15分経ったら
「新美南吉……ごんぎつね」
土曜日の昼下がり。あたしは我が家のリビングで一人、手にした本を見下ろしてため息をついた。
この前図書館に行ったのは、宿題の感想文を書く本を選ぶ為だったのに。
(コレで書くしかないかぁ……)
あの時、虎汰くんが本棚から抜き取った一冊がこの『ごんぎつね』。それをなんとなく彼から受け取り、そのまま逃げるように家へ持ち帰ってしまった。
(ごんぎつねも近代作家のだもんね。図書館には当分行きにくいし……)
今でもあの時のアレコレを思い出すと、呼吸困難になるくらい動揺してしまう。
あたしはソファから虎汰くんの部屋のドアを見つめて、本日二度目のため息をついた。
(本気……なのかな。あたしの黄帝になりたいって。でも)
次に己龍くんの部屋に視線を巡らす。
(虎汰には気を許すなって、どういうことだろう)
二人は今日、lovemyの撮影があるとかで朝から出かけている。いつもは自宅のパソコンで仕事をしているという煉さんも、クライアントとの打合せに行ってしまった。
この家で一人きりになるのは初めての事。なんだか広くて静かで、心細い。
「ダメダメ、九天玄女がこんなヘタレっ子でどうするの。もっとキリッとピシッと!」
……いや、そもそも九天玄女娘娘って、そんな偉いものでもなんでもない。
(現代まれで不思議すぎる存在ではあるけど、自分的にはただメチャクチャ変でやっかいな体質ってだけ。なんの役にも立たないし)
自虐的に我が身を分析したその時、玄関のドアが開く音が聞こえてあたしはキョトンと目を瞬かせた。
(あれ、もう帰って来た? 煉さんかな、お仕事の打ち合わせが終わったんだ)
リビングのドアに視線を流すと、入ってきたのは。
「え、己龍くん! 撮影に行ったんじゃ」
「俺は終わった」
それだけ答え、己龍くんが自分の部屋に入っていく。
「……そうですか」
本当に彼は言葉数が少ない。と言うより、あたしとの会話のキャッチボールが成り立たないのだ。何を聞いてもイエスかノー、それだけ。
(ちょっと寂しい……)
するとバン!と勢いよく部屋のドアが開いて、彼がリビングに出てきた。その手にはバスタオルが握られている。
「シャワー使う」
「ど、どど、どうぞ……」
「15分経っても出てこなかったら、……拾いに来い」
「は? 拾うって、あの何を……?」
それには答えず己龍くんはなぜかヨロヨロと、リビングを横切ってお風呂場のある廊下の方へと消えてしまった。
説明が足りなすぎるよ! と言いたいところだけどお風呂に追いかけて行くわけにもいかず、あたしは首を傾げるばかり。
(仕方ない。よくわかんないけど、15分待つしかないな)
あたしは携帯のアラームを15分後にセットして、ごんぎつねの物語を読み始めた……。
――そして15分後。
(ああああ……作者さん、なにもごん殺さなくったって……。生き返ったりしないかな。そしたら今度こそきっと仲良く……!)
ピピピピピピとアラームが鳴り、あたしはごんぎつねの世界から呼び戻された。でも己龍くんがお風呂から出てきた様子はない。
(言われた時間になったけど。何を拾えばいいんだろう?)
とは言え、男の子が使用中のお風呂場まで押しかけてそれを問いただすのもどうかと。
「困ったなぁ。拾いに来い? 拾う……拾う……。だめだ、ちっともわかんない」
そうこうしてるうちに、20分経ってしまった。なんの行動も起こせない事に、焦りが出てくる。
(どうしよう、後で怒られるかな。たぶん無言であの怖い目がギロッと)
ゾワワと背筋に悪寒が走った。それはかなり嫌かもしれない。
(や、やっぱり聞いてみよう! 外からちょっと声をかけるだけだもん。いいよね)
あたふたと立ち上がり、あたしは廊下の先のバスルームに向かった。そして使用中のプレートが掛かったドアをノックしてみる。
「己龍くん……あの、時間になったけど。何を拾えばいいんですか?」
中の脱衣所から返答はない。でも、微かにシャワーの音が漏れ聞こえて来る。
そろそろとドアを開けて、脱衣所をのぞき込んだ。そこにはやっぱり彼の姿はなく、奥のお風呂場の硝子戸は湯気で曇っている。
「あ、あのっ、己龍くん! あたし何を拾えばいいの? もう20分くらい経ってるよー」
止むことのないシャワーの水音。中にいるのは間違いないのに、彼は何も応えてくれない。
首を傾げていると、ポケットに入れてあったスマホがピロン♪と音を立てた。
(メール? あ、虎汰くんからだ)
【ゆあ、己龍が先に帰ったけど、バカみたいに熱出してるから近寄らないでね。うつると困るから】
(え……ええっ!?)
ピロン♪
【ボクも気が付かなかったけど、昨夜からしんどかったみたい】
「ちょ、熱って」
私は慌てて、まだシャワーの音がするお風呂場の扉を叩いた。
「己龍くん! 熱があるんでしょ? そんな、いつまでもシャワーなんか浴びてないで早く部屋で休みなよ。己龍くん!」
それでも返答は無し。
なぜだろう、嫌な予感がする。胸の奥底から這い上がってくる、一刻を争うようなザワザワとした予感。
「……開けてもいい!? そこに居るんだよね? べべべ、別に見たいわけじゃないけど! でも男の子だし見られてもいいでしょ!」
はっ! あたし見る気満々じゃん!
「ち、違うの! なんか嫌な予感が、えと、とにかく……いただきます!」
思い切って硝子戸を押し開けると、湯気がポワッと溢れてきた。白く霞む視界に広がったのは、いつもの浴室にバスタブ、そしてフックに掛かった出しっぱなしのシャワーノズルだけ。
「え……己龍くん、いない」
辺りを見回してもどこにも見当たらない。シャワーを出したまま一体どこへ、いつの間に出ていったのか。
ごんぎつねにつままれたような心持ちで、あたしはそろそろと裸足で浴室に入り、取りあえず無駄に流れ続ける温水シャワーを止める。
「どういうこと……? 己龍く……」
その時。視界の端っこ、かなり下の方でナニかがわずかに動いた。
(ん?)
反射的に足元に目を落とし……あたしは一瞬、事態が把握できずに立ちすくむ。
「ひ……っ! き、己龍、りゅううぅぅぅ! あああダメダメえぇぇえーー!」
排水口の飾り穴に、お湯と一緒に引き込まれていく細長い尻尾。蒼くてウロコが付いてて……ちょこっと手足がついてるけど、頭はもう先に穴の中!
「わああ、流れちゃうぅぅ!」
パシッと尻尾の先を掴み、あたしは吸い込まれていく青龍を必死に救出。排水口から引っ張り出して、ピロロンと伸びきったやけに小さな龍を手の平に乗せた。
「己龍くん、大丈夫? 気を確かに! 生きてる!?」
呼びかけても返答はなくピクリとも動かない。
どうしよう、どうしたらいい? こういう時は何をするんだっけ!?
「きゅ、救急車……! 違う、動物病院!? え、龍って動物でいいんだっけ!?」
オロオロと彼をタオルで包み、それを持ってあたしは浴室から飛び出した。
「そうだ、蘇生処置! 心臓マッサージを……って、龍の心臓ってドコ!? ここ? この辺? ココ!?」
裏返して(仰向けとも言う)白っぽい胴体の真ん中辺りを、ぷにぷにぷにぷにぷぷにぷに……!
「……うるせぇよ。生きてるからヘンなトコ押すな」
ピタッとビクッと、己龍くんをぷにっていたあたしの指先が止まる。
「耳元で騒ぐな、頭が割れる。……つか、来るのが遅ぇ」
伸びていた胴体がシュルルンと丸まっていく様子に、あたしは思わずヘナヘナと座り込んでしまった。
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