妹の趣味
家に帰ると、すでに帰宅していた玲奈が制服姿のまま家に一つしかないソファの上に座り、えらく険しい顔をして机の上に置いてある画用紙にカリカリとえんぴつを走らせていた。
「ただいま……」
昨日の事もあり、普段よりか口調に気まずさが混ざっているような声で挨拶してみたけど返事が返ってこなかった。俺たちが生活するオンボロアパートは玄関の開く音が隣の部屋に響くくらい大きいので、普通なら玄関の方を見るくらいの反応はすると思うのだが、妹は俺が帰ってきたことに気づいていないまま一点のみに集中していた。
「おい玲奈。絵を描く時はきちんと鍵をかけろって言ってるだろ」
後ろ手で鍵をかけながらきちんと聞こえるように大きな声を出す。この集中しすぎると周りが見えなくなってしまう癖のようなものは早く直してやりたいと思っていた。もし道路の真ん中でこんなことされたらたまったものじゃない。
すると玲奈はようやく気づいたみたいで、えんぴつを机の上に置いてこちらに目をやった。
「おかえりなさい。……えっと、なにか言った?」
本当に俺が帰ってきたことを今知ったような口ぶりだった。まるで声をかけられるとは思っていなかったような顔をしている。
けれど驚いた表情とは違って、妹に向けられた細い目はひどく虚ろで放心しているようだった。絵を描く時はいつもこの目だ。とてもつまらなそうで、光のないこの瞳を見るたびに、なぜ絵を描き続けているのだろうと疑問に思ってしまう。
とはいえまずは鍵のことを注意しなければ。
「だから、家に帰ってきたら鍵を閉めろってことだよ。もし俺じゃなくて泥棒とかだったら今頃どうなっていたかわからないんだぞ」
「それは考えすぎだよ。そもそも盗むものすらないこの家に泥棒が来るわけないでしょ。それとも、兄さんはなにか盗られて嫌なものでもあるの?」
「いや、俺は特にないけどさ……」
ここで言葉が途切れた。本当は泥棒なんかじゃなくて玲奈がストーカーやらの被害にあうことを恐れているのだが、それをそのまま口にだすのは顔から火が出る思いになるので、なにか別の理由をこじつけることにした。
「で、でも……、お前のデッサンセットが盗まれるかもしれないだろ。結構高価なやつなんだし」
そう言うと玲奈は眉にシワを寄せて「んー、それは困るかも……。今度からは気をつけるよ」と小さく呟いてからなにもなかったかのように描画を再開した。
本当に分かっているのだろうか……。
だが次からはきちんとすると言った妹を信じ、俺は別の話題に切り替えることにする。
「それで、今日はなんの絵を描いているんだ?」
カバンを自室に放り投げて振り返り、妹のデッサンセットが置いてある机の方を覗き込みながら尋ねた。
妹自慢ではないが、玲奈の絵を描く腕前は金を取れるレベルだと思っている。描画するのは全て風景なのだが、濃さの違うえんぴつを上手に使い分けて描くので、額縁があったら飾ってやりたいくらいのリアリティある絵を完成させるのだ。もととなる風景画像はどこから仕入れてくるのかというと、月に二度くらい日が暮れる時間まで外を歩き、私物のカメラで風景の写真を撮りだめしているらしい。ここら周辺の地形が描かれた画用紙はこいつの部屋にどっさりと置かれてあるので、それを並べたらグーグルマップにも負けないくらいの地図が出来上がるんじゃないだろうか。
だから俺は、玲奈の描いた絵を見るのは日常の小さな愉しみになっている。いったい今日は東京のどこを描いたのだろうか。
「まだ見ないでよ。未完成なんだから」
しかし玲奈は不機嫌そうにそう言って、小さい体をいっぱいに使って画用紙を隠してきた。その姿はお菓子を独占しようとするがめつい俺の同級生の女子生徒たちに似ていた。
このように妹が未完成の絵を見せてくれないのはよくあることで、なぜ見せないのかと聞いてみたら「完成していないものほど他人に見られた時に恥ずかしいと感じるものはない」と言われたことがある。
こうなったら最後まで絵を見せてくれない。俺は、しゅんと凹むように妹が座る対面の席に座ると、玲奈は急に機械的な笑顔を作った。
「そろそろ完成するからもうちょっと待っててよ。本当は平岡警部から届くはずの報告書でも読んで時間を潰しててほしかったんだけど、まだ来てないんだよね」
すらすらと絵を書く玲奈。もちろん俺に見せないようにえんぴつ入れやティーカップやら小物類を使って画用紙の前に壁を築いている。どうやらこいつにも職人のようなこだわりがあるらしく、この徹底した行動を見ていると、こいつはまだ中学生なのにもかかわらず成熟した大人を見ているようなちぐはぐした感覚に囚われてしまう。
まあ描き終えると真っ先に絵を見せに来て、俺が賞賛の感想を送ると頬を赤く染め嬉しがるあたりやっぱり根は普通の中学生と同じなんだろうけど……。
「ふーん。いったい晋三さんたちに何があったんだろう? もう放課後だろ」
「それは私にもわからないよ」玲奈は静かに答えた。「きっと帝国高校でなにかあったんだろうね。まあ焦らず待とうよ。急速は事を破り、寧耐は事を成すって西郷さんも言ってるんだし」
そう言い切った瞬間、画用紙の隣においてある妹の携帯電話が鳴る。俺のと違って普通のガラケーだ。こいつはスマホを買わない代わりにアップルウォッチを右腕に装着している。
「ほら、ちょうどいいタイミングで報告書が届いたよ。えっと……ああ、なるほど。だから遅れたのか」
ゆっくりと携帯電話を開き画面を見た玲奈は、絵を描いているときに見せる無の表情から一転して楽しい遊びをみつけた子供のような元気ハツラツした顔に変わる。
「いったい報告書になにが書いてあったんだ」
その変わりように報告書の内容が気になった俺は興味津々に聞いてみると、妹はなにも答えずえんぴつを置いてあたふたと自室に戻り、スクールバックを手にして再び姿を表した。
「報告書の内容はあとで見せるよ」玲奈は時計を見て声を上げた。「それより兄さん、早く準備をして。この時間だとあと五分でバスが来ちゃう!」
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