第156話 ちょっと喜びすぎたかもしれない
まずはトットから挑戦する事になった。
ここまで案内してくれた職員さんは眼鏡をかけた落ち着いた男性だが、カウンセラーのような他人を安心させる喋り方と声をしている。
彼が「落ち着いて、気を楽にして……最近一番うれしかった事を思い浮かべて」とトットに声を掛ける。
目を閉じたトットは大きく深呼吸していたが、それがだんだんと静かな呼吸になってくる。何を想像したのだろうか、顔をあげた時には満面の笑みで魔法陣の書かれた紙を見ていた。
「喜びで満たされた空に今一度問う、我、資格を持つ者なり……――!」
トットの声に魔法陣が輝く。ガラスの繭の中が、ゴウッと風で満たされていく。
「喜びに心を開く時、風に乗った夢もまた花開く『フローレンス・ロット』!」
トットの小さな身体が吹き飛ばされそうなほどの風が渦を巻いた。実際は魔法の発動者であるトットの場所だけ無風地帯になっており、その魔力の奔流でのみローブの裾が、髪が、ふわりと浮いている。
渦を巻いた風の中に、ぽつぽつと何かが見えてくる。やがてそれはガラスの繭を一杯に満たす、大きな花びらを持つ花の形へと変化した。
「わぁ……!」
色とりどりの花は見た事のない花で、トットはその美しい光景に心を奪われていた。花がぐるぐると回り続け、トットの心はさらに大きな喜びに満ちていく。
満開に咲いた花の中、いつまでも魔力を流し続けていたトットは、はっとして魔力を流すのを辞めた。
全ての花が消えてなくなる……と、思っていたら、トットの胸元に一つの花がひらひらと降りてきた。魔力はもう流していない。魔法は成功し、終了した。だが、その花だけは形を保ったままトットの掌の中に納まった。
「す、すごい……! 魔法の規模もそうですが、まさか……!」
驚く職員の元に、繭の中から出て来たトットが近づく。そして花を見せると、職員は消えてしまわないか心配そうに、震える指先でそっとその花びらに触れた。
消えない。形を保ったままの、本物の花である。
「凄いですよトットさん! これは画期的な発見です!」
「は、はい?!」
「一体何を想像しながら……いえ、これはプライベートな事なので聞きません。しかし、わかりますか、ここにある花がどれほど凄いものなのか!」
残念ながらトットには分からなかった。何せ、無から有を作る人間がすぐ側にいる為だ。そしてさらに残念なことに、トットの中には世間の常識という物が育ち切っていない。
戸惑いながら手の中の花を見て、不可思議に頭を傾げているので精いっぱいだ。
「これは元素結晶と同じ物……いえ、それ以上の物です。元素の集合体でありながら、結晶とは違う……喜びの形を取った花。木の魔法は風と植物の魔法ですし、あの魔法は花を生み出す事にありますが、それが形として残っている! スキルの中には具現化や物質化というものがありますが、あれは詳細な設計図を要したり、核が必要だったりするのです。ですが! この花は、あなたの喜びを受けて、魔法が終わった後も残り続けている! あぁ、素晴らしい、この花を譲っていただく事はできませんか……?!」
つまりメネウが普段やっているお絵描きした物を具現化する万物具現化の縮小版とでも言うべき現象が、トットの魔法で起こったわけだ。
それは大騒ぎするはずである。他の職員もどんどん寄ってきている。
トットは花自体にそれ程思い入れが無いので「いいですよ」と言って職員にその花を渡した。この花はきっと研究に用いられるのだろう。
元素の中に眠る感情の因子を最大限引き出すと、元素は形を保つ、とメネウはこれを解釈した。
(そういえば俺の人生の喜ばしい事ってなんだ……?)
他の職員が厳重に保護した花をもってこの部屋を出て行ったのを横目で見ながら、メネウは考え込んだ。
トットから魔法陣を渡され、ぼんやりとそれを受け取り、ガラスの繭の前で立ち止まった。
振り返る。
そこにはラルフが、スタンが、トットが、カノンが、モフセンが、ヴァルさんが、いる。
こんなに嬉しい事は無いと思う。
山本和也だった時、振り返った時にそこには誰もいなかった。誰も付いてこれない、誰とも深いかかわりを持たない、それが当たり前で、それこそが喜びだった。一人でずっと絵を描く事が。
メネウは受け取った魔法陣を持って繭の中に入った。心の中は喜びで満ちている。
「喜びで満たされた空に今一度問う、我、資格を持つ者なり」
メネウの言葉は優しく、魔法陣はメネウの手からふわりと浮き上がった。
ガラスの繭の中は静かだった。優しい微風が頬を撫でる。
(自分の喜びを、魔力に籠めて……)
「喜びに心を開く時、風に乗った夢もまた花開く……『フローレンス・ロット』」
メネウが微笑んで呪文を唱えた時、繭の中は満開の花で一気に満たされた。
風が種を運ぶ。植物はそうして旅をする。旅をしながら夢を見る、花開く日を。
メネウになって関わってきた人たちの事を思う。今、背中で見守ってくれる仲間を思う。それだけでメネウの心は喜びに満たされた。
さすがに自分の立っているぎりぎりまで花でいっぱいになってしまったので、メネウは魔力を流すのをやめた。これでも五分の魔力制限は守ったつもりだが、感情を籠めた魔力というのは実に強力なようで。
「そん、な……馬鹿な……」
メネウが魔力を流すのを辞めても、繭の中いっぱいの花はひとつとして消えなかった。魔法を使うのを辞めたメネウに向って花が崩れ落ちてくる。
「うわ、わわわわ……?!」
あわててドアを開けて繭から逃れるものの、ざざぁと大量の花も一緒に流れ落ちて来た。何故かカノンは嬉しそうに吠えている。
「あの、これ……全部引き取ってもらえます?」
メネウは申し訳なさそうに驚きに固まっている職員に訊ねた。
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