第28話 千夏が笑っているから

 十月に入るとワイン業界は、忙しくなる。ボジョレーのための宣伝も慌ただしく進行中だし。クリスマスへ向けての戦略も、固まり始めるからだ。

 お蔭で、入社して初めてのボジョレーやクリスマス関連行事に、日々あたふたしていた。依頼される仕事も新しいことばかりになっていたため、メモをすることが増えていた。入社した時に買った手帳は、乱雑な文字が殴り書きされて埋まっている。

「あれ。これなんて書いたんだろう」

 まだ新品のシステム手帳に、走り書きしたメモの字が解読できない。自分で書いておきながら情けない。これじゃあ、誤字脱字が酷いお母さんのメッセージに文句は言えない。

「どうした」

 吉川さんが席を外していた時に、書いたメモを睨みつけるようにして見ていたら、通り過ぎざまに専務が声をかけてきた。

「あ。いえ。大丈夫です」

 慌ててシステム手帳を閉じようとしたら、その手を遮られてしまった。酷い字で埋まっているシステム手帳を手にした専務が眉間にしわを寄せ、私が書いた、何語かもわからない文字を見ている。

「宇宙語か?」

 恥ずかしすぎる。

 顔から火が出そうで、できるなら奪い返したいけれどできずに赤い顔で恨めしそうに専務の手元を見ていたら、 呆れたようにしてから日付を確認している。

「この日は、吉川が販売元へ連絡を入れた日だから、これは店名と個数だろうな」

 ヒントをもらって再びよく見てみたら、確かにその通りだ。店名がフランス語だったから、余計にわからなかったようだ。カタカナで書けばいいものを、調子に乗って覚えたてのフランス語なんて使ったがために、余計にややこしいことになっていた。

 合点がいって、よかったとほっとした表情で専務を振り仰いだら、しっかりしろとばかりに見られていて、あっという間に表情が引き締まる。

「すみません。ありがとうございました」

 急いでパソコンのファイルを開き、仕事に取りかかった。


「もうー。何がなんだか、忙しすぎてキャパオーバーだよぉー」

 週末のお昼。貴哉がきて、一緒にパスタを作り食べていた。

「仕事してるって、感じじゃん」

 パクリと大口でパスタを口に入れた貴哉は、それを飲み込んでからニヤニヤと笑っている。他人事だよね。

「イベントがあると、こんなにも忙しくなるんだね」

「つーか。このメモ。マジ解読不能だし」

 ゲラゲラと下品に笑って、貴哉が“宇宙語”で書かれたシステム手帳を見ている。

「解読に何時間かかったんだよ」

 小馬鹿にするように訊ねる貴哉へ、ふくれっ面で応えた。

「専務が解読してくれたから、わりと早かった」

 応えると、さっきまで声を上げて笑っていた貴哉の動きが止まる。表情からも笑みが消えてしまった。

「あのさ。前から思ってたんだけど……」

 そこまで言った貴哉は口を閉ざし、顔をじっと見てくる。

 なんだろうと貴哉の言葉を待っていたけれど、結局は諦めてしまったようだ。

「やっぱ、いい」

 口を閉ざしたすぐ後には、スマホを取り出した。

「映画でも観に行くか」

 スマホの画面には、今上映されている映画が並び始める。横からその画面を覗き込み、何がいいかな。と勝手に人差し指を伸ばして画面をスクロールした。

 観たいなと思った映画は席を確保することができず、少し前に人気のあったものにした。最近は映画館へ行くこともなかったから、どちらにしろ新鮮だ。

 予約画面から、貴哉は一番後ろのど真ん中の席を選んだ。

「貸し切りみたいだね」

 映画館の席についてからかうと、貴哉は得意気な顔をした。

 映画館の席は、総て四席ずつ区切られて並んでいた。二人の両サイドには、ひと席ずつの空席。家族やカップル、友達同士で来た場合。ひと席だけ空いている場所を、わざわざ予約しないという心理をついての戦略だ。カップルや家族でくるなら、ほぼ埋まらない席の取り方だ。

 前には二列開けて、同じようにカップルがキチンと端から並んで座っていて、始まる少し前に父親と子供連れが、そのカップルの隣の席に座るのを見て、作戦成功と貴哉がコーラを口にした。

 淡々と進み始めた映画は、後半になってたたみかけるような勢いを見せ、スクリーンに釘付けになった。無心にポップコーンを食べていた貴哉の手も止まる。

 一息つくような終盤では、本当に一息ついた貴哉がフゥッと息を吐き出し、一気にコーラを吸い上げた。映画も面白いけれど、すぐ隣の貴哉を観察するのも楽しい。


「面白かったね~」

 少し先にあった真新しいカフェに寄り、顔を付き合わせた。

「映画なんて久しぶりだったから、集中しちゃった」

 満足な顔を向けて、アイスコーヒーを口にした。

「嘘つけ。チラチラ見てだろ、俺のこと」

 ニヤニヤとした顔で、貴哉が目を見てきた。

「千夏は、どんだけ俺のことが好きなんだよ」

 ケタケタと冗談めかして笑ったあとは、私の首元で光るネックレスに手を伸ばす。

「似合うな。さすが俺」

 得意げに口角を上げる顔は、まるで子供みたいだ。

 無邪気な俺様貴哉は、次どーすっかなぁ。とスマホをいじり始めた。

 ガラス張りの窓から見える、通りを歩く人々を眺めると、休日の夕方はどこかみんな楽しげでいて、これから繰り出す夜の楽しさに足どりも軽い。幸せそうな笑顔ばかりが目につくのは、自分もそうだからだろうか。

 少し前の自分なら、こんな風に景色や人を見ることはなかっただろう。仕事もうまくいかなくて、体調も悪くて。何より、貴哉と喧嘩をしたときには、それこそ田舎へ帰って母や父の顔を見て、あったかいご飯が食べたいと思ったくらいだ。

 それをしなかったのは、やっぱり貴哉からのいつもの言葉に止められたからだ。

 会社にやっと受かったあとは希望に満ちていたから、帰りたいなんて辛い感情も湧かなかった。結局は、入社して体を壊し退社してしまい、合わせる顔も気力も体力も削がれてしまって今に至る。

 けど、流石にお正月には帰りたいな。

 去年は、前の会社の入社云々でバタついて、二日ほどしか取れないお正月休みに帰る気にはなれなかった。帰るなら、最低二泊三日はないと、北海道ではゆっくりなんてできやしない。

 札幌などの主要都市に家があるなら別だけれど、たいていの場合は移動に半日以上を使うことになるからだ。早朝の便に乗って、実家に着くのは夕方なんてこともありがちだ。

「なんか美味いもんでも食いに行くか」

 スマホを操っていた貴哉の言葉に、窓の外を見ていた視線を貴哉へ戻した。

 何かいいものでも見つけたのかな?

「あんなにポップコーン食べたのに、お腹空いてるの?」

 突っ込みを入れたら「うるせぇ」と笑顔で返された。

 電車に少しだけ揺られて、貴哉が検索して見つけたお店にやってきた。創作料理のお店で、中はとても賑やかだった。

 簡易な囲いのある個室席に向かい合って座り、ドリンクメニューを開いてから、思わず貴哉を見た。

 そこには、種類豊富なワインの名前がいくつも並んでいたからだ。

「貴哉って、どんだけ私のこと好きなのよー」

 さっきのお返しとばかりに言い返したら、嬉しそうに笑っている。

「色々飲んだ方が勉強になるんだろ」

 訳知り顔のように言ってよこす得意気な顔に向かって、大きく頷きを返した。

 嬉しさに口角を上げていたら、周囲の目を盗んで身を乗り出した貴哉の唇が一瞬触れて驚いた。慌てて誰かに見られていないかと周囲をうかがったら、してやったりという顔をしている。

 簡易とはいえ、囲いがあってよかった。店内でキスなんて、不意打ちすぎる。こんな風に人目のあるところでキスなんて、前はしなかったのに。

 最近の貴哉は、少し大胆だ。人前で手を繋ぐことさえしないというのに、どうしたのだろう。

 大学に入りたてだった頃の私は、少ないけど友達もできて楽しいキャンパスライフを送っていた。そんな中、時々友達同士で集まる中に居たのが貴哉だった。

 初めは友達の友達だったから、二人で会うなんて事もなかったけれど。何度目かの集まりで、わざわざ夜の海に出かけて花火をするという。いかにも大学生の暇つぶしのような集まりのときに、貴哉に告白をされた。大学二年の夏だった。

 それ以来、貴哉はいつもそばにいた。いつだって得意げで、いつだって自慢げで、楽しませてくれた。

 言葉がきついから凹む事もよくあるけれど、貴哉の笑顔にはやられっぱなしだ。

「もう、三年目だな」

 二人で別々のワインをグラスで二杯空けた時、不意に貴哉がしみじみとした顔をした。

 昔のことを考えていた時にその言葉は、まるで思っていたことを読まれてでもいるみたいでちょっと驚いた。

「なんだか、あっという間だね」

 こんな風に働くまでは子供気分でいられたから、本当に好き勝手していた。東京という何も知らない土地にやってきた私に、たくさんの新しくて楽しいことを貴哉が教えてくれた。

 カフェでの時間の過ごし方。映画の席の取り方。カラオケにボーリング。

 こっちに来るまで、ボーリングなんてした事もなくって。重いボールを貴哉の足の上に落として、慰謝料寄越せなんて散々騒がれたっけ。実家にいる時にも料理はしていたけれど、その実家ではなかなかお目にかからない、おしゃれなパスタやベシャメルソースの作り方を教えてくれたのは貴哉だ。

 雑に振る舞うけど、意外と料理が得意で、肉、肉なんて鼻歌交じりに歌って、牛肉は塩胡椒が一番だとソテーしてくれる。掃除は苦手みたいだけれど、冷蔵庫の中を片付けるのは好きみたい。

 思い出していたら、自然と笑みが浮かんだ。

「よかった」

 貴哉が串揚げをつまんで、笑った。

 何? というように首をかしげる。

「千夏が笑ってるから」

 それだけのことが、とても幸せだった。気分が益々よくなってくると、メニューの端から端までって言うくらいワインを堪能した。

 幸せの中、その夜は二人で柔らかな布団に包まった。

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