夜の騎士

ナム

プロローグ はじめて授業を真面目に聞いた日

 野中学園高校1年Cクラス6時間目。その日最後の授業、生徒たちの集中力がすっかり切れてしまう頃。

 倫理の授業の冒頭に、事件は起こった。

「お前たちはセックスが好きだろう」

 倫理の教師は無表情に言葉を発した。

 数学の内職を始めていた優等生が、反射的に背筋を伸ばす。

 昨日テレビで見たコントの再現を試みていた3人組が、仲良く椅子から転げ落ちる。

 体育会の女子生徒は、遮蔽物として立てておいた教科書を、咥えていたホットドッグで弾き飛ばしてしまった。

 そしてクラスメート全員が、教壇に立つみすぼらしい中年男を凝視する。教室を沈黙と静謐が支配した。しかし生徒たちの心は、これから語られるであろう言葉への期待と不安に、激しくざわめききっている。

 平凡な一高校生に過ぎない鈴木貴志も例外ではなかった。自称、普通。友人たちに言わせれば人畜無害、にじみ出る無力さから『ヒツジ』とあだ名をつけられている彼だって、その4文字のブラックホールが持つ吸引力には抵抗できないのだ。

「人は快楽のために生きる。では快楽とは何か? お前たちにとってはおそらく、それはセックスである」

(聞き間違いじゃない−−確かに先生は、セックスの話をしている!)

 倫理は "無視していい" 科目だった。通常、野中学園の授業は、真面目に授業を聞く者と聞かない者が半々に分かれるが、倫理の授業では全員が授業を聞かない。貴志も同様、持ち込んだ「夢判断」を読みふけって50分間を過ごすつもりだった。彼にとって苦痛の連続でしかない高校生活の中で、倫理を始めとする一部の科目は、自分の世界に篭ることが許される命の時間、砂漠のオアシスのような存在だったのに。

「だがセックスは最終的に、人を不幸にする。お前たちが3人ほど経験した時、気付くだろう。物語のような恋愛、アダルトビデオのようなセックスは、虚構であり、馬の目の前に吊るされたニンジンだ。どれだけ求めても、焦がれるだけで永遠に手に入らない。そして求めれば求めるほど、身持ちを崩し、お前たちの評判を落とし、居場所を失わせる」

(ひょっとして教科書にそう書いてあるんじゃ……?)

 そう思わせるほど、倫理教師は淡々と言葉を流し続けた。眠そうに半分閉じた目で、教科書をパラパラめくりながら話している。だがその言葉は、貴志の入学以来、最高の集中力でもって生徒たちに迎えられていた。ある生徒は単語の出現回数を数え、ある生徒はビデオ撮影を開始し、何人か心当たりのありそうな生徒が、うつむいて顔を上げなくなった。

 貴志は記憶を辿る。倫理の丸木戸先生は、こんなことを言う人だったっけ…? 高校1年生も2学期に入り、クラス全員、学年全員もそろそろ顔と名前が一致しそうなくらいには慣れてきたが、それでも、丸木戸が副担任を務めるこのクラスの生徒でさえ、彼の名前を覚えていない者がいる。それほど影が薄いと評判の男だった。無口で、誰とも目を合わせず、廊下の端をうつむいて歩く、誰も授業を聞かない、丸木戸先生……その口から、こんな危険極まりない言葉が!

(いや、そもそも普通、先生は学校でセックスの話をしない!!)

 一方、丸木戸は、異常事態に盛り上がる生徒たちを全く気にかけていなかった。

「快楽を超えるもの、それは "魂の平和" である。それが仏教の概念と考えて差し支えない……では1章から読んでいく」

 いつもの丸木戸らしく、教科書を経典のように唱え続ける授業に戻ってしまった。しばらく、生徒たちは衝撃的な言葉を期待し注意深く聞いていたが、次第に一人、また一人と聞くことをやめ、クラスの空気はいつもの状態に戻っていった。

 貴志はつい、その日の授業を全て真面目に聞いてしまった。「魂の平和」という言葉が、彼の心に深く刺さってしまったのだ。

(魂の平和……セックス……魂の平和……セックス……)

 その日は帰宅してからも、刺激的な妄想が膨らむのを止めることができなかった。魂の平和には程遠い。今日の夢見は凄いことになりそうだ。

(夢の中くらい、平和であってほしい……)

 貴志はとても久しぶりに、夜を憂鬱に思った。平和がどんどん奪われていく。完全に不可侵で、貴志が一番幸せでいられるはずの「夢」の中にまで、望まないものが侵食してくるのは、彼にとっては死ぬことと同じくらい辛いことだった。

 波立つ心を落ち着かせようと、ベッドに寝転がって目を閉じた時、ある可能性に思い当たった。

(ひょっとしたら先生が変なことを言い出したのも、「魂の世界」の影響なのかも……)

 昨晩、"プリエステス" がそんなことを言っていた気がする。「魂の世界」に心を奪われると、日常生活に支障を来たすとか……

 今日のことで倫理の丸木戸は、あだ名が「AV監督」になってしまった。貴志だったら死んででも拒否したい不名誉だと思う。普通に生きていて、そんな恐ろしいことは起こりえるのだろうか……? 何らかの異常な力が作用した可能性は否定できない。

(丸木戸先生、いつも「心ここに在らず」って感じだもんな……)

 そこまで考えて、自分の思考がすっかり常識はずれになってしまったことに気付き、貴志はマットの上をのたうち回った。

 昨日の夢が、言葉通り、夢であってくれたらいいのに。魂の世界での抗争とか、人類の夢を守る戦いとか、そういうものは空想の中だけで良かった。本当に、僕を当事者にしてくれる必要はなかったんだ。僕にその責任は重すぎる。

 貴志は机上のノートを開いてみた。彼の期待に反して、ノートにはこう書かれていた。

「騎士の心得その1 常に平常心」

 間違いなく、自分の筆跡だ。貴志は深くため息をついて、頭を抱えた。僕は騎士になってしまった……魂の世界に平和を取り戻すため、戦わなくてはならないのだ。

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夜の騎士 ナム @hyohyotei

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