第参話 『名前』

朝、ピチチと鳴く小鳥の声で目が覚める。久々に熟睡できた気がする。『魔女』の彼が入れてくれた“雪花湯せっかゆ”のお陰だろうか。

身体を起こし辺りを見渡すと側に付いてくれていた筈の彼の姿が見当たらなかった。


―――どこに行ったんだろう…?


そう思いきょろきょろとしながらベッドを降りて、そーっと扉を開けると昨日は分からなかった物静かだが綺麗な装飾が所々に目立つ長い廊下が見えた。ここまでどこまでも続く長い廊下を見たのは生まれて初めてだった。


―――この廊下の先に、あの人はいるのかな…。


そう思い廊下に出ようとした瞬間、ぐらりと視界が反転した。まだ、身体は本調子じゃなかったのかもしれない。そんな事を倒れた状態でぼんやりと思う。


―――このままここで死んだら、彼はどうするんだろう…?


お話で聞かされたように、頭からバリバリとべるのだろうか……?

それもそれで良いかもしれない、などと思っていると不意に足音が聞こえ、ひょいっと身体が浮く感覚がした。

え、と思って見るとそこには彼が居て、自分の身体を抱き上げていた。


「何してんだ、無理すんなよ」

「え、ぁ、う…」

「安心しろ、いやしねぇよ。俺はそういうのは合わないんだ」

「そ、ぅなんですか…?」

異端イレギュラー、だからな」


そう答えて彼は似つかわしくない、へらっと気の抜けた表情カオで笑った。少し自嘲気味なその笑顔が何となく気になったけれど何も言わなかった。いや―――言えなかった、僕には何も。

ベッドに座らされて、彼は僕と目線を合わせた。


「昨日は聞きそびれたが、改めて名を教えてくれるか。不便で仕方ないだろう?」

「なまえ…?」


―――なんだろう?


不思議に思い首を傾げていると彼はきゅっとその端正な顔を顰め、


「…もしやとは思うが、名前が無いとか言わないよな? 贄になるまでの名前とか無いのか……」


などと言う。名前、名前か…。皆が言っていた『ゴミ』は名前に入るだろうか?

そう彼に尋ねてみると彼は即答で「入るわけがなかろうが、このバカ」と嫌そうに顔を歪めた。しかし名前と言われて思い浮かぶのがそれくらいで、他に名前らしきものが浮かばない。

こちらが困っているのに気がついたのだろう、彼は小さく溜息をつき、言った。


「はぁ…名が無いのなら俺がやろう。だから何があろうとも自らを『ゴミ』などと呼ぶな。お前はゴミじゃない」

「ぇ、でも…」

「ゴミじゃないと言ったらゴミじゃないんだ、素直に頷けアホ」

「は、はい」

「ん、それで良し」


僕が頷くと彼は満足げに笑ってわしゃわしゃと僕の髪を撫でた。

ここに来て以来初めてのまともな笑顔だった。

僕を撫でながら彼はんー…と考えるように唸り、そして言った。


「…ユキ、ってのはどうだ? ユキ・イヴァレ。イヴァレは古代フィラル語で幸福を意味する言葉なんだが……」

「ゆき…ユキ、イヴァレ……?」

「そう。ユキ、お前は今日から…いや、ここに来た時から、ユキだ。ゴミじゃない」


よほど僕が自らをゴミと呼んだのが嫌だったらしく、執拗く彼は何度も断言した。


―――ユキ、か…。


なんて綺麗な名前だろう。

そう思った。ここに来て彼が僕に与えてくれるものはどれも今までの場所に居た時には欲しくても貰えなかった物ばかりだ。こんなに貰ってばかりで良いのだろうか、と不安になるくらいもうたくさん彼から貰っている。

俯いた僕を彼はえ、ぇ? と焦ったように優しく撫で顔を覗き込んだ。そして「嫌だったか? 嫌ならやめるが…」と困ったように言うものだから、つい、言ってしまった。

それに、この優しい人の名前が知りたかった。僕のために寝床まで貸してくれるような、この優しい人の。


「いえ…あんまりにも、綺麗な名前だから……その、嬉しくて…。僕の名前はユキです、ユキ・イヴァレ。貴方のお名前が知りたいです」

「え、あ、あぁ名前な…。アルだよ、アルベルム・フォビア。フォビアは古代フィラル語で異端、って意味だったかな」

異端フォビア、ですか…。雪花ラコフの方が似合う気がします……」

「そうか? 雪花ラコフは嫌いじゃないけどな…。まぁユキがそう言うなら、ラコフも良いな。アルベルム・ラコフ、か。昔似たような名前の賢人が居たらしいぞ?」


そう言い彼は、ははっと笑った。それにつられて僕も笑う。

そして僕らはその日、同じベッドで互いを案じるように抱きしめ合いながら眠った。

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