STAGE 7

 階段を登る。

 一歩一歩、慎重に、大胆に。

 今までの道程を思い浮かべながら――

 今までの人生を思い出しながら――

 フェアリーハンター――パトリック・ケネディは血の因縁の相手である吸血妖精の元へと向かう。

 妖精の脅威から人々を守るために。

 未来へ希望を繋ぐために。


 何百段もの階段をモル=ロウとともに登り切ると、真っ赤な血の色をした絨毯の敷かれた通路が目に飛び込んできた。その先には、彫刻の施された荘厳な扉。ごくりと喉が鳴る。動悸が激しく打つ。間違いない。この扉の向こうに、エセリンドはいる。確信したパトリックは扉を破城槌のような勢いで蹴り破った。


「エセリンド!」「おばちゃん!」


 パトリックとモル=ロウが力強く叫ぶ。


 豪華絢爛。

 その四文字が頭に浮かぶここは間違いなく魔城の主の部屋であった。


 鮮やかな刺繍が施された絨毯に、天蓋付のベッド。部屋の隅には骨董品めいた鏡台や箪笥。それらの枠は当然のように金箔が施され、さらに漂う木の香りは心地良く、どこか郷愁を感じさせる味だった。

 この部屋の中央から、ハーブのような香りが充満する。

 はたしてそこには、二人の女性がいた。


 一人は眩い金髪の持ち主。穏やかな湖畔のような翠の瞳を持ち、整った顔立ちは聖母のような女性。パトリックの許嫁、レイチェルであった。


 そしてもう一人。


 舞台女優のように均整のとれた顔立ち。双眸は宝石のように綺麗に輝き、浮世離れした強さを孕んでいた。峰雪も嫉妬しそうな純白の肌は窓から刺す月光で輝き、血管が浮かび上がりそうなほど。黒いドレスに身を包み、豊満な胸元は開かれ、谷間がはっきりと見える。

 吸血妖精。

 男女の性別を問わず、多くの人間を魅了してきたデアルグ・デュ。

 この魔城の主エセリンドであった。 


 エセリンドはレイチェルと向かい合い――チェスをしていた。


「あら、レイチェルちゃん。いいとこだったけど、お客さんが来てしまいましたわ。このゲームはここまでにしますの……」

「あっ、もう少しでわたしが勝つところだったのに」

「お前たち、何をしている?」


 パトリックは困惑した。

 レイチェルが無事だったのには安堵したが、彼女は和気藹々とエセリンドとゲームをしていたのだ。まるで、お互いが古くからの友人であるかのようだ。頭が痛くなる。【聖十字槍】の穂先をエセリンドに向けたまま、パトリックは尋ねた。


「レイチェル、まさか、エセリンドの術にかかって、操られているのか?」

「やーねー。パトリック。わたしは純度百パーセントの天然レイチェルよ」


 弦楽器の端の糸を弾いたような声が、聴覚に響く。勝ち気な顔で笑うレイチェルの声色に嘘の響きは無い。間違いなく、この女性はパトリックの恋人、レイチェルだ。


「レイチェルお姉ちゃん、解放してもらったの?」

「あら、モルちゃんじゃない。パトリックと一緒にいたの? そうね、わたし、エセリンドと会って、説得したのよ」


 ぽんっと胸に手を置き、目配せ。

 パトリックの困惑の濃度が増していく。


「どういうことだ?」

「では、わたくしがここで自己紹介と口上を兼ね、優雅に華麗にご挨拶といきますの」


 ふんわりとした穏やかな声音であった。漏れる吐息は桃のように甘く、その言葉の節々から上品さを感じ取れる。


「わたくしこそこの魔城の主エセリンド。吸血妖精の異名を持ち、妖精たちを束ねる君主。若い男の血も、若い女の血も美味しくいただけるデアルグ・デュ。趣味は音楽鑑賞。特技は蝙蝠への変身でございますの。パトリック・ケネディ。精鋭である親衛隊たちを破り、よくぞここまでいらっしゃいました。その神話の英雄の如き活躍、賞賛に値しますの」


 無邪気に、凄艶に笑うエセリンド。彼女の物腰はパトリックの想像以上に柔らかかった。


「……わたくしはいつものように、ケネディ家と殺し合いを始めるつもりでしたの。そのために、レイチェルちゃんを攫い、あなたを呼んだ……。しかし、このことがわたくしに変化を与えましたの。彼女は……わたくしを憎まず、恐れず、会えることを喜んでいた。それどころか、吸血妖精としてのさがを――ケネディ家との因縁を『哀れ』だと思っていたですの……」


 エセリンドの瞳が潤み始める。吸血妖精などという物騒な肩書きなど、微塵も感じられないほど、目の前にいるのはごく普通の人間のように思えた。


「レイチェルちゃんは、わたくしも、そしてあなたたちケネディ家をも血の輪廻から解き放とうと架け橋になろうとしたのですの……。嬉しかった。わたくしの苦悩を理解してくれる女の子がこの時代にいて……」


 いつかのレイチェルとの会話が脳裏を過ぎり、パトリックは戦慄した。


「まさか……俺たちと和解するつもりなのか……?」


 ケネディ家とエセリンドは戦い合う運命。その前提が、今この瞬間大きく覆されようとしていたのだ。


「……さて、それも難しいでしょう。わたくしの本能に潜む吸血衝動がそれを許さないはずですの」


 薄い色の唇の隙間から、鋭く伸びた犬歯が覗いた。


「ならやっぱり、お前を滅ぼすしかない!」

「ええ、そうよパトリック。あなたにはエセリンドの本能を滅ぼしてほしいの! わたしの言うことを聞いて!」


 今にも飛びかかろうとする猟犬を、レイチェルが制止させた。


「ど、どういうことなの……」


 モル=ロウの疑問にエセリンドは頬に血の気を集めながら答える。


「わたくしの本能は人間への憎しみで動いていますの……。それを愛で上書きすることができれば……わたくしの吸血衝動は抑えられ……デアルグ・デュではなく一人の女として生きることができるでしょう……」

「愛……だと……?」

「そうよ。エセリンドの憎悪を取り除くためにも、人間の素晴らしさを教えてあげるの」


 溌剌と説き伏せるレイチェル。今では彼女の方が聖人かと思いたくなるほどその言葉には不思議と力が込められている。


「どうやって……?」


 エセリンドは胸に手をあて、述懐する。


「……人の血を求めるわたくしにも、好きなものがありましたの。それは『詩』……」


「そう、エセリンドを唸らせるような詩を作るのよ、パトリック!」


「はあああああああああ?」



 困惑は限界を超えた。周囲の風景が水彩画に水を零したようにぐにゃりと歪み、パトリックはエセリンドもレイチェルも直視できなくなる。


「人間の想像力、感受性、生命観! それらを全て、詩に込めてエセリンドへとぶつけるの! エセリンドを感激させられれば、きっと全部が丸く収まるわ!」

「何それ、楽しそう!」


 無邪気にモル=ロウが笑い、パトリックは胃が痛くなった。


「けどよ、レイチェル。俺は詩なんて、書いたことはないぞ」

「ちょうどいいわ。日本には俳句という定型詩があるの。短い文を三行分書くだけの詩よ。これならパトリックでもできるでしょう?」


 世界の文化に興味を持つ彼女は、遠く離れた島国の詩も知っていたようである。

「ね、簡単でしょ?」と微笑むその顔は小悪魔的だった。


「簡単に言ってくれる……!」

「まだ難しい? だったらそうね。テーマを与えるわ」


 レイチェルは折り曲げた人差し指を顎に添えて思案顔。その視線が窓の外の赤い月へと向けられた。目を見開き、彼女に雷鳴めいた着想が訪れる。


「うんっ。『月』ね。秋の季語だしちょうどいいわ。月をテーマにして俳句を作り、エセリンドを唸らせなさい!」


 どーんと指を差してそう言い放つ。パトリックは手にしていた【聖十字槍】をぶるぶると震わせてから、


「わ、わかった。考えてやる……」


 眉間に皺を刻み、パトリックは自分の感性に鞭を打つ。

 月。エセリンドを唸らせるような名句。幻想的で、妖艶で、浮世離れした妖精の女王に似合う俳句。

 しかし、思い浮かばない。何かアイデアはないかと、パトリックは同じように目を閉じて唸っているモル=ロウを一瞥。ダンスが得意な少女。そうだ、女ならば、エセリンドならば、踊る姿が似合っているに違いない。


「よし、思いついた」


「はい、パトリックくん。一句どうぞ」とレイチェル。

「がんばって、パトリックお兄ちゃん!」とモル=ロウ。

「カタカタ」と鍋。

「楽しみですの……」とエセリンド。


「読むぞ……」


 こほんと咳を放ってから、パトリックは胸中に訪れた詩を言語化する。


「光浴び

  月下に踊る

   君の髪」


「…………」


 パトリックが俳句を詠むと、部屋は静寂に包まれた。

 フェアリーハンターはこめかみをぴくぴくさせて、


「ど、どうだった?」


 エセリンドの様子を伺った。

 すると、吸血妖精は黒髪をぶわっと広げ、


「く、くくく……。ああ、パトリック・ケネディ。わたくしの親衛隊を破り、見所があるかと思っていましたが、この程度の詩しか詠えないとは。今すぐ八つ裂きにし、その血を飲み干したくなりましたの……」


 落胆と怒りのこもった声で、エセリンドは禍々しい魔力を放出し始めた。


「まずかったようね。パトリックの才能ナシの俳句を聞いて、吸血衝動が抑えられなくなっている。このままじゃ、エセリンドは今まで以上に人間に絶望してしまうわ」

「な……! 俺の俳句のどこが悪かったんだ! 月光を浴びて、優雅に踊るエセリンドのイメージ! とても幻想的で、美しいじゃないか!」

「うーん、そう解説されないとよくわからないわ。まず、最初に『光浴び』でしょ。ここで聞いた人が何の光なんだろうって思っていると、次に『月下に踊る』。あれ、『光』は何? もしかしたら、月の光かもしれない。だけど、別の光――単なる街灯やランプかもしれないと思うわけでしょ。さらに、『踊る』ね。情報が溢れているときに、何が踊っているんだろうってさらに謎が増える。トドメに『君の髪』……踊っていたのは髪でした。ということは、単に夜中に道を歩いていたら、髪が揺れていただけの、つまんない句になるわけでしょ。とてもじゃないけど、幻想的とは思えないわ。光が月光のことなら、最初から『月光』って言えば単語の節約にもなるし、使える言葉がもっと増えて情景が膨らむと思うわ。それと、『月下に踊る、君の髪』についてなんだけど、素人がやっちゃあいけない要素が二つも入っている。まず、『踊る』という言葉ね。素人が使いたがる三大動詞が『踊る』や『燃える』や『舞う』なの。動きを表現したいんだろうけど、単調になってしまいがちになるわ。それで、踊っていたのは髪になるんだからこれは擬人化でしょ? 擬人化もなんとかいい句にしようと素人が足掻いているように思えてしまうのよ」

「わかったわかった!」


〝――そこまで偉そうに言うのなら、レイチェルが俳句を詠め!〟


 ぎしぎしと歯で不協和音を奏で、パトリックは嘆息する。

 そこへ、


「パトリックお兄ちゃん、もっと、照れないで、本心をぶつけてよ」


 モル=ロウが両手を握って激励。


「モル=ロウ?」

「モルは今日、パトリックお兄ちゃんと探索してわかったんだもん。強いところもあるけど、ケネディ家の血に縛られていて、自分の本当の姿を誤魔化しているんじゃないかって。あの、酔っぱらったときのパトリックお兄ちゃんを見て、そう思ったんだ……。だから、もっと、自分の気持ちを歌に込めれば、きっとエセリンドおばちゃんもわかってくれるよ」

「俺の……本心」


 相棒であるはずの【聖十字槍】を見つめる。その穂先には、困惑するパトリックの顔が映り込んでいた。


〝――俺はエセリンドを滅ぼすためにここまで来たんだ〟

〝――躊躇いもなくあの顔に穂先を突き刺せるはずだったんだ〟


 なのに。

 なのに。


 ケネディ家の血は今、氷のように冷えてしまっている。

 心のどこかで、エセリンドを救いたいという気があったのかもしれない。

 それは、レイチェルと交流を重ねているうちに生まれたのかもしれない。

 胸の奥が震え出す。フェアリーハンターではなく、人としての本能が叫び出す。

 パトリックは今一度、仇敵であるはずのエセリンドを見つめた。


「もう……衝動を我慢できませんの……。さあ、詩を詠んでくださいませ、パトリック・ケネディ……。これが最後の機会ですの……」


 やはり、苦しそうで、哀しそうな顔だった。

 楽にしてやるしかない。それも、フェアリーハンターとしての務めだ。


「よし、詠むぞ。エセリンド」

「はい……」


 意を決し、パトリックは【聖十字槍】を手放し、床に落とした。

 レイチェルとモル=ロウが見守る中――

 吸血妖精としての性質を消し去るために――

 フェアリーハンターは言葉という銀の弾を詰め、トリガーを引く!


「古酒に

  金貨浮かべて

   よい夢見」

「…………」


 またも、場の空気が凍る。


「パトリック、今の俳句に込められた思いは……?」


 レイチェルに訊ねられ、パトリックは嘘偽りなく本心を紡いだ。羞恥で耳の先まで赤くなるが、気にせずに――


「直球で月を表現せず、金貨に置き換え、それを古酒――ワインに浮かべた。穏やかで、静かな秋の風を浴びながら、大事な人と酒を交わして乾杯し、夢を語る。俺の、憧れた光景だ」

「…………」


 レイチェルもエセリンドも、口を結んでパトリックの言葉を聞き続ける。


「俺は生まれたときから、エセリンドを滅ぼすために、ずっとずっと特訓を繰り返し、そのためだけに生きてきた。もし、普通のパトリックとして生きることができたら……普通に酒を飲んで、静かに暮らしたいと願ったこともあった。それを、歌に込めた」

「パトリック……」


 目を繚乱たる星空のように輝かせてレイチェルが見つめた。


「エセリンド……俺は本当なら、お前はもちろん、誰も傷つけたくなかったんだ……。そして、できることなら、お前とも酒を酌み交わしたかった」

「お、おお……!」


 パトリックの願いの込められた俳句を聞き、エセリンドの顔が豹変する。

 憎悪で強張っていた頬が緩み、そこへ熱いものが流れ、おとがいに集まると床へ落ちていく。


「エセリンドおばちゃんが、泣いている……」

「わたくしも夢見ていましたの……静かに、誰にも邪魔されずに、この大自然の中でゆったりとくつろぎ、ワインを口にすることを……」


 ぽたぽたとエセリンドは涙の流星雨を降らす。


「エセリンド……?」


 想像以上にエセリンドの心情が揺れ動いており、パトリックは驚愕した。嗚咽を漏らしながら、エセリンドは語り続ける。


「わたくしは……元はごく普通の人間……。とある農家の娘でしたの……。しかしある日、最愛の父が強盗に殺され……わたくしは悲しみの海に沈み……ひたすら人間を憎しみ続けていましたの……そこを妖精につけこまれ……呪いによってデアルグ・デュに変えられてしまったのですの……」

「エセリンドおばちゃんも元は人間だったんだ……」


 口をぽっかりと開けて驚嘆するモル=ロウ。パトリックは静かにエセリンドの言葉を受け入れる。


「そして、吸血妖精と化したわたくしは憎悪から生じた衝動で人間を襲い……ケネディ家と出会ったのですの……」

「それが俺たちの……因縁の始まりだったのか……」

「わたくしの夢を思い出させてくれた……ありがとう、パトリック・ケネディ。あなたは紛れもなく、ケネディ家最強のフェアリーハンターでしたの……」


 にっこりとほほ笑むエセリンド。そこに恐れられていた吸血妖精の顔などはなかった。血色もよく、水浴びを終えたときのようなさっぱりとした表情の彼女は、ごく普通の女性のようだ。


「エセリンド……」

「ええ……あなたの詩のおかげで、わたくしの人間に対する憎悪は抑えられましたの……」


 エセリンドは天界のハープのような声色で、安堵する。それを聞いて、モル=ロウはぴょんぴょんと跳ね喜びを分かち合う。


「それじゃあ、パトリックお兄ちゃんはもう、エセリンドおばちゃんをやっつけなくていいんだね」

「モル=ロウと言いましたね? さっきから思っていましたが、わたくしはおばちゃんと呼ばれる歳ではないですの……」

「あっ、ごめんなさい」


 失言だったと少女はしゅんと身を縮ませた。


「そして……わたくしの吸血衝動が完全に消えるとは言い切れないですの……」

「それじゃあ、吸血妖精様には監視する必要があるわけね……」


 ふっと息を吐き、レイチェルが眉をハの字にする。


「ということは……」


 触れれば感電してしまいそうなほど緊張していた空気もどこへやら。

 魔城ではなく、単なる女友達の部屋と化したこの場所で――

 六つの瞳はフェアリーハンターパトリックへと注がれていた。




【妖精図鑑】

☆デアルグ・デュ


 アイルランドの古代から伝わる妖精の一種。美しい女性の姿で現れ、男を魅了し、その血や生気を奪う。墓を住処とする生きる死体であり、彼女から身を守るためには墓を石で封じなければならないという。

 その吸血伝承はアイルランド人の作家に大いなる刺激を与えた。ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュは女吸血鬼「カーミラ」を生み出し、ブラム・ストーカーは「吸血鬼ドラキュラ」を発表。吸血鬼という怪物のイメージを一般化させ、今も多くの人々に親しまれている。

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