第3話 彼女に会いたい

 環境が変わればすぐに忘れられると思ってた。俺の瑛里さんに対する思いは、憧憬のようなものだろうから、時間がいい思い出に変えてくれると思っていた。


 ※※※


「工藤くん、これ教えてくれない?」

同期の吉沢香奈がパソコンの画面を指していう。またかと内心俺は舌打ちをしたが

「はいはい、どこですか」

といって吉沢の席まで移動していく。営業事務の吉沢は、見積書発行システム画面を指さしてここがわからないという。

「マニュアルは?」

俺は、まず基本的なことをいう。吉沢はちょっと驚いたように

「えっ、マニュアル…って?」

「いや、だからさ、マニュアルもらってるじゃん。ここに配属されたときにさ、木村先輩がマニュアルくれたじゃん。俺だってもってるぜ、ほらこれ」

俺は、支給された自分のマニュアルを見せる。

「えっ、あっ、そうね、もらったわね。」

吉沢は、慌てふためいて引き出しの中を探る。

無くしてはいなかったようで、引き出しの中からマニュアルはでてきた。表紙はよれていたが、中は一度も開いたことがないくらいきれいだった。もちろん、マーカーも引いていなければ、メモなど書き込みの後もない。俺は、それを受け取り、見積もり作成に関するページを開けて、

「この通りにやればでるよ。俺たち新人は、作業する際は必ずマニュアルを見ながらやれって言われただろう?」

「そっそうだけど、工藤くんに聞いた方が早いし…。」

「それに、わからないことが出たら、指導担当に聞くように言われただろう。俺が教えたらいけないんだ。間違って覚えてるかのしれないんだからな。だから俺に聞かないで、吉沢の指導担当に聞け」

それだけいうと、俺は自席に戻り自分に与えられた作業を続けた。

 指示された仕事ができたので確認を指導担当にお願いした。俺の担当の高井主任は、俺が渡した書類と対応するシステムの画面を見比べながらいった。

「確認する間少し休憩しろ、10分ぐらいはかかると思う。それから、先刻の吉沢への対応はあれでいい。お前が下手なことを教えたら俺が彼女の指導担当から嫌みを言われる。」

「わかりました。」

俺は、短く答え、ありがたく休憩を取らせてもらうべくカフェコーナーに向かった。


 ※※※


 8月お盆前の金曜日、池袋のデパートの屋上に開設されたビアガーデンに同期6人(男4人、女2人)が集まった。部の同期納涼飲み会だが遅れて席に着いた俺はそこに吉沢がいないのをみてほっとした。俺の顔を見て察したのか同期の伊藤美奈が

「大丈夫、吉沢さんは来ないわよ。屋上ビアガーデンなんて親父くさいところはお嫌なんですって」

とクスクス笑いながらいった。

「ああ、そっか。はぁ…」

「もっとも、工藤くんが来るなんて言ってないというのもあるんだけどね。」

あからさまに嫌そうな表情で高田綾がいう。女性陣は、俺が吉沢に辟易しているのをよく知っている。

「工藤は、潔癖だよな。吉沢みたいな美人にベタベタされるんだから、もう少し優しくしてやってもいいだろうに。」

田中正のお気楽発言に他の男二人はうんうんと頷いている。それに対して俺が文句を言おうとしたら、

「わかってないわねぇ。吉沢さんは工藤くんのタイプじゃないのよ。そして工藤くんは、どうでもいい女性からのアプローチは鬱陶しいひとなのよ。」

高田が、田中達に向かって諭すようにいった。

俺は、高田の発言に驚いたが、すぐにその通りだと大きく頷いた。

「吉沢がタイプじゃないというなら、どんな女性がタイプなんだ?」

興味津々で柴田篤志がいう。ビールを一口飲んだ俺は、

「タイプ…、それはよくわからんが、何にせよ、与えられたことに対して真摯に対応する姿勢がとれる女性がいい。」

心の奥に、そんな女性の面影が浮かぶ。それを聞いた同期5人は、

「それは、吉沢さんじゃあないよね。」

と言わんばかりに納得したように頷いた。


  ※※※


 11月も中旬になるとすでに街は、クリスマス一色だ。いつもの同期会が終わり、俺は、同じ路線の高田と駅に向かっている。高田とは、同期会以外にも休日に映画や美術館などにも何回か行った。彼女といると楽しかった。見たい映画、読みたい本、食い物の好みもあったし、高田の社内での仕事に対する姿勢を好ましくも思っていた。

 だから、このまま行けばクリスマスを一緒に過ごすことになるであろう女性は高田綾ではないかと思い始めていた。そこで俺は、クリスマスまで後、1ヶ月と少しの今、クリスマスの予定を聞こうとした。

「なぁ、高田、クリスマスって…」

空いていると続けようとして、高田の向こうに歩いている人に目が釘付けになり言葉を続けることができなかった。

 心臓がドクンと音を立てた。あれは、あれは、瑛里さん!

 心臓がバクバク打ち始めた。傍らにいる高田が何かいっているが心臓の音が五月蠅くて聞こえない。足が知らないうちに、瑛里さんに向かって踏み出していた。

 次の瞬間、すぅっと頭が冷えた。瑛里さんに見えた人は、全く別人であることがわかったからだ。

「くっ工藤くん…、どうしたの?」

戸惑うように高田が俺を見る。

「あぁ…、いや、ごめん。」

それ以上は、何も言えなくなった。

「行こう。」

俺は、高田を促して駅に向かった。電車に乗ってもずっと無言を通した俺に高田は不思議そうな顔を向けたが、何も言わなかった。

 家に帰るとスマホを取り出した。アドレス帳を出して、瑛里さんのアドレスをじっと見つめる。駄目だ、やっぱり駄目だ、忘れられない。会いたい…。彼女に、瑛里さんに会いたい…。

 しかし、ヘタレな俺は、瑛里さんにメールすることはできなかった。

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