第5話 松代さん(善光寺の吊提灯)

裾花川治水から数百年後再度村人を怒らせる事件が起こる(1850年頃)

時は明治維新前夜江戸時代末期善光寺地震の復興が始まった頃だ

松代藩は善光寺への年貢を松代に納めろと言うのだ


領地替えの通達だった


長野村・箱清水村・平柴村・七瀬川原村の代表が会所に集合した

平柴村以外「やむなし」となり、会合は決してしまった

藤原長左エ門は、その後算術所になる寺子屋で読み書きを教えていた

その話を寺子屋ですると、成人にもならない弥勒寺の若者二人が

直訴に行くと名乗り出た

善光寺の復興を絡め、天皇を通じて徳川の情に訴えたようと言うのだ

庄屋の寿作に話たところ、もう一人面倒見の為、若者の親戚が名乗りを

挙げた。

長左エ門は書状を三人に託すことにした

二週間かかって江戸まで

直訴は打ち首、命を賭けて不義を訴えた、村人も本人も帰って来ない旅と

諦めていた。

平柴村の総意だったのかは、定かではない

長左エ門は死に体の幕府には聞き入れられない要求と判っていた。


長左エ門は、ただ一つの方法に賭けたのである


上野寛永寺(東照宮)に法要に来た仁孝天皇の篭に 参道下から竹棒の先に書状を付け直訴したのだ。


善光寺は昔から尼寺だった、上人は天皇の血縁の女子が善光寺上人だったからだ

善光寺上人とは旧知の仲だった長左エ門は上人の意向は聞いていた。上人さんからも書状を貰い、仁孝天皇の動向も聞き取ってもらい

天皇も幕府とのバランスを崩さない、直訴の形が良かったのだ

善光寺にとっても領地替えは承服できなかったのだ

一か八かの賭けだった。


寛永寺、東照宮は上野動物園のあたりに有り、お山は寺だらけだった

幕府はペリー来航直前、天保の改革、などなど、政治はごった返している最中

幕府は善光寺どころではなかった、松代藩は、水内の地からも

年貢を取りたかったのである、そのころには善光寺には僧兵は居なくなっていて

江戸幕府の管轄になっていた。


打ち首にもならず、三人は頂いた馬で帰って来たのである。


善光寺の年貢は守られ、善光寺は名誉の吊提灯を本堂入口に張る事に成る

当初は二対の提灯だったが、張替の負担が大きく現在では一対となっている

現在も善光寺の本殿入り口 両方に一対の平柴の提灯はが飾られている

現在でも善光寺御開帳の奉納行列には、この若者の子孫が七年に一度行列に

参列している。

長左エ門はこの後数十年生きたが破天荒な人だったらしい

黒船来航や領地替え、権堂の女郎屋や苗字剥奪事件が

善光寺の灯篭に平柴の文字が有る理由と

密接な関係があったと知っているのは、きっと私だけだろう。

明治維新最後の戦いの場、上野寛永寺・東照宮が焼け野原になる20年位前だった。


その後長野では「午札騒動」を最後に農民と藩との戦いは収束する。

我が家はへそ曲がりで松代藩とは長々やり合っていたとゆうお話でした。


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