10月19日ー漏らしていいのは本音だけ


 朝目覚めると、肌寒いと感じているのとは裏腹に、体そのものが火照っているような気がした。ついでに脇腹辺りには多量の冷や汗が流れており、寝具にシミがついていた。

 風邪。その二文字が浮かんだ。咳も鼻水もないが、これが風邪の初期症状であることは、ほぼ確実だろう。幸運なことに今日は金曜日であるので、ある程度の希望を持って家を出ることが出来た。

 また、先日の経験を通して、鍵をかけた後は多少大袈裟と思われるくらいに施錠確認をし、短期記憶へと刻み込ませるようにした。


 その後、電車内で突然の腹痛に襲われる。今までであれば、心を無にしてやり過ごすか、自分にある全潜在能力を発揮して臀部の完全閉鎖を目論むところだが、この連日の実験によって呆け出した意識は別の命令を下した――面白い、人間の三大欲求に並ぶ本能「排泄欲」に、この実験の成果がどこまで抗えるか試してやろうじゃないか!!

 激しさを増す痛み。対する私は「小説を書きたい」と言霊を詠唱し続けることで大いなる厄災を鎮めようとする。

 職場まであと二駅。小説を書きたい、今日のプロットはどうしよう、実験の果てに私は何を掴むのか――錯綜する情報、ありがちな誰かの台詞、流れ続ける謎のPV映像、かくして私はもう少しで伝説になるところであった。「満員電車内の糞漏らし魔」として。

 そうならなかったのは、くだらぬ妄言をたたく私の中に三十年近く蓄積してきた「羞恥心」という膨大なエネルギーの為であった。「もう無理」と脳のどこかで判断されたのだろう。既に私は人を掻き分けていた。誰彼構わず、力の加減もせず。一体どれだけの方々の顔をしかめ面にさせたかは知らないが、それでも私は電車内のトイレへと向かった。運良く、並ばずに入れたことが明暗を分けた。私は勝利した。


 連日の疲労と此度の限界突破により、会社内での私は、完全に自作業だけをする機械に成り果てていた。誰かから言葉をかけられて振り向いても、焦点を合わせるだけの要領もなかった。確実に斜視だったであろう。話しかけた後輩も上司も相手先も不気味だったに相違ない。私は敗北した。


 次に私が小説について考えられたのは、帰りの電車内。

 先生との対話では久方ぶりに対立せずに済んだ。ここ数日、口を開けば無茶振りとお説教であったので、安堵しながら思考に身を委ねることが出来た。


――小説には二つあります。「自分が書きたいもの」と「自分が読みたいもの」です。


「他人が読みたいもの」もあるのではないですか? それに「自分が読みたくない(書きたくないもの)」も。


――ええ、厳密に言えば。ただ、そういった観点の小説が自分の意識に上がってくることなど、それこそ意図的に呼び出さない限りはないでしょう。それらは空気、風景における模様の一つでしかない。

――私個人の感覚で言えば「他人が読みたいもの」「自分が読みたくないもの」というものは、言葉の上でのみ存在する概念だと思います。数学で言えば「空集合」「虚数」のような。そういう、辻褄合わせ・・・・・のためのキーワードだとね。


 まあ、そういう自分主体の考え方もありかもしれない。


――話を戻します。その二種類の「小説」。あなたが今後、残りの三週間近くを執筆していくにあたり、そのうちの前者「自分が書きたいもの」を目指していくにはどうしたらいいのでしょうか。


 昨日言っていた「分析」とやらがその方法にあたると?


――あなた、今、脳裏にある単語を三つ出せますか?


 突然ですね。ええと、仮想世界、境界線、分解と結合。同列に実験も加えてください。


――なぜ、それらが脳裏に?


 なぜと言われても。今考えている小説のアイデアがそれがテーマになっているからじゃないですか。もしかして、脳内のタイムラインを分析してみろってことですか。どんな思考の流れでそんな言葉が蓄積されたかということを。


――あなたは自分のことが良くわかっていない。なまじ、自然の成り行きでここまで来れてしまったが故に、あなたは今ですら地に足が付いていない。客観的に見てくれる人も見つからなかったので、行き先は未定のまま。

――だから、自分が「正しい」のかも分からない。何をしたいのかも、何を求めているのかも。もしかして、何もしたくない、何も欲していないのかもしれないが、それすらもあなたには分からない。


 そもそも私が先生――有り体に言えば空想の友人イマジナリー・フレンドを作り、この小説を企画し、友人せんせいの無茶ぶりに応じてきた理由はそこにある。

 私は何をしたいのか。何をすれば自分の正しさを担保出来るのか。いや、そんな堅苦しい表現をする必要もない。


 どうすれば、自分に自信が持てるのか。


――そこで私があなたに提案するのは、自分の取扱説明書を作ることです。


 確か、そんな歌があったような気がする。

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