妹は探偵だった

 けれど驚きで身体をびくっとさせたのは信三さんだけだった。玲奈は静かにコーヒーを飲んで。


「あら兄さん、おかえりなさい」


 音量は小さくとも透き通ってよく聞こえる声だった。椅子に座っている玲奈は慌てる様子もなくこう言った。


「た、ただいま……」


 妹のゆったりとして動揺の欠片も見当たらない日常的な態度に呑まれ、俺もいつもどおりの言葉を返す。男を家に連れ込んでいた瞬間を俺に目撃されたのだ。普通なら取り乱して「勝手に部屋に入ってくんじゃないよバカ!」と罵倒が飛んでくるものじゃないのだろうか。それとも妹にとって援交という行為は決して疚しいことではないと考えているのだろうか。


「おお、祐介ゆうすけくん。久しぶりだな。何年か見ない間にすっかり大きくなって」


 そして玲奈と同じくらい何食わぬ顔で振り返った晋三さんは、立ち上がり俺の顔を見上げながら近づいてきた。昔はこちらが下から見る方だったのに数年も時がたち立場が逆転している。彼は俺の成長ぷりを確認するように右肩を強く掴んで「だいぶガッチリした身体になった。もう百八十センチは超えたようだね」とつぶやいた。


「はい、百八十一センチくらいです」

「そうかそうか。二人暮らしでもしっかり健康的な食生活を送れているようで安心したよ。香澄から聞いていたけどこっちに帰ってきてくれて本当に良かった。また玲奈くんと一緒に我が家に遊びに来てくれ」

「は、はあ……」


 いったい何がどうなっているんだ?

 二人とも俺が乱入してきたことをまるで気にしていない様子だった。

 やはり妹たちが援交していたというのは俺の勘違いだったのだろうか?


「それで何かよう? どうやらとても冷静じゃない様子だけど」

「そ、そうだ!」


 しかしきちんと聞いておかないと。せめて金の事だけでもはっきりさせておきたい。


「おい玲奈、あの『金田一恭五郎』って名義の送り主はお前だったのか?」

「ん……、ああ……。ええそうよ。ふふ。面白い名前でしょ」


 玲奈と晋三さんなぜかが笑う。果たしてその名前にどんな意味が隠されているのか俺にはわからなかった。


「じゃなくて! なんでお前がわざわざ名義を偽って毎月金を振り込んでいたんだ。お前からだと分かっていればしっかり返していたのに……」

「けどそのお金で私たちは充分な暮らしができているんでしょう。ならそれでいいじゃない。兄さんが私に返す必要はないと思うけど?」

「それはそうなんだけどさ……」と言いくるめられそうになる俺。


 たしかに玲奈の意見はもっともだ。俺がアルバイトをして二人分の生活費を稼いでいるのと同様に妹も金を稼いでいるというだけのこと。その金は貧乏な俺たち柴倉家で分配すれば全く問題はない。


「そ、そういうことじゃないだろ。中学生のお前が生活費を稼ぐために……その……自分の……」


 だが今の状況はそれとかけ離れている。こいつの場合稼ぎ方に問題があるのだ。いくら時給の安いアルバイトしかできない中学生だからって、超えてはならない一線があることくらい分かるだろ。


「なんで晋三さんと援交なんかしてたんだっ!」


 俺は拳をぎゅっとと握りしめ、二人に向かってやけくそ混じりに叫んだ。


「…………」


 細い目をめいいっぱい見開いて、玲奈は俺をじっと見つめていた。いくら鉄仮面のようなこいつでも、援交について聞かれて動揺し始めたのか。


「ゆ、祐介くん……。きみは突然何を言い出すんだ」


 晋三さんも困惑したような顔で聞いてくる。


「晋三さんも晋三さんですよ。警察官という立場なのに玲奈の援交に協力して……。やめさせようと思わなかったんですか? 法を守る警察官が罪を犯すなんて考えられないです。このことを香澄やおばさんが知ったらどうするんですか。いっときの感情のためだけに周りの人間を悲しませるようなことをするなんて許されることではないです!」


 俺はひたすら自分の思っていることを晋三さんにぶつけた。男として性的な欲求が誰にでもあることは理解できる。けれどそういった邪な考えを抑える機能だって人間には備わっているのだ。それが使えないのは理性のない獣と一緒ではないか。

 晋三さんは口をぽかーんと開けて俺の言葉を聞いていた。思いが伝わったのだろうか。

 すると――。


「あはははははは!」


 甲高い笑い声が部屋に響いた。

 見ると、常に冷静で取り乱さない玲奈が腹を抱えて笑っていた。


「おい、なに笑っているんだ」

「あはは、ははは……はあ~。ご、ごめんなさい。いくら思い込みの強い兄さんだからって、まさかここまでぶっ飛んだことを言ってくるとは思わなかったから……ふふふ」

「まさか玲奈くん。祐介くんにきみがなにをしているのか言っていなかったのかい?」


 開いていた口を塞いだ晋三さんが妹の方へ向き直す。


「あはは……、本当にごめんなさい。きちんと言います……。ふうー。……あのね、兄さんは二つ勘違いをしているの」


 玲奈は笑いを必死にこらえながら、二本の指を順番に立てて。


「一つは私と平岡警部にそんな関係は一切ないこと。そしてもう一つは警察官だって罪を犯すということだよ」


 得意気にそう言った。


「ど、どういうことなんだ……?」


 援交じゃないのか。ではどんな関係なのだ? 想像力のない俺にはそれ以上のことが考えられなかった。

 妹は一呼吸置いて落ち着きを取り戻し、俺の目を見て言った。


「今まで黙っていてごめんなさい。私ね、一年以上も前から平岡警部のお手伝いをしていたの。職業名で言うなら私立探偵ってことなのかな?」

「た、探偵……?」

「そう。それで警察官である平岡警部と関わっていたってこと。犯罪捜査に協力するって理由でね。毎月私たちの口座に振り込まれているお金はその報酬ってわけ。どう。健全な稼ぎ方でしょ」

「…………」


 玲奈がそう言っている間、俺は呆然と沈黙していた。もう訳がわからない。昔から母親の持っていた探偵小説を好んで読んでいるところを目にすることはあったが、まさか本当に探偵のようなことをしているとは。

 それに世間が知っている探偵っていうのはストーカー調査や浮気調査をする人、だろ? それこそコナンや金田一一みたいな探偵が実際にいるのか怪しいものだ。

 なのにこいつは、本物の警察の人間と関わって、中学三年生なのにもかかわらず物語の中の探偵みたいに犯罪の捜査をしているなんて。


「う、嘘だよな……? お前がそんな危険なところに、それに警察が中学生に捜査の協力をしてもらっているわけないだろ……」


 当然の疑問だったが。


「信じられないかもしれないが本当のことなんだ。玲奈くんの推理力と洞察力は我々警察官も一目置いていてね。彼女の協力無しでは解決できなかった事件が山ほどあるんだよ」信三さんが玲奈を褒めた。

「そういうこと。私ってすごいでしょ!」


 妹は胸を張って言った。どうやら本当に警察に協力して捜査をしているらしい。


「まさかお前がそんな危険なことを今まで続けていたとは思わなかったよ。なんで言ってくれなかったんだ……」

「言う必要がないと思っていたの。だけど私が探偵を始めたおかげで生活は安定しているよ。それに私、捜査の才能がありすぎるみたいでね。どんな難解な事件でも持っている知識を駆使して解明できちゃうんだ。私が毎日本を読んでいるのは兄さんも知っているでしょ。だけどその蓄えた知識は使わないと腐ってしまうの。それでいて探偵のお仕事はアウトプットに最適なんだよ。世の中にはたくさんの怪奇な事件があってね、それらの真相究明は学校の退屈な授業なんかより何千倍も面白いんだよ」


 玲奈は、あのねあのねと永遠に話を続ける俺の同級生の女子生徒たちみたいに口を開き続ける。


「おそらくだけど過去にも私が誰かを連れてきたとこを目撃したか知っていたんでしょ。けど彼らも全員援交相手ではなく警察関係者の方々なの。犯罪捜査のノウハウを学んだ彼らでも行き詰まることがあってね、最終的に私のところに来る。そして私が助言を出して事件は解決する。いくら探偵小説を読んでいない兄さんでもシャーロック・ホームズくらいは知ってるよね? やってることはあれと同じで――」

「おい待て、あれは小説の中だから成立してるんだろ。そんな簡単に中学生が事件を解けるわけ――」


 解けるわけない、と言おうとした瞬間だった。すぐ近くで携帯電話のバイブ音が響いた。


「すまない」


 妙に真剣な表情で、晋三さんはポケットから携帯電話を取り出して玲奈の部屋から出ていく。ちらっと見えた妹の細い目は、遊園地に行く子供のように輝きだしていた。

 これから何が起こるのだろうか、その理由はすぐに分かった。


「緊急出動だ玲奈くん。近くの帝国高校で死体が発見されたらしい。すぐに行くからキミも来てくれ」


 晋三さんがそう言うと、妹はティーカップに注いでいたコーヒーを一気に飲み干しすぐに立ち上がって学校指定のスクールバックを手にした。


「まさか今から行くのか?」

「もちろん」

「だめだ!」俺は叫んだ。「いくら警察と一緒にいるとしてもお前が行くのは危険すぎる。何かあってからでは遅いだろ。もし凶器を持った犯人が近くにいたら……」


 考えるだけでもゾッとしてしまう。

 しかし玲奈はすました顔で。


「兄さん。犯行を終えた殺人現場にもう一度凶暴な犯罪者が戻ってくるわけないでしょ。そんなんだったら世の中の犯罪は一時間の刑事ドラマよりも早く解決してしまうよ」とあざけるように笑って言った。

「そ、そうかもしれないけどさ、やっぱり犯罪捜査なんて危険すぎる。そういうのは全て警察官に任せるべきだ」

「私はどんなときでも細心の注意を払っているから大丈夫。兄さんがなんて言おうと絶対に行くから!」


 わがままを言わない妹がここまで自分の意見を突き通してくるのは初めてだ。しかし真っ直ぐ向けられた妹の目からは真剣さが伝わってくる。玲奈の探偵家業に対する決意はとても大きいもののようで、果たして俺に妹を止めることができるのだろうか。


「なら兄さんも一緒に来てよ」

「なんで俺が一緒に行くことになるんだよ!?」

「そんなに私のことを心配してくれるならさ、もし現場で危ない目にあった時に兄さんが私の盾になってくれればいいじゃない。助手だよ助手。それなら私だって安心して捜査できるもの。それに、中学生にだって事件を解明することはできるんだよ。私に限ったことだけどね」


 玲奈は自信満々にそう言いながら晋三さんの顔を見た。彼も顎を下に振っている。


「私からも是非お願いしたい。玲奈くんの協力があるだけで我々もスムーズに捜査できるんだ」

「そんな……」

「でもそういうことなの。いいでしょ?」

「…………」

「どうかね、祐介くん」


 二人が俺の顔を見てくる。それでは断れないじゃないか……。


「し、晋三さんまでそう言うなら……、わかりましたよ……」


 俺はしぶしぶ同行することを決めた。妹と殺人現場を離すはずだったのにまさか自分まで行くことになるとは。しかしどうしても行きたいと言って聞かない妹の安全を考えるのならそばにいたほうがいいのだろう。うまく丸め込まれたような気もするが。

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