〇〇は犯人ではない

 妹が高らかに宣言したあとは、長い沈黙があった。俺はその言葉の威力によろめき、後ろに一歩下がってしまう。今まで積み上げてきたトランプカードのタワーのように不安定だが考察としての形を成している俺の仮説は、その一言によって今すぐにでも崩れそうなほどぐらついていた。


「そ、そんなわけ……」


 震える口を動かし、腹の中から絞り出したような声を出す。玲奈の目は、平然として俺を見つめていた。


「これは絶対だよ」追い打ちをかけるように妹ははっきりと断言した。「事件発生から今までの、あちこちを歩き回って得た分析結果をもとに考えるとどう考えても和田さんが犯人であるわけがないんだ」

「そんなこと、いったいどう考えたら分かるんだ……」

「まず人物像から考えてみて。事件当日は一年中でも稀な、体育館にいる人間が少ない日だった。本来なら六つある館内の部活動が二つだけと、居残り勉強会……。これはだいたい学内の人しか知らないことだし、もし和田さんが犯人ならば、何度も帝国高校に来てこの情報を手に入れるための動きがあるはずだよ。なのに彼がしたことといえばせいぜい月に一度、佐々木さんに会うため体育館の入り口で彼女を待ち、それからなにもなければゲームセンターに向かうだけだった。そんな人が、事前に計画を立て表面上は完璧な殺人事件を構築できると思うかな?」

「だけど、偶然知ったってことも……」

「うん。偶然その情報を知ったという可能性もあるよ。それに彼が犯行を起こした日が、本当に偶然が重なってその日だったという可能性も微小だが存在する。だけどね、殺人現場には偶然という不確定な言葉で説明することができない、確実になにかが介入しなければそこにあるはずもない要素が一つ転がっていたよ」

「偶然じゃありえないものだと?」

「小笠原さんのメガネケースだよ。もし部外者である和田さんが犯人だったら、いつ彼女のカバンの中からメガネケースを盗むことができるの? 自分を犯人じゃないように偽装するためだとしても、まさか生徒会室で活動している役員たちの目を欺いてメガネケースを盗んだというの? そんなリスクを背負うくらいなら別の偽装方法を考えたほうが安全なことぐらい誰だって分かるさ」

「じゃあ和田は部室で何を見たんだ?」

「佐々木さんの死体だよ」


 恐ろしく感じるほど妹はきっぱりと言った。


「じゃ、じゃああいつはなんで黙っていたんだ……」

「見た目というのはとても大事でね。ああいう人は、今までの経験から自分がなに言っても信用されないって知っているの。だから下手なことを喋りたくなかったんだよ」

「そんな……」

「犯行は和田さんが部室に入る前に起きたんだよ。彼は犯人じゃないんだ」

「け、けどっ……、俺にはまだ納得できない……。メガネケースも、間違えてバスケ部の誰かが自分のと小笠原麻衣のを入れ替えて持ってきたことだってありえなくはないから……」

「それはつまり、小笠原さんのメガネケースはこの事件に関係ないことだと兄さんは決めつけているということ? そのバスケ部の誰かはわざわざ小笠原さんのカバンの中から自分のメガネケースと入れ替えたっていうの? なんの理由があって? そしてなんでそうまでしたのに部室に置き忘れちゃっているの?」


 玲奈は容赦なく質問を叩きつけてくる。


「そ、そういうことじゃないけど……、なんていうか……、それさえ無ければきちんと説明できるから……その……」


 なにも返す言葉がない。そもそも俺はなぜこうまでして意地を張り続けているのだろうか。もしかしたら和田克幸という人間を見て、こいつが犯人なんだろうという想像だけが勝手に前に進み、そして自分の考えを正当化させようと彼が犯人でないという理由を頑なに受け入れなかったのかもしれない。だから、こんなあやふやな答え方しかできなかったのだ。

 すると妹は真剣な顔をしてこう言った。


「見たくないものから目をそらすのは悪いことじゃないよ。けど、見なくてはならないものすら見ようとしないのは愚かだ。この事件とメガネケースは切っても切れない関係にあるんだから、それを直視しないと」


 玲奈は、中学三年生とは思えないほど強く鋭い目をしている。それこそ、私の意見を聞き入れたほうが正しいという言葉を、目で訴えてきているようだった。 

 小さな歩道には俺と妹以外誰もいない。四月の夜の寒さも感じず東京の雑音も聞こえず、この空間だけが別世界にいったかのような静かな緊張感が生まれていた。


「じゃあ一つ、もしもの話をしようか」


 最初に自身の緊張を深呼吸で解した玲奈は、どんよりした雰囲気を断ち切るため両手をパンっと叩き、もしもという言葉を強調して言った。


「もし兄さんが……そうだね……、じゃあもし兄さんが東京駅で女の子の下着を盗撮したいと思ったとするね」

「ななな、なに言ってるんだ?」


 さらっと言われた妹の言葉に、度肝を抜かれて声が裏返る。さきほどの重い空気の反動でいつもより倍の高い声が出た。

 妹は、たまにとんでもないことを真顔で言う時があるが、今のは過去一の爆弾発言だった。


「これはたとえ話だから真に受けないで」


 しかし鉄仮面は今の発言に躊躇うことなく人差し指を俺に向けて制した。その格好には、相手を黙って聞く側に回す不思議な圧力のようなものがあった。


「それで……。今、兄さんは家の中にいて、ふとしたことから女の子の下着を盗撮しにいこうと考えたの。じゃあその時、兄さんはまずなにをする?」

「え、なにって……」しょうがなく俺は玲奈に合わせて真面目に考えることにした。「まずはとりあえず動画を撮るためのスマホを持っていくよな……、あとマスクと帽子とサングラスを身に着けて、なるべく目立たないように暗めの服を着るんじゃないか」

「それだけ身につけていたら十分目立つけど……。でもそう。もし盗撮をするなら撮影道具を持っていくのは当たり前だよね」

「そりゃな。普通、駅にカメラとか売ってるわけないし……。近くに家電量販店があるかもしれないけど、どーせ撮影道具を使うのなら慣れたものを使うに越したことはないし……。あと、万が一バッテリーが切れたときのためにもモバイルバッテリーも携帯しておかなくちゃな。あとは……、なるべく指紋を残さないように手袋も必要か……」

「もう盗撮の話はどうでもいいよ……」妹はやれやれといったように頭を左右に振って、先をつづけた。「それじゃあ殺人事件の話に戻るけど、今から恨むべき人間を殺しにいこうとする時、犯人はなにを持っていく?」

「そりゃ凶器だろ」俺は自信たっぷりに声を出していた。「たとえば包丁とか。他にも、最近は手軽にナイフを手に入れることもできるからそれでもいいし」

「そうそう。凶器を持っていくよね。向こうに人を殺す道具がある保証なんてどこにもないから事前に自分で用意するはずだ。そしてそういうのは強い殺傷能力があるものに限る。偽装工作をするため殺害する時間は極力減らしたいだろうからね」

「そうだな……」


 ここで会話が途切れ妹から返事が返ってこなかった。

 玲奈は俺を見つめ、今のやり取りでなにか閃かないのかというような期待の視線を送っていた。


「え、えっと……」

「まだわからない? 和田さんは女子バスケットボール部の部室に行く機会が少なかったんだよ。だから、縄跳びの縄があるなんてことわかるのかな……?」


 今度はもっと優しく、保育士が園児に接するような優しい口調で、首を傾げて聞いてきた。


「そうか!」その瞬間に、頭の中の豆電球が光った。「もし和田が犯人だったら縄跳びの縄なんか使わず刃物を持ってくるはずだ。縄跳びの縄がそこにあるかわからないし……、それにもし首を締めて殺そうと考えていても、自分で縄を用意するに違いない。縄跳びの縄よりももっと丈夫で確実に人を殺害できるやつを」

「そうだよ兄さん! ほとんど花丸をあげたいくらい見事だ!」妹は嬉しそうに声を上げた。「けどそこからもう一捻りしないと。そこで終わる仮説なら、結局メガネケースが偶然落っこちていたときの和田さん犯人説を完全に潰せていないよ。もう一度現場を構築し、要素を一から分析してみて。あと一歩で兄さんはメガネケースなど関係なくとも和田さんが犯人じゃない決定的な仮説を導き出すことができるんだから」

「うーんと……」


 俺はまた頭に手を当てて目を閉じた。

 他に何があるのか……。

 思い出すんだ。あの時の殺人現場はどうだった? 女子バスケットボール部の中はどんなだったのか、佐々木明菜の遺体はどうだったのか、見つけられた証拠品はなんだったのか……。

 ぐるぐると音を鳴らしながら全ての脳細胞を働かせ、玲奈の言う最後の一歩を踏み出そうと思考を巡らす。


「んん……? だめだ。急にわからなくなったぞ……」


 やばい。なんだかくらくらしてきた……。高校の受験勉強ですらこんなに頭を使ったことはないのに……。


「んー、じゃあいいや」


 あと一歩で頭が沸騰しそうになったところを、玲奈がガスコンロのスイッチを切って冷ましてくれた。ゆっくり目を開くと玲奈の顔があって、思考以外に脳を活動させた途端、頭がちくちくと針が刺さっているような痛みが襲ってきた。

 おそらく頭を使いすぎて悲鳴を上げているんだろう。知恵熱のようなものだ。


「今日はここまでにするよ。これ以上話すとほとんどネタバラシになっちゃうしね。このあとは事件が解決したらで、まあ近いうちに話せるんじゃないかな。今はただ和田さんが犯人じゃないということだけを信じてほしいな」

「もちろん信じる。けどその言い方、お前はもう犯人が誰なのか分かったような口ぶりだな」

「当たり前だよ。私にはもう誰が犯人なのか分かっているんだから」


 この言葉の意味は一瞬にして理解できた。しかし俺はそれが本当にその意味を持つ言葉なのかということを何十回も繰り返し確かめ、そしてどうやら本当にそういう意味だったということを確認すると、相手を少し馬鹿にするよう口調で妹を咎めた。


「お前が探偵を始めたという事実を知ってから驚きの連続だったけど、いくらなんでもそれは驚きを超えてバカバカしいとしか思えないな。じゃあなんでお前は今も捜査をしているんだ? 今すぐ晋三さんに犯人の名前を明かして逮捕してもらえばいいだろ?」

「名前なんて一つの要素にしか過ぎないよ」妹はぶっきらぼうに、けれど次の瞬間自信がなくなったかのように小さく口を動かした。「私が相手にしているのは一切の有効な証拠がない殺人事件。探すべきは決定的な犯人の動機。だから私は佐々木さんの人物相関図を細かく整理して、誰が彼女を殺したいほど憎んでいたのかを一から探し出しているの……」

「おいおい。遠藤綾は痴情のもつれで小笠原麻衣は復讐だろ。他になにかあるってのか?」

「わからない……。だけど私たちはまだ、犯人がなぜ佐々木さんを殺したのか真なる動機をつかめていないようなの……」


 玲奈は、当惑して苦しそうな顔を俺に向け、すぐにも消えそうな儚い声で何度も続けた。


「いったい犯人はなぜ佐々木さんを殺したのか、その動機だけが、この暗闇を晴らす唯一の光明になるはずに違いないの……」

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