お風呂とゴキと外れたタオル

 俺たちがアパートに帰った頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。

 今日はたくさんの出来事が一斉に起こり、目がぐるぐるまわる一日だったため心身ともにくたくたになっていた。さっそく妹は風呂に入り、その交代を待っているあいだ俺は仮眠でもとろうかと安いソファの上にどしんと座ってぐったりしていた。

 しかし心が癒やされることはなかった。目を閉じると佐々木明菜の死体を嫌でも思い出してしまう。彼女の歪んだ表情や瞳、首の形がはっきりと脳裏に浮かび上がり、あの悲惨な殺人現場がまだ目の前にあるんじゃないかと錯覚してしまう。俺しかいないこの部屋がとても窮屈に感じた。

 押し寄せてくる不安をどうにか消そうと、首をぶんぶんと振ったり、全開にしたままのカーテンを閉めたり、玲奈と晋三さんが使っていたティーカップを洗い水切りかごに置いたりと、身体を動かして気を紛らわせることにした。

 よし、掃除でもするか……。

 このオンボロアパートは一般的な2DKの間取りと同じで、俺が今いるダイニングルームを軸に、それぞれの自室が一つずつ、トイレ、奥に風呂場がある洗面所が繋がった形になっている。だから掃除も楽だ。

 といっても机の上や棚の上を少し綺麗にするくらいである。本格的に始めてしまうと風呂場の中までやってしまうかもしれない。

 百均で買ったハンディモップを手に持ちホコリを払っていく。ふと机の上を見ると、そこには妹の私物があった。


「あれ、これって……」


 それは捜査の最中に玲奈がずっと持っていた手帳だった。デザインはどこにでもあるような普通のもので、付箋やらが大量に貼り付けてある。


「こんなところに置いておくなんて珍しいな」


 玲奈は普段から自分の物を自室の外に置いておかないやつだ。なのにわりと大切そうなメモ帳をダイニングルームに置き忘れているなんて。


「どんだけ風呂が好きなんだ」


 ぶつぶつ言いながら自然とそれに手が伸びた。おそらくこれは犯罪捜査に関わるメモ帳だ。死体のことを思い出したくはないけれど、俺はこの事件の真相にとても興味が湧いている。事件について玲奈がどう考えているのか気になっていた。

 とはいえ――開こうとしていてなんだが――妹にもプライバシーというものがあるため俺は後ろのページからめくっていくことにした。それなら今回の事件のメモだけを見ることができるだろう。

 最後に記された文字は案外早く見つかった。そろそろメモ帳を買い替えたほうがいいだろう。

 ページには綺麗な字でこう書かれていた。


「『LANVIN ECLAT de NUIT』と『YVES SAINT LAURENT MON PARIS』……? なんだこりゃ」


 見知らぬ英単語だ。もちろんそのままだと読めないから一文字ずつ「える、えー、えぬ、ぶい……」と声に出して読んだ。

 いったいこれはなにを表しているのだろうか。

 うーんと唸り腕を組みながら、半日を一緒に行動していた玲奈の、捜査の最中に導き出したヒントの意味を考える。

 たしか玲奈が最後にメモ帳を開いた時って……、佐々木明菜の家にあった小瓶を見つけたときだったよな。

 ではこの英単語はあの瓶の名称で間違いないだろう。

 となるとこれは化粧品の名前だ。あの棚にはそれらが大量に出てきたんだし。

 だけど、男である俺は化粧品の名前なんてこれっぽっちも知らないしな……。

 てかあの事件と化粧品のどこに繋がりがあるんだ?

 んー、さっぱりわからん……。

 などと五分くらい粘ってみたが結局その理由は一つも浮かんでこなかった。やはり俺には発想力のようなものがないのか。


「そもそもこの英単語の意味がわからなきゃだめだろ」


 そう自分にツッコんで、俺は学割と家族割を同時併用させた安いスマホをポケットから取り出す。

 八文字の暗証番号を入力して、そしてアプリを開こうとしたその時だった――。


「ぎゃあああああああああ!」


 断末魔のような叫びが風呂場から響いた。数秒も待たず、再び大きな悲鳴とともになにかの容器やコップやらが倒れ落ちる音がしてくる。


「どどど、ど、どうしたっ?」


 あまりの突然の出来事に持っていたスマホを手から滑り落として、洗面所の方へ飛んで行きすぐさま薄いガラスのドアを叩いた。そこから見えるのは、腰を抜かすように座り込んでいる黒い影。


「おい玲奈! おいっ? どうした?」

「ああ、ああぁ……」


 もはや言葉になっていない妹の呻き声。

 いったい何があったんだ。


「おい、開けるぞ!」


 俺は洗面所に続くドアノブに手をかける。

 今日見た悲劇が相重なって、まさか妹の身にもなにか起こったんじゃないかという不安が爆発的に膨れ上がっていた。

 たった一人しかいない家族の無事を確かめるために、俺は勢いよくドアを開けた。

 そこには――。


「にににに兄さんっ! ごごごごごごゴキっ! ゴキがいる!」


 バスタオル一枚だけしか身に付けていない玲奈の姿。そしてダイエット商品によくある振動マシーンよりもさらに震えている妹の指の先には、黒いアイツが床の上に堂々と居座っていた。


「ははは早く! 早く助けてえ! ひいいいぃ?」


 そうみっともなく叫んで俺の後ろに隠れる妹。さっきまで見せていた落ち着いた姿とは雲泥の差だ。

 そりゃゴキブリにも舐められるわな。


「なんだゴキブリかよ……」


 すっ飛んでいった俺が馬鹿だったと思うほどの理由に、全身の力が抜けて安堵する。

 冷静になって考えたら家の中に殺人犯なんて入ってくるわけないだろ。しっかりと玄関の鍵をかけているんだから。

 それにこいつがゴキブリを見て騒ぐのは今に始まったことじゃないし、今日の俺はいろいろと疲れているようだ。


「なんだ、じゃないでしょ。こいつらは人類最大の敵よ! 早くやっつけて! それとゴキブリじゃなくてゴキっ!」


 玲奈は俺の背中を押して急かしてくる。ゴキというのはただでさえ気持ち悪い生き物でも呼び方くらいは可愛くしようとする妹の配慮だ。

 俺は大きくため息を吐いて、洗面所に置いてある殺虫スプレーを取り出す。死骸を入れる袋や雑菌を拭き取る雑巾もここには常備してある。

 あ! あのやろう……、きちんとドアを閉めてダイニングルームにゴキブリが逃げないようにしやがった。

 こういうところは冷静に行動しやがって……。


「よし、動くなよ……」


 スプレーのトリガーに指をかけ、ゆっくりとゴキブリとの距離を詰めていく。

 ここで生活していればこいつとの戦い方はある程度心得ている。まずこの悪魔は床から飛ぶことが得意ではない。そのため、壁を伝って上を取られ飛び移られるのだけは絶対に阻止しなければならないのだ。よって速攻で片を付ける必要がある。

 次に気をつけるべきことはなんといってもスピードだろう。飛ぶことが不得意だと理解しているこいつらは、なぜか猪のように猪突猛進してくる。ゴキブリは後ろに下がれないらしい。だからこいつが今どこを向いているのかをきっちりと観察しなくてはならない。

 それに、さすが人間から嫌われているだけあってたくさんの病原菌がこいつには付着している。叩き潰すってのはもっともよくない対処法だ。菌を巻き散らかされる可能性があるからな。

 ゴキブリとの距離はもうすぐそこまで迫っていた。ヤツは触覚をこちらに向けたまま動かない。

 そして……、俺はゆっくりと殺虫スプレーを構え……、悪魔に狙いを定め……、引き金を引く!

 そういえばゴキブリに対して殺虫スプレーの効果が薄くなった気がするな。ついこの間なんてスプレーを使い切ってしまい大変なことになった。結局洗剤液をぶっかけて窒息させたんだけども、その時の玲奈のはしゃぎようはお隣さんに謝罪しなければならないほどだった。

 やつらは徐々に進化しているのだろうか。噂ではゴキブリが人間と同じ大きさになったら太刀打ち出来なくなるらしい。たしかにあんなスピードで走ってきたらどうにもならない。

 とか考えながらスプレーを噴射し続けていたら、ゴキブリの動きが次第に鈍くなって、そのまま動かなくなった。こいつは耐性の弱い個体だったようだ。

 そして後処理もぬかりなくする。メスは死んだ瞬間に卵を落とすからだ。

 そうして一匹のゴキブリを退治した後、やつが通ったところをひと通り拭き取ってミッションコンプリート。


「もう出てくんなよ」


 洗濯機の裏に隠れているかもしれない悪魔の仲間たちに警告し、ビニール袋を手に持ち洗面所から出ようとしたら先に玲奈がドアを開けてきた。


「ど、どうやら事件が起きたようね……。でもすぐに解決したわ。犯人は兄さんで被害者はゴキ、凶器は殺虫スプレーよ」


 玲奈は、幼児みたいに床を這って洗面所に戻ってくる。ゴキブリが出たときだけ見せる妹のこのさまも、捜査で目にした冷静沈着さの後だと余計おかしく見えた。


「俺を逮捕するのか?」


 俺が含み笑いでそう言うと、玲奈の顔はどんどん落ち着きを取り戻したように顔色が白くなっていく。


「きょ、今日限りは見逃すことにするよ」その場に立ち上がって、続ける。「だから次からは私が見てない時に駆除して」


 そう言い終わる頃には無表情に戻っていた。一つため息をつき。


「じゃあ早くそいつを捨ててきて。服を着ないと風邪引いちゃう」と言って歩き出した瞬間だった。


 ぱさぁ――。


「あ……!」

「…………」


 鉄仮面と目が合う。


「…………」

「……え、えっと……」


 バスタオルが取れたんですが……。


「あの……」

「…………」


 おい、なんだこの空気……。

 生まれたままの姿になった玲奈は動かない。というより固まっている。


「…………」


 炎のようにギラギラ輝く瞳は次第にぐるぐると渦巻いて、焦点が合わなくなっている。

 玲奈のこんな表情を見るのは初めてだ。りんごのように顔を真赤にさせ、全身をぷるぷる震わせていた。

 そしてゆっくりと腕を上げ。


「み……、みぃっ……!」


 拳を、振り下ろした――。


「見るなあああああああ!」


 勢いよく飛んでくる妹の渾身の一発が見事に顔面へ直撃して、俺の長かった一日が終わった。

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