品。

 その中でも一番力を入れた作品なんだよ…。」


そう言って、乃木さんは震える手で

テーブルに置かれたボトルの隣、

白い布の上に置かれたピンセットを持ち、

同じく布の上に置かれた小さなミニチュアの骨をつまみ上げた。


…それは、クジラの頭骨。

手のひらに収まってしまいそうな小さな頭骨。


「…ボトルを、開けてくれないかい。」


僕は乃木さんの指示に従い静かに蓋を開け

ボトルを差し出す。


乃木さんは中身を見つめながら、

ゆっくりとピンセットを差し込み

丁寧に、丁寧に、クジラの頭部をボトルに収めた。


「…ありがとう…これで満足したよ。」


そう言って、乃木さんは

ピンセットを置くとゆっくりと息を吐く。


…そこには横たわり、白い骨だけになりながらも

海の砂へと還っていく美しいクジラの姿があった。


「…クジラはね、私の憧れだったんだ。

 海の中を自由に泳ぎ、最期に生き物の住処へと変わる。

 海に存在する巨大な家のような存在。

 私はこの家の中でひとしきり模型を作りながらも

 そんなクジラにどこか憧れを持っていた…」


乃木さんの息を吸う間隔が、

次第に長くなっていく。


「私も…この家とともに生涯を終えたかった。

 この家の中で朽ちていく…クジラのように…」


呼吸がだんだんと間延びをし、

乃木さんはゆっくりと目を閉じた。


「これは、私の夢だ。長い長い水底の夢。

 …本当に、来てくれてありがとう。

 最期に…完成できて…嬉しかった…」


最後にそう言うと、乃木さんは

長い息を吐きだし…静かになった。


僕はそれを見届けると

ゆっくりと立ち上がり、部屋のドアを開ける。


…その先は、外だった。


軽く雪を被った庭先に僕の車が停めてあるのが見えた。


そして、家の出窓に「貸物件」の看板が

置かれていることに気がつくと、僕は後ろを振り返った。


…建物の中、そこは空き家だった。


がらんどうの家。

目の前にエントランスと階段があり、

左右にロの字型になるように長い廊下があった。


天井も、壁紙も、どこも傷ついている様子はない。

海の底のように静かな家。


僕は、そのドアをゆっくりと閉めるとノブを2、3度ひねり、

もう二度とそのドアが開けられないことを知った。


…玄関の階段を降りながら、

僕は雪の積もった庭を見た。


一本の細い白樺だけが生えた庭。

雪を被ったその白樺は水底のサンゴを思わせる。


僕は、車に乗り込むと

車窓から乃木さんのものであった家を見上げた。


そこには、外壁が朽ち果てながらも

堂々とした白亜の建物があった。


どこか、巨大なクジラの骨を思わせるような大きな建物…

僕はその建物を一瞥した後、車に乗り込みエンジンをかける。


そして、クジラのように生きたがっていた老人のことを、

家と共に独り自分の世界を作り上げていった老人のことを思いながら…

僕は、白亜の家を後にした。

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