第2話 彼女の話

「明日は、早番なのよ。気を遣ってくれてありがとう。楽しんできて」

2次会に誘ったら、彼女はそう言ってにっこり笑い俺の前から歩み去って行った。多分、もう会えない。今日は俺の送別会で、俺は3日後もう一度出勤するが、シフトの関係で、彼女と顔を会わせることはない。彼女の後ろ姿を見ながら、あの腕のつかんで引き戻したいと思った。その時彼女が思いがけなく振り返ってくれた。もしかしてと期待したが、彼女は、俺に手を振り、2次会組に合流を促す仕草をしてまたいってしまった。

−−どうぞ、お元気で


※※※


 新しい職場、新しい同僚、新しい上司、新入社員なんだら当たり前なんだが日が進むにつれ、俺は、瑛里さんに感謝している自分がいるのに気がついた。瑛里さん、頭の中では名前でずっと名前で呼んでいる。面と向かっては絶対口に出さなかったけど。瑛里さんは、バイトの俺たちにも厳しかった。ほかの社員さんは、所詮バイトだからと服装とか態度とか仕事のミスについて一応は、注意をするがあまり厳しくいわなかった。瑛里さんは違って、要所要所で結構きっちり、何がいけないか、どう注意していくべきか指摘してくれた。そんな瑛里さんを「おっかねぇおばさん」というバイト仲間もいたけど、俺と一部の女子バイトはそうは思ってなかった。他のバイトと掛け持ちしている女子の中には、瑛里さんの言っていることを別のバイト先で実践したら、職務態度を褒められ、時給UPに繋がったと嬉しそうにいっていた。実際、俺も今の職場で、上司からの覚えがいい。これも瑛里さんの厳しい指導の賜物だった。

 俺は、大学2年の終わりに瑛里さんの会社に勤めだした。同級生は就活の準備を始めていたが、俺は大学院に行くことを決めていたので、大学院受験と合格したら必要となる学費の補填(親は、学資保険をきっちり掛けてくれていたが、大学院に進むことまでは考えていなかったので)に当てようと学業に負担がない程度に始めたのだ。

 初めて瑛里さんに会ったのは、俺がバイトを始める日だった。面接をした事務所と実際に働く場所が違っていたので、職場に行くのはこの日が初めてだった。わかりにくい場所にあったので、俺は迷ってしまっていたのだ。そこに声を掛けてくれたのが、お使いに出て帰ってきた瑛里さんだった。

「もしかして、迷ってません?」

「迷っています。」

これが瑛里さんと初めて交わした会話だ。なんか情けない…。

 情けないといえば、就活中の自分も結構情けなかった。氷河期でもあり、希望する職種の募集も極端に少なく、中々内定がとれなかったので上司の吉田さんにそのことをぼやいたら、

「じゃあ、この会社にするか?お前なら間違いなく内定とれるぞ、俺たちが推薦してやるし。」

といってくれた。焦っていた俺は、そのことを真剣に考え始めていた。就職浪人になるぐらいならその方がいいんじゃないかと思い、倉庫で一緒に作業している瑛里さんに吉田さんがそう言ってくれているということを話した。瑛里さんは、作業する手を止めて、俺をしげしげと見た。そして、ちょっと冷たい声で、

「うちの会社に来るために大学院まで進んで学問してきたわけじゃないでしょ?そもそも、会社に入るための学問じゃなかったはずでしょ。うちに来たら今までの努力が生かせない。もっとなりふり構わず、立ち向かわなきゃ駄目だし、そもそも、バイトシフト減らしてないじゃない、学費を稼いでいるのはわかるけど、普通、この時期バイトを減らさないで就活しているなんて駄目じゃないの」

 痛いところ突かれた、実際、いまバイトシフトを減らしていないのは、金というより、瑛里さんに会うためとういのが本音だ。吉田さんの提案にのりそうになったのだって、瑛里さんのそばにいたいからだ、俺の考えていることわかってしまったんだろうか。何も言えなくなった俺にとどめを刺すように瑛里さんは言った。

「シフト調整は、まだ大丈夫だから、出し直しなさい。いきたい会社、なりたい自分になれる道ができたら、学校卒業までまた戻ってきなさい。」

「はい。」

俺はただ、そう返事するしかなかった。あぁ、もう泣きそうだ…。

 それから、俺は、バイトのシフト調整を提出し、出勤を減らし死に物狂いで就活を始めた。神様が味方してくれたのか、本気になってしばらくするとゼミの教授から、教授の伝手で希望する職種を募集している会社の求人を紹介してもらい、内定を勝ち取った。やった、これで、卒業までの3ヶ月、バイトにいけると思った。

 その3ヶ月もあっという間に過ぎて、俺の送別会の日となった。瑛里さんはというと、主役の俺の席からは遙か遠くに座っている。何とかして、彼女のそばに行きたかったがひっきりなしに話しかけられ、席を立つことができなかった。瑛里さんも、俺の方には来てくれなかった。多分避けられている。あの日、倉庫で瑛里さんは、俺に厳しい指導をした。その後、まったく話しかけられなくなった。就活に全力投球中は、出勤しなかったし、内定してバイトにもどっても、仕事の話以外は全くしてくれなかった。多分、呆れられてしまったのだ、俺の不甲斐なさに…。それでも、なけなしの勇気を振り絞り、2次会に誘ったが敢えなく撃沈。救いは、彼女は最後に俺に向かって微笑んでくれたのだ。この笑顔、紛れもなく俺だけのものだ、忘れない。


※※※


 就職して、1年がたった。俺は時々元バイト先の人たちの月一のカラオケ会に参加している。参加する理由は、カラオケで歌いたい歌が、現在の会社の人たちといくカラオケでは歌いにくいことと、瑛里さんの近況を聞きたいからである。実際のところ、2,3回に一度、ちょっとだけ近況が聞ける程度である。

仕方がない、誰もが、歌うこと、これから歌う曲を入れることに夢中で、噂話をしている暇なんかないからだ。

 でも、どんなに頑張っても俺から瑛里さんに連絡をとる理由がない、実は、瑛里さんのスマホのメアドだけは知っている。時々、無性にメールをしたい欲求に駆られるが、俺からいきなりメールなんか来てもきっと困るだろうと連絡できないでいた。

 そんな、こんなで、悶々としていた時、俺は、仕事でミスをした。大きなミスではないが、上司には、それなりに叱られた。結果、結構落ち込んだ。上司に叱られた後、恐らく上司からの指示ではあろうが、先輩からフォローが入り、ミスはしでかしたが、上司は、俺を育てようと骨折ってくれているんだというのは理解できた。役立たずと思われていないようで安心した。それでも、俺は、落ち込みから立ち直れなくて、思わず、瑛里さんにメールをしてしまった。

 そして、もっと落ち込むことになった。メールはエラーで返ってきたのだ。せっかくゲットした瑛里さんのメアドはもう使われていないか、登録メアド以外は、拒否るように設定しているかのどちらかなんだろう。本当に、本当にもう、連絡のとりようがない。そりゃあ、カラオケの会の人に聞けば、アドレスはわかる。しかし、プライベートでまったく接触のない俺が、いきなり瑛里さんのメアドを知りたがったら、誰だって、俺の気持ちに気がつく、それは、俺が瑛里さんに気持ちを伝える前に、関係のない人に俺の気持ちがわかってしまうってことだ。そんなのは、嫌だ。この気持ちを本人に伝える前に、他人に知られるのは嫌だ。

 このままいったら、元バイト先の前で瑛里さんを待ち伏せしてしまいそうな気持ちにまで追い込まれたある日、カラオケ仲間から嬉しいメールが届いた。バイトの時俺をかわいがってくれていた吉田さんが、めでたく定年退職されるのでその送別会に来ないかというお誘いだ。俺は、二つ返事で参加を表明した。

 送別会までの2週間、俺は必死に仕事して、その日に残業になったりしないように気をつけた。加えて、スケジュールをやりくりして、出先から直帰できるようにした。会場ではなく、バイト先に先に顔を出せるようにしたかったからだ。

 久し振りのバイト先、懐かしい。主役の吉田さんを始め殆どの人が会場に向かってしまったそうだが、瑛里さんはまだ、倉庫にいるという。挨拶もかねて呼んで来るというと、よろしくと言われた。早速倉庫に向かう。入り口で中をみると、棚の前で納品された製品を確認している瑛里さんがいた。その凜とした横顔にしばし見とれる。そして、ゆっくりと倉庫に入り、瑛里さんに向かって歩き出した。恐らく気配を感じたのだろう、瑛里さんがこちらをみた。少し目を見張って俺を見つめる。ああどうしよう、胸が苦しい、声を振り絞って名前を呼ぶ。

「青木さん…」

「あ…、どうしたの?会場はいつもの居酒屋よ…」

とちょっと戸惑ったように言いかけた瑛里さんのそばに早足で歩み寄った。

もう止められない、思い切り彼女を抱きしめていった。

「会いたかった…。すごく…」

俺の胸の中で、瑛里さんが小さな声で

「わたしもよ…」

といったのが聞こえた。

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