第27話 忘れたハンカチ

 国際電話に呼び出され、専務が休憩室をあとにした後、一人ゆっくりとラテの味を楽しんでいた。

 社割か。そんな技が使えるのね。なら、少し高いワインにも手が届くかもしれない。でも、高いものは、高いのか。

 ブツブツ言っていたら、吉川さんがやって来た。

「息抜きできた?」

 備え付けの簡易キッチンシンクで、キティーのカップを洗いながら訊ねる吉川さんに曖昧に頷いた。

 専務と一緒だったので、寧ろ気を使って疲れましたとは言えない。

「吉川さんは、専務ととても仲がいいですよね」

「えぇー、なにそれ」

 ケタケタと豪快に声を上げてから、向かい側にある椅子に座った。

「仲がいいっていうよりも、専務だと思って接してないからかもね」

 吉川さんの言葉に驚いていると、少しだけ考えるようにして視線を少し上にやってから再びこちらを見た。

「後輩なのよ」

 後輩?

 首をかしげると、頷きを返された。

「元々専務は、ここの会社の人間じゃないのよ。別の仕事をしてたの。所謂、よくある話でね。社長であるお父さんへの反発なんだろうね。以前は、イベント会社で働いてたのよ。ほら、コンサートとか仕切るやつ」

 へぇ~。専務は、音楽好きなのだろうか。もしかして、昔はバンドマンだったとか。それが夢破れて、せめて裏方稼業にでも……。

 そこまで想像してから、ありきたりな考えが過ぎて、笑ってしまいそうになった。

「けど、社長も還暦を迎える頃になると、意地を張ってもいられなくなったんだろね。イベント会社を退職して、この会社に入ったの。営業から初めて“いろは”を覚えて、専務になったのなんて、今年の四月からだから」

「えっ。そんなに最近ですか」

 ふふ、と吉川さんが穏やかな顔つきをした。

 驚いた。まるでずっと昔から「俺様は、専務だっ」みたいな態度だから、なり立てだなんて少しも思わなかった。そっか、少し前までは、同じ平社員だったのか。

「ここの人たちが、いくらいい人たちばかりだとはいえ。なにも知らない社長の息子ってだけの人を、すぐに専務として迎えるっていうのはさすがにね。で、私が手取り足取り、教えていたこともあるのですよ」

 最後の方は、少し得意げに顎を突き出している。

 そうかー、だから専務は吉川さんに頭が上がらないんだ。

「年もそんなに変わらないしね」

「専務って、おいくつなんですか?」

「三十二歳」

 吉川さんと、三歳しか違わない。

 少しずつこの会社のことや、専務たちのことを知っていくのは親近感がわいていく。ただ、本人から聞いていない分、少しの罪悪感も覚えた。

「だから、吉川さんは専務と仲良しに見えたんですね」

「だから、仲良しって。まー、いいけど」

 苦笑いを浮かべ、肩を竦めている。

「要するに、水野さんが来る前の新人は、専務だったってこと」

 おおー。専務が私の一つ前の新人。

 思わず休憩室の窓ガラス越しに背後を振り返り、眉間にしわを寄せて流暢にフランス語を話す専務を窺う。

 私にワインの何たるかを色々話してくれたけれど、専務もきっとたくさん勉強したんだね。専務のように、私も頑張らなきゃ。

「あ、これ一応内緒で。専務って、以外とナイーブだから。知らないふりしててね」

 わかりました。としっかり頷き、もう一度専務のいるデスクを振り返る。

 何てことはない、みたいにシラッとした顔をして毎日仕事をしているけれど、きっととても頑張ってきたのだろう。全く畑の違う仕事に就くのだから、総ては一からだ。その上、良くも悪くもジュニアという立場にあり、周囲を納得させるだけのことをしなくちゃならなかったのだから、生半可の努力ではなかっただろう。

 そう考えると、眉間のシワも仕方がないかもと、また少し親近感が湧いた。


 今週もあと一日頑張ればお休みだ。黙々と業務をこなし、夕方前に休憩しようと席を立って気がついた。

「雨……」

 カップを持ったまま窓辺に近寄り空を見上げれば、ポツリポツリと雫が地面を濡らしていた。

 傘、持ってないや。帰りまでに止むかな。

 願うように厚い雲をみたけれど、結局終業時間になっても雨は止まず。それどころか、強さを増していた。

 どうしようかと出入口の前で暗い空を眺めていたら、目の前の道路に車が止まり軽くクラクションが鳴った。

 雨で煙る視界の中、よく見てみると専務の車だった。黙ってみ眺めていると、再び軽くクラクションが鳴った。

 誰かを待っているのだろうか。辺りをキョロキョロと見まわしてみても、私以外の社員などは見当たらない。それとも、私の知らない誰かが、この辺りにいるのかもしれない。

 出入り口に立ち、再び土砂降りの雨が降る空を見上げていたら、バッグの中でスマホが鳴った。

 貴哉かと思い取り出したら、すぐ目の前で車を止めている運転席の専務からだった。思いも寄らず、慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし。お疲れさまです」

 窓ガラス越しに、スマホを耳に当てたまま頭を下げた。

「傘、ないんだろ。送るから乗れ」

「え、そんな」

 いいです。という言葉を発する前に、通話が切れてしまった。

 切れたスマホを手に、運転席の専務を見れば、早くしろというようなジェスチャーをしている。好意に甘えて、社を飛び出した。同時に専務も降りてきて、助手席側に素早く回ると、やっぱりドアを開けてくれて、遠慮する間もなく急いで乗り込んだ。

 専務も再び運転席に戻り、手で雨粒を払っている。

「すみません。濡れちゃいましたよね」

 バッグの中からハンカチを取り出し、専務の肩先を拭くと、「大丈夫だから」と制された。

 高級車のせいか、降る雨の音は車内に響くようなことはなくても、アスファルトに打ち付ける様を見れば激しいことがよくわかった。視界も煙っている。

 ワイパーがひっきりなしにその雨を掻き分ける中、車はよく赤信号に捕まり度々停車した。

「ついてないな」

 ポツリと漏らし、視界の悪さに眼を細めている。

 ジャケットを脱いだ専務のシャツの肩先は、しっとりと濡れている。助手席のドアを開けるために濡れてしまったことが申し訳ない。

 なかなか進まない道路状況に、少し苛立っているのか。専務の指先が、ハンドルを静かにトントンとリズムよくノックしている。そのリズムから、休憩室で吉川さんが話していたことを思いだした。

 専務は、本当に反発だけでイベント会社に入社したのかな。吉川さんは、社長との間に確執があったように話していたけれど、本当にやりたかったことをしていただけじゃないのかな。

 だって、社長はとても穏やかで優しい雰囲気だし、二人が揉めるようなことにはならない気がする。それとも、修行的な感じで、一度外の世界に揉まれてからの方がいいと判断したのかな。

 ハンドルを握る専務の手は節くれ立っていて、指は長く綺麗に見えた。この手で機材を運んだり、セッティングなどをしていたのだろうか。私の安易な想像がもしも正解だとしたら、何か楽器をしていても不思議じゃない長い指をしている。ピアノ? ギター?

 専務のイメージで言えば、ピアノっていうことはない気がする。失礼かな。

 でもギターを弾く姿なら、しっくりくるかも。クラブトン辺りなら、目を瞑り酔いしれながら弾きそうだ。

 専務は、この仕事を好きになったのだろうか。ワインの知識も豊富だし、グラスにも詳しいのだし。嫌いな仕事に、ここまで打ち込んだりはできないよね。けど、前の仕事に未練はないのかな。

「どうした」

 しばらくして、また信号につかまり車が止まると、専務が視線を向けてきた。

「気難しい顔をして、また喧嘩したか」

 喧嘩? ああ、そうか。

 歓迎会の時のことを言ってるんだと、思い出した。

 あれ以来、貴哉と大きな喧嘩はしていない。元々、仲が悪いわけじゃない。田舎に帰れの件には度々イラつくけれど、それ以外は仲良くやっている。

「大丈夫です。歓迎会の時は、すみませんでした」

 気を使ってくれたことにお礼を言った。

「あの時は、たまたまで。普段喧嘩なんてしないから、仲直りの仕方が分からなかっただけです」

「そうか……」

 青に変わった信号に反応して、車が走り出した。雨は相変わらず激しく降り続いていて、ワイパーは休憩さえもらえない状態だ。同じリズムで左右に動くワイパーは、まるで振り子のよう。ずっと見つめていたら、催眠術にでもかけられたように、普段は気安く話しかけることもできないというのに、色々と訊ねたくなってきた。

「専務の田舎は、どこですか」

 何の前触れもなく訊ねると、ほんの僅かだけこちらに視線をやった後、すぐに東京が田舎だということを教えてくれた。

 貴哉と一緒だ。

「じゃあ、帰省ラッシュなんて経験ないですよね」

 専務も貴哉と同じように、夏休みも冬休みも、お祖母ちゃんやお祖父ちゃんのいる田舎へ顔を出すというイベントを経験することはなかったようだ。きっと、田舎へ帰る代わりに、専務のお家なら、海外旅行へ出かけていたのかもしれない。ちょっと。いや、かなり羨ましい。

「田舎へ帰るのか?」

 雨で煙る視界に目を細めたまま、訊ねられた。

「いえ。そういうわけではないですけど。大学の時以来、帰ってないなーって、ふと思って」

「寂しがってんじゃないのか」

「どうでしょうね。向こうには、兄がいますから」

「兄弟がいても、水野は水野だろ。たまには、顔を出したほうがいいんじゃないのか?」

「そうですよね。たまには、帰ろっかな、とも思うんですけど。ちょっと意地になるような出来事があって」

「意地?」

 専務が訊ねるように訊いたところで、マンション前に車がたどり着いた。

「ありがとうございました」

 お礼を言ってシートベルトを外していると、また専務が降りようとするから慌てて止めた。

「あ、大丈夫ですっ。ドア、自分で開けますから。また、濡れちゃいますよ」

 降りようとする専務を引き止めて、「ダッシュしますね」と笑って、ドアに手をかける。

「気をつけろよ」

「直ぐそこですよ」

 目の前にあるエントランスを見てから、専務を見てクスリと笑った。専務も笑っている。

「専務も帰り道、気をつけてください。送って頂き、ありがとうございました」

 じゃあ。と言ってドアを開けると、雨が地面を叩きつけるように降っていて、その中へ飛び込みエントランスまで一気に走った。

 ほんの一瞬であっという間に足元がびしょ濡れになり、スーツもしっとりしてしまった。バッグの中からハンカチを取り出そうとして、それがないことに気がついたのは、車が動き出してしまってからだった。

 明日でいいか。走り去る高級車のテールランプを、雨の中見送った。

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