10月17日ー革命に犠牲は付き物


 朝の通勤の間、先生も私も一切会話を交わさなかった。思考を遮断する必要などない。何も考えられない。何も浮かばない。無我の境地と言えば、言葉だけは格好がいい。

 もちろん、精神が研ぎ澄まされているかと言えば、断じて違う。その逆、無防備に自分の腹をさらけだしているような、幸運の壺を押し売られたら勢い(ノリ)で買ってしまうような、そういう危うい状態だ。

 目が痛み、耳が鳴る。鼻が詰まって、喉には絶えず異物感。

 この報告をするために、連日のように夜更かししたツケがいよいよ回った。4日目にしてピンチ到来である。


 職場についた直後がピークであった。何のピークであったのかは定かではないが、ともかく、ピークであった。

 会社の後輩がこちらの席に来て「おはようございます」と言ってくれた瞬間、何故か「殴りたい」という衝動に襲われた。あまりに突然だったので、抑えるのにかなり難儀した。

 おそらく数秒のことだったろうが、その際の顔は決してよろしいものではなかっただろう。

 結局、顔もろくに見ずに何度か頷くだけになった。「挨拶は大切だよ」とさんざん教え込んだ面目が丸潰れである。

 このような事態を二度と引き起こしたくはない。ただ、どうしたものだろうか。

 昼休みをすべて費やしても、目ぼしい回答は浮かばなかった。ただ「小説を書きたい」の羅列だけが延々と続いていく。



 帰りの電車。何とか仕事を片付けた私は、先生と今後の相談を始めた。

 今日分の小説は書けると思うが、今までのように1時2時になるのはやめたい。どうしたらいいでしょうか。


――仕事を早く切り上げることがベストでしょうね。そうすれば時間が多く取れますから。


 定時に退社することが出来れば、今までのペースでも日をまたぐ前に眠りにつけるだろう。

 いいアイデアだ、不可能だが。


――難しいのは承知の上です。ただ、上手くいけば、あなたの根本的な欠点が見直されるかもしれない。 


 どういうことだろう。私は先生の言葉に耳を傾けた。


――当たり前の話ではありますが、人は何かを為すために、何かを捨てて生きています。人が一番捨てているものは何だと思いますか。

――それは「時間」です。「可能性」と読み替えてもいいかもしれません。それは目には見えませんが、確かに存在する。いや、今この時も大量の時間が「存在した」になっています。


 それが私の「欠点」と何の関係があるのだろう。そもそも、私は時間を捨ててはいない。それが残業時間のことを指しているのだとすれば先生は大きな誤解をしている。

 自分の仕事については、きちんと責任を持っている。実施時間に過不足はない。今日の残業は必要な残業だったのだ。


――「時間」「可能性」。あなたはそれを普段意識しない。だから浪費していることにも気付かない。あなたは現在の損失には過剰なまでに敏感だが、未来の損失には呆れるほどに無防備です。

――その仕事は本当に必要なものでしたか?人に助けを請えば、早く終わったり、代わってもらえたり、時間をずらしてもらったり出来たのではありませんか?


 そんなどこぞの自己啓発本の一節なんて引っ張り出されても。

 以降、先生の言葉は適当に聞き流した。先生も私の態度を認めた上で、長々と独り言を続けていた。


 しかし、この目の疲労具合、朝における気の立ちようから察するに、このまま継続するのは間違いなくまずいだろう。

 本当に気狂いになる可能性があるかもしれない。自分からそこに向かっているのだから、救いようがない。

 小説を書くように追い詰めたこと自体は悪くはない。「何かをしている」という感覚を得るという目的は達成されているのだから。

 我が儘を語るのならば、更にもうひとつ欲しい。何が欲しいのかは定かではないが、ともかく、もうひとつ欲しいのだ。


 一体、何なのだろう。

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