その3 料理人として

 こんにちは、菊尾咲夜です。えっ、誰かって? 覚えてないんですか? 

 そうですよね、本編の出番数行だけでしたもんね。僕のおじいちゃんは秋葉原の街にひっそり佇む高級割烹『菊尾』の店主菊尾則宗です。『菊尾』は秋葉原がアキバ帝国であった頃、高官たちが通い詰める人気店でした。でも今では鳴りを潜め、知る人ぞ知る高級割烹として落ち着いた営業を続けています。


 僕はと言えばまだまだ修行中の身、最近ようやくお客さんに出す、出し巻卵を焼かせてもらえるようになりました。ずっと、皿洗いをしたりお使いに行ったりと見習いを続けていたんですけどやっと料理人として一歩を踏み出すことが出来た、と思った矢先でした。


「ほうわああああああ」


 トイレからおじいちゃんの叫び声が聞こえました。必死にドアをノックして呼びかけます。


「おじいちゃん! どうしたのおじいちゃん、ドア開けて!」


 ゆるりとドアが開くとおじいちゃんが便器に腰かけて呆然としていました。


「で、出た……」

「何が?」


 おじいちゃんはそれきり黙ってしまいました。タクシーを呼んで近くの総合病院へと連れていきました。


「脱肛ですね」

「だっ、こう」


 おじいちゃんは顔面蒼白で呟きました。一度も病気をしたことのない人だから無理もないかもしれません。おじいちゃんは先生の言いつけどうり二週間店を休んで入院し、手術して治療に専念することになりました。


 店は二週間も休めないので、以前店で修行していた今は有名店の店主吉川さんに来てもらうことになりました。二週間も悪いと思ったけれど吉川さんの店は従業員がたくさんいて抜けても全く問題ないという事だったのでお言葉に甘え助けてもらうことにしました。


 実の孫なのに店の切り盛りを任せてもらえないことに少し寂しさと情けなさは感じていたけれど実力不足なのだから仕方ない、と言葉を飲み込んでこれを機に吉川さんの技術も盗むつもりで臨みました。


 店は準備中、外から見ても分からないでしょうが店の中は営業中よりむしろ大忙しです。


「咲夜くんタコ洗って」

「ハイ!」


 塩をたっぷりとってタコを揉み洗いします。タコを洗うのは得意です。おじいちゃんにも一度褒められたことがあります。きっちり洗っておかないとタコは臭いので念入りに洗います。洗い終えると吉川さんに渡して洗い物をします。無心でこなしていると吉川さんが声を掛けてきました。


「咲夜くんタコの甘辛煮の味付してみないか?」

「えっ?」


 おじいちゃんの味は知っています。でも勿論お客様に出す物の味付はしたことがありません。


「それはまだ許してもらっていないから……」

「何事も経験だよ」


 怯んでいたけれど、やってみたいという好奇心も手伝って鍋の前に立ちました。毎日賄いを作ってそれをおじいちゃんや従業員の人に食べて貰っているので思ったよりも緊張感はありません。それにこれはチャンスかもしれません、吉川さんに味を見てもらえるのはいい機会。さっそく酒を手に持ち煮汁を作り始めました。


 作りながらおじいちゃんの味を思い出します。おじいちゃんのタコの甘辛煮は酒が効いていてタコが柔らかくほくほくとしています。酒を意識しながら煮汁を作って一度吉川さんに味を見てもらいした。


「少し酒が多い気がするな。嫌いじゃないけど醤油をもう少し効かせて」

「ハイ」


 醤油を加えて再び味を見てもらいました。


「うん、上等だよ! 師匠の味そっくりだ」


 許可が出たのでタコを投入しました。三分してあまり煮込むと固くなるからと火を早めに止めようとしたらが吉川さんに止められました。


「冷めてお出しするから味をしっかりつけとかないと味が薄く感じるんだよ。弱火でしっかり煮込んで」


 火を止めたくなるのを堪えてしっかり煮込みます。辛抱強く待っていると頃合いを見て吉川さんが「よっし」と言いました。


 出来上がったタコを味見してみると絶品、ふっくらとしてて柔らかく味もしっかりついていて正直美味しかったです。


「丁寧に下処理してあるからね、煮込んでも固くならないんだ。あと料理人の仕事は素材を信頼すること、手助けし過ぎず素材の持ってるポテンシャルを生かして料理することだよ」


 目からうろこの言葉でした。その後、吉川さんはワカメの酢味噌和えを作らせてくれて、おじいちゃんに一度習っていたワカメの食感を生かした処理と白みその活かし方を改めて自分の言葉で教えてくれました。


 営業が始まりお客さんが入ってきます。僕の作った酢味噌和えはお通しでお客さんの元へどんどん運ばれていきました。じっと見守っていると吉川さんに「ぼーっとしてないで出し巻焼いて」と声を掛けられました。お客さんが食べているところは見られませんでしたが下げられた空になったお皿を見てそっとガッツポーズしました。





 営業後、皿洗いをしていると吉川さんがキミだけにこっそり教えてあげるよと言うので期待していると、揚げ出し豆腐の作り方を教えてくれるとのことでした。

 吉川さんがこだわっているのは豆腐で、豆腐は絹ごしを使うのがコツだそうです。

 吉川さんはおじいちゃんに独立を認めて貰った時に食べさせた勝負メニューだと自慢げに言いました。


 豆腐が崩れないように注意して片栗粉を叩き中温でじっくり揚げます。つゆは生姜を利かせた薄味のだし汁です。完成品を吉川さんに味見をしてもらうと、うーんという顔をしました。「食べてみて」というので味見をすると油切れが悪くしっとりとしていました。慎重に揚げ過ぎたことが原因だと吉川さんは言いました。


「料理ってのはタイミングが命なんだ」と吉川さんは言います。天ぷら然り、煮物然り、タイミングの見極めは料理の出来栄えを左右します。料理人としての勘はまだまだという事でしょうか。

 吉川さんは解説をしながら目の前で揚げ出し豆腐を揚げてくれました。出来上がったものは中まで温かく、けれどプルプルで溶けるような舌ざわり、一口食べただけで幸せな気持ちになる逸品でした。

 大げさに言ってるわけじゃなくて料理が人を幸せにするというのは本当のことだなと思いました。


 それから、おじいちゃんが退院するまでの二週間吉川さんの技を少しでも盗もうと気になったところはあれこれ質問し、所作をじっと見てはメモに取りました。懸命にメモをしていると「菊尾さんは幸せだなぁ」と吉川さんが微笑みました。

 どうしてか問いかけると、有能な跡継ぎがいるからだよと目くばせしてくれました。少し気恥ずかしかったけれど目を背けずに「頑張ります」とだけ言って口元を引き締めました。


 二週間後、おじいちゃんは無事退院しました。気持ち的に少しやせてほっそりしている気がしますが元気そうで安心しました。店は臨時休業させ、退院したおじいちゃんに懐石を振る舞いました。おじいちゃんや吉川さんに習ったものばかりで目新しいものはなかっただろうけどおじいちゃんは目を細めて嬉しそうに全部食べてくれました。


「美味かった」


 箸を置き丁寧に言葉を絞り出すとしみじみとした表情で空の皿を眺めていました。


「咲夜」

「はい」

「明日から店は任せる」

「えっ!」


 あまりの出来事に頭の中が真っ白になりました。するとそんな様子を見ておじいちゃんは「はっはっはっ」と笑いました。


「冗談だよ。まだまだ引退するつもりはない」


 何だぁと内心ほっとしました。


「でもまあ、タコと揚げ出しは店を任せても良いと思ったよ」


 笑顔で頷いてくれました。今の自分にとって最高の誉め言葉です。その後先輩たちの作った料理で吉川さんのお疲れ会をしてお開きになりました。


 帰り際、吉川さんが包み紙を渡してくれました。入っていたのは使い込まれた包丁でした。


「師匠の元で修行していたころに使っていたものなんだ、貰ってくれ」

「でも」

「キミが店を任されるようになったらいの一番に食べに来るよ」

「ありがとうございます!」


 泣きそうなのを堪え包丁をしっかり握りしめ、ほろ酔いの吉川さんを見送りました。その日は珍しく洗い物が終わるのをおじいちゃんが待ってくれて星空の下を一緒に帰りました。


「咲夜、おじいちゃんな、死ぬかと思ったんだぞ」

「脱肛でしょ?」

「そうだな、脱肛だな」


 脇腹を小突いておじいちゃんは夜空に笑い声を響かせます。まだ、見習いでいい。でも本当に困ったときにはいつか頼られる料理人になりたい、心からそう思いました。

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