1680円と、ここなッツクッキー
柔らかな感触、甘いグロス。
くらくら、くらくら、マヒした頭と心が回る。
今、あたしのファーストキスを確信的に奪っているのは、ファッション誌から抜け出したような超絶可愛い……女の子。
(どうしてこんなコトに? この子いわゆる百合っ子? でも彼氏いるんだから両方オッケーなやつ……!? この街はそういう方々がウヨウヨしてるの? 野放しなの放し飼いなの!?)
東京ジャングル、やはり恐るべし――!!
「あは。なんか可愛いー……。でもどうやらホントに当たりみたいだ」
いつの間にか唇は離れ、ベビードールのお顔も離れていく。
「ごめんね。ちょっと確かめてみたかった」
いたずらな瞳で彼女があたしの唇に移った口紅を指先で拭ってくれる。
「……あり、がと……」
あ、またお礼言っちゃった。
「おかげでだいぶ楽になったよ。じゃあ行くね、己龍が騒ぎ出す前に。アイツ怒ると怖いんだー」
確かに彼女の顔色は打って変わって色つやが良くなってる。反対にこちらは……たぶん蒼白でカウチに座り込んだまま。
それを置き去りに、彼女は極上の笑顔で手を振って颯爽とパウダールームから出ていく……。
――その残像が、デジャヴのようにイキナリあたしの記憶を掘り起こした。
(んん……? 今の感じ、どこかで……)
アッシュグレイのふわふわロング、片手を上げて可愛らしくポーズを取って微笑む彼女がはっきりくっきりと脳裏に浮かぶ。
(あ……あの子、ここなちゃん!
(いやあぁ! なんで気が付かなかったんだろ!? 芸能人だ、生の芸能人に会っちゃった!)
今思えば、最初からどこかで見たことがあるような気はしてた。でもまさかホントにファッション誌から抜けだしていたなんて!
あたしはバッグの中から、そのLovemy最新刊を取り出してページをめくった。
「いた! いる! やっぱりあの子だ!」
たくさんのカラフルなバルーンに囲まれて、彼女がさっき別れ際に見せたのと同じ笑顔で写っている。そのページの下には、Coconaの文字が。
そしてあたしの手が、メンズファッションのコーナーでピタリと止まった。
グレーの無機質な背景の前で、こちらを睨むようなクールな表情でポーズをキメているイケメンは。
(あああ、さっきの男の人! 名前……
なんて事だ。二人ものゲーノージンに会えただけでなく、お話して、手を掴まれた。そして……!
(はっ!? なんか浮かれちゃったけどあたし、ここなちゃんに)
ウ・バ・ワ・レ・タ……。
はぁーっと長いため息と共に、あたしはカウチに両手をついて肩を落とした。
(彼氏ができたらしてみたかった事ナンバー1……。よりによって女の子に、百合っ子モデルに奪われた……)
とは言え軽いオフザケのノリだったような気もする。何より女の子同士なんだから、これはファーストにカウントしなくてもいいのでは?
(忘れよう……。今日はlovemyのここなちゃんと己龍くんに会えた。会ってお話した。日記にはそれだけを書いておこう)
頭の中がぐちゃぐちゃだ。興奮と戸惑いとやるせなさと。
わかったのは、やっぱり東京ってオソロシイ所だという事。
(でもホントに生ここなちゃんは可愛かった。己龍くんもカッコ良かった……)
ヨロヨロと店内に戻ってもあの二人の姿はもうない。まるでさっきの出来事が夢だったかのように、何もかもがごく普通に目に映った。
(なんか疲れちゃった……。買い物はやめてまっすぐ下宿先に向かおう。荷物もほどかなきゃいけないし)
新生活に必要な物はすでに下宿先に送ってある。お父さんは仕事があって来られなかったので、お世話になるお宅にはあたし一人で向かわなければならない。
少し不安だけれど、きっと大丈夫。
よし、と気を取り直して一歩踏み出した時、さっきのウェイトレスのお姉さんがススッと近づいてきた。
「お客さま、お待ちください」
「え? あ! すいません。今レジに行こうと」
長く席を立っていたから不審に思われたのかもしれない。ところがお姉さんはニッコリと微笑み、あたしに顔を寄せて声をひそめた。
「いいえ、お客様のお代はもう頂いております。ご迷惑をかけたお詫びにと……、
みやしろさま? ご迷惑って……。
「あっ……! あ、あの人が払ってくれたんですか? 1680円も!?」
「消費税込みで1815円です。それからコレを」
お姉さんが手に持っていた可愛いセロファンの小袋をそっと差し出す。
「……ココナッツクッキー?」
袋の口に結ばれた白いリボンに、そう書かれた小さなカードが挟まっている。
「こちらはここなさんから。当店の人気商品なんですよ。『これを食べる度に私の事、思い出してね』と伝言して欲しいと」
「…………」
透明なセロファンに包まれた、キスチョコみたいな形のクッキーたち。
なんだろう、この気持ち。
自分でも見ないようにしてギュッと蓋をしていたものが、急速に膨れ上がっていく。
「……東の空が、明るくなったんです」
手の中のクッキーに目を落とすあたしの口から、勝手に言葉がこぼれる。きっとお姉さんは眉をひそめているに違いない。
「だから東京にきました……」
誰にも受け入れてもらえなくて地元に居づらくなって、仲良しの友達ともお別れして。本当は不安で胸が潰れそうになってる。
「おごってもらったからじゃなくて。ただ東京に来て初めて、あたしなんかを気にかけてもらえた。それが嬉しいんだと思います……」
だから緩んでしまう。頑張って蓋をしていたものが溢れてしまう。
……泣いてしまう。
「美味しいものとか、流行りの服とか。気持ちが上向きになれそうなものに気持ち持って行かないと……ダメなんです」
田舎にいたら彼氏ができない、そんな理由でここに来たんじゃない。
あたしは、あたしをやり直すために東京へ。本当に何かに呼ばれたような気がしたから――。
「……正しいと思いますよ。元気になれる何かを探す事」
お姉さんの声が静かに穏やかに降り注ぐ。思わずあたしは、泣き濡れた顔を上げた。
「あのお二人がお忍びでいらした時は、いつも奥の個室にご案内するんです。次にお見えになったら、お客様の元気の元になったようですとお伝えしておきますね」
それを伝えてもらえたら、すごく嬉しい。
「……フレンチトースト、めっちゃ美味しかったです。お小遣いを貯めて絶対また来ます」
「ぜひ。お待ちしております」
深々と頭を下げたお姉さんに見送られ、あたしはお店を出る。己龍くんの気遣いと、ここなちゃんのクッキーを胸に抱いて。
歩道には人が波のように溢れていた。これにうまく乗るのはまだまだあたしには難しそうだけど。
(でもやっぱり、東京って素敵かもしれない)
駅に向かって歩きだしたあたしの足が、だんだん速くなっていく。なんだか身体が軽くて気持ちが浮き立って、走り出さずにはいられない!
(笑って、夕愛! きっと幸運のちょうちょが飛んでくる。それをここで、トーキョで捕まえるんだ!)
駅に飛び込み、きちんと路線案内を確認して切符を買う。
(ほら、ちゃんとできる。慣れたら電子マネーとかにするのもカッコイイかも)
そしてピッと背筋を伸ばして颯爽と乗り込んだ電車は、行き先とは反対の方向に向かって静かに滑り出した……。
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