担当医の石塚先生
以前は嗅ぎ慣れていたはずの病院の独特の匂いも、久しぶりに訪れたらなんだか懐かしく感じる。もっとも病院なんて、来ないに越したことはないんだけどね。
今日は月に一度の検査の日。長らくコールドスリープしていたから、体に何か変化がないか、定期的に調べているのだ。と言っても、体調は極めて良好。検査なんてしなくても、何も問題無さそうな気はするんだけどね。
「特に問題はありませんでした。体調も良好で何よりです」
そう言ってくれたのは、私のコールドスリープを担当してくれていた、石塚先生。現在五十代だの男の先生だけど、なぜか私が眠る前の三十代後半の頃と見た目が全く変わらないと言う驚異の人だ。白髪ひとつ無い黒々とした髪と、ほとんどシワの無い引き締まった顔は、三十代前半を思わせる。
「前から気になっていたんですけど、先生ってコールドスリープをどうにか使って、若さを保ってません?」
「ははっ、そんなことができれば、コールドスリープはとっくに美容業界が目をつけてるよ。僕が年齢より若く見えると言うなら、それは日々の健康管理の賜物だろうね」
とてもそんな答えで納得できる範疇ではないのだけど、本人がそう言っている以上認めるしかないのだろう。
「さて、体の方は問題ないとして。棘ちゃん、日々の生活は上手くいってるのかい?学校や家では、何か困ったこととかは無い?」
「お陰さまで順調です。学校でも、最近は喋れる人ができましたし」
「本当かい、それはよかった。コールドスリーパーの多くは、起きた後は体調以上に、周りの変化についていけないって人が多いからね」
それはよくわかる。先生にはああ言ったけど、事実私も馴染めているとはいえなしい。だけど、お母さんに会えば何かが変わるかもしれない。
「そういえば先生。私が眠ってからしばらくの間は、お母さんが様子を見に来てくれてたんですよね?」
「しばらくの間?棘ちゃんのお母さんなら、最後までずっと様子を見に来てたよ」
「幸恵さんじゃなくて、本当のお母さんの方です」
「あ、ああ。そうだね、経過報告の無い時も、度々君の顔を見に来ていたよ」
コールドスリープしている間は、コールドスリーパーの身内には定期的に状況が報告される。眠る前お母さんは、いつでも顔を見に来るからと、笑顔で言ってくれてたっけ。
「お母さんって、どんな様子でした?目が覚めてから会えてないんですけど、私の事で何か言ってませんでした?」
「う~ん。ごめんね、僕から話せるようなことは無いかな。棘ちゃんは、お母さんに会いたいのかい?」
「はい。ずっと迷惑をかけてましたから、ちゃんとありがとうって言いたいって思っています。けどお父さん、何も教えてくれなくて」
せめて電話で話すくらい、許してくれてもいいのに。そもそも昔は私の世話をお母さんに丸投げだったのに、どうして今は親権がお父さんにあるのか?まずそこから分からない。
「お母さん想いなのは良いことだよ。そういえば、新しいお母さんとは、上手くやっているのかい?最初に話を聞いた時は、随分驚いていたけど」
「……たぶん」
たぶん、上手くやっているとは言えないという意味だ。いや、たぶんでもないか。会話らしい会話も無いし。
いきなり病室に見知らぬ女性が現れて、お義母さんだよって言われた時は、軽いパニックを起こしたものだ。あの時は、先生にも迷惑をかけた。
「十四年も眠っていたんだから、驚くことや受け入れ難い事はいくらでもあるだろう。けどね棘ちゃん、『今』が君の生きるべき時間なんだ。せっかく手にいれた健康な体は、これから充実した人生を送ることで初めて意味を持つんだよ」
「だから昔と変わっていても、それを受け入れなきゃいけないってことですか?」
「そうだね。でもすぐに全部を受け止められないのは仕方がない。少しずつ馴染んでいけば、それでいいんだよ」
愛嬌のある顔で笑う石塚先生。
それはよくわかっているけど、今と向き合うことと同じくらい、過去と向き合うことだって大切なはずだ。だから今日、行動を起こす。
「色々ありがとうございます。次の検診は、また一ヶ月後ですよね?」
「そうだね。だけどもし何かあったら、いつでも来るといいよ。体のことだけじゃなくて、生活の中で困ったことが起きた時なんかもね。僕はいつでも力になるから」
石塚先生は昔から優しく、辛い時や不安な時は、いつも支えになってくれていた。この人が私の担当医で、本当に良かったと思う。
「大丈夫ですよ。きっと、上手くいきますから」
それは先生に言うと同時に、自分にも言い聞かせるための言葉。先生にも秘密だけど、これからお母さんに会いに行くのだ。
不安を打ち消すように、さっきの言葉を心の中で繰り返す。上手くいく、きっと上手くいく。何度もリピートしながら、私は診察室を後にした。
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