第7話 K
「見てください新堂さん。どう思います?」
谷川が見せたのは、ニュースサイトの記事だった。
「これがどうかしたのか」
「ほら、ここ」と指す先には、「またも高級官僚が行方不明。反政府組織によるテロが、国民を恐怖に陥れる」とあった。
「先月の血の月曜日事件以来、こんな記事ばっかりですよ。ほら、ここにも」
「反政府組織は若いリーダーを担ぎ、活動を活発化させている。狙いは政府の転覆のようだ。か。過激だな」
そう言いながら、新堂は内心で笑ってしまった。半年ほど前に国家転覆未遂罪の有罪判決を受けた男が驚くような記事ではなかった。
「新堂さんは宮中住まいだからいいですけど、私は不安ですよ。もしかしたらこれが今生の別れになってしまうかも」
新堂は噴き出しそうになるのを堪えて、「それは困る。スラム街を案内してもらう約束だ」と言った。谷川は一瞬バツの悪い顔をしてから、「そんなこと言いましたっけ?」ととぼける。
無言のまま新堂が眉を上げると、今度は慌てて「いや、そうですよね。分かってます」と、両手を振った。
「でも新堂さん、ちょっと考え直しませんか? あの時と今とでは状況が違いますよ。今あんなところに近付くなんて、殺されに行くようなものですって」
「身をやつせ」
「そんなぁ」
スラム見学は、朝早い時間にすることにした。新堂が外出に必要な書類を揃え、谷川が全てにサインした。
「本当に頼みますよ。新堂さんに何かあったら私はクビです、クビ」
「そうなったらスラム街に住むか」
「冗談はよしてください。今の生活を手に入れるのにも努力したんですから」
「はっはっは」
谷川は「もう」とため息をついて、それから諦めたように力なく笑った。
宮中の外に出るのは初めてだ。第一印象は「道が汚い」だった。日本では無数のロボットが働いていたし、彼らが――新堂が今考えるところによると、おそらくわざと――集め損ねたゴミを拾うボランティアも多かった。新堂は落ちているゴミを数えようとして、すぐにやめた。
「私は堤、私は堤」
谷川は、自分の仮名をぶつぶつ唱えている。
結論から言えば、スラム街は命の危険を感じるような場所ではない。それが、帰ってきた新堂の感想だった。谷川があまりにも怖がって、隅々まで見られなかったからかもしれない。反政府組織と騒がれているスラム街の住人とも、ほんの数人と話せただけだった。
「どうでしたか? 念願のスラム街は」
安全な宮中に戻って来るや、谷川は調子がいい。
「不思議だ」
「何がです?」
「アンテナは想定内だった。しかし、あれは……」
スラム街は元々違法建築の集まりだ。勝手にアンテナを立てて電波を不正に利用しているだろうと思ってはいた。新堂にとって意外だったのは、太い電線や小型の発電機のようなものが沢山あったことだ。そんなに安いものでもないし、手作りできるものでもない。ましてや、食べるものにも困るはずの人が持っておくような代物ではない。これは、彼らに何らかの支援者がいることを示唆している、と新堂は考えた。
そう谷川に言うと、彼はそんな馬鹿な、と言って笑った。
「一体誰が彼らを支援するんですか。技術があればお金になります。お金があれば上級市民になれます。上級市民になれば政府に優遇されますから、反政府勢力の彼らを支援する理由が無くなっちゃいますよ。そうでしょう?」
「まぁ、そうなのだが」
谷川の言うことは正論だった。この国のシステムは意外とよくできている。政府を倒せるような力を持ち得る人々を悉く政府の側につけてしまうのだから、クーデターは成功しない。唯一可能性があるのは、一般市民が数にものを言わせて協力して立ち上がった時。君主を倒すためには、それしか望みは無かった。そしてもしそれを実現させられるとしたら、それはスラム街で出会った彼なのかもしれない、と新堂は思っていた。
「私は新堂だ。日本から来た」
そう名乗った時、内心一番慌てていたのは谷川だった。
「鮫だ。お前は。お前も日本から来たのか」
「いえ、わ、私は、堤と申します。ずっとこの近くに住んで、おります」
鮫と名乗った彼は、確かに鮫のような男だった。何を考えているか分からない深い黒目。尖った鼻。歯並びの悪さが、凶暴さを引き立たせている。
「日本から何の用だ」
「興味がある。あなた方は君主を打倒しようとしているのか」
「はんっ」と鮫は吐き捨てるように言って、「俺たちは陛下を恨んでる。そうだろ。仲間を殺したからだ」と、新堂を見下ろした。
「勝算はあるのか」
「時間の問題だ」
鮫の声は自信に満ちていた。
「あなた方のリーダーに会いたい」
「目の前にいる」
「そうか。それは失礼した」
アドレスを聞くと、鮫は小さな紙切れを渡した。新堂はそれをポケットにしまう。
◇
Kからメッセージが届いたのは、レオが死んで間もなくのことだった。
「はじめまして、アシカさん。私はK」
カリンによるとレオの同志のようだったが、会ったことはないという。
「俺はアシカ。レオの弟です。レオのことを知っているんですか」
「はい。よく知っています。そして私は彼の支援を続けてきました。これからはあなたを支援します」
「あなたは何者なんですか」
「それは明かせません。申し訳ありません。でも、支援は約束しますよ」
カリンも詳しくは知らなかった。知っているのは、レオがこまめに連絡を取っていたということと、彼がKを頼りにしていたということくらいだ。そして、アシカを一番驚かせたのは、軍資金の情報だ。
「Kはたまに金を振り込んでくれてたわ」と、カリンはレオの口座を教える。「どうやったのか知らないけど、架空の上級市民の口座よ。大抵の物は引き落としで買えるわ」
アシカは残高を確認する。0が四つ、百と十二万だ。アシカには想像もできない金額だった。どうしてレオはこれを実家に送ってくれなかったのだろう。これだけあれば何でも買えたのに。そう思ったアシカは、このことはレモンには黙っておくことにした。余計な邪推を持たれたくなかった。
「支援の証に、今朝百万円を振り込みました。受け取ってください」
Kから新しいメッセージが届いた。
「ありがとう。でもどうして」
「私はレオさんを支援してきました。一緒に平等な社会を実現しましょう。そのために君主を打倒しましょう」
カリンとKに助けられながら、アシカは若者たちの新しいリーダーとして努力を始めた。初めこそ怖気づいていたが、二人の助言は常に的確だった。
一方レモンは、君主の打倒には興味がなかった。むしろ、自ら官僚になって社会を変えようとしていた。しかし、過去の官僚登用試験の問題を手に入れた彼女は、現実は甘くないと知る。見たことのない数式の数々。見たことのない文字列の数々。レモンは問題を手に兄の部屋を訪ねた。
「ねぇお兄ちゃん」
「ん? レモンか」
最近、兄はいつも難しい顔をして何かを考えていた。
「これ何だか分かる?」と、問題を見せる。
「さぁ、見たことない文字だね。何て読むの?」
「分からない。官僚になるのって難しいんだね」
画面にはKからのメッセージが光っていた。レモンの視線に気付いた兄が、説明する。
「宮中の地図だよ。陛下はこの建物にいるらしい。門さえ突破出来れば、不可能じゃないんだ」
「何するの? もう嫌だよ、この間みたいなの」
これ以上人が死ぬのを、レモンは見たくなかった。
「分かってる。でも、もうこれしかないんだ。陛下を拘束する」
兄は、画面の地図を見つめる。その頭の中では、作戦がシミュレーションされているようだ。レモンは何も言い返せなかった。革命を起こす以外に、自分たちの貧しい生活を変える方法を知らなかったからだ。ただ、「日本に住みたいな」と呟いた。そこは、平和な社会。人が理不尽に死ぬことのない世界。
「Kから聞いたんだけど」と兄がレモンを振り返る。「日本ではすべての人間は平等らしい。それに、ベーシックインカムっていうのがあって、最低限生活できるだけのお金は国から支給されるんだ」
そう語る兄の顔は輝いていた。
「官僚と上級市民が全部持って行っちゃうから、今は俺たちまで回ってこないんだ。だから、陛下を打倒して皆を平等にできれば、この生活は変えられる。日本みたいな世界を、ここにも作れるんだよ」
「お兄ちゃんは、絶対に死なないでよ」
それが、レモンに言える精一杯だった。
外に出たレモンに小さな子どもが群がり、「おねえちゃん! これは? これは?」と、口々に質問を浴びせる。
レモンは「じゃあみんなで考えよっか!」と、広場を目指す。この街で、レモンは身寄りのない貧しい子どもを集めて、勉強を教えていた。本が好きだったレモンは、一通りの読み書きはできたし、簡単な計算も苦手ではなかった。
傾斜になっている広場からは、宮中が遠目に見えた。塀で囲まれた敷地に、いくつもの四角い建物。あそこには一体どんな人がいるんだろう、とレモンは考えた。兄の言うように、富を独り占めしてしまう悪い人たちがいるんだろうか。憲兵のことを思い出すと、そうなのかもしれないと思う。でも、そんな人ばかりだとも思えなかった。
「おねえちゃん何見てるの?」と一人の子どもが顔を覗き込んでくる。
「しってるよ! きゅーちゅーでしょ?」
「あ、それ聞いたことある! わるい人たちがいるとこだ!」
レモンは子どもたちに「よく聞いて」と言うと、「本当に悪い人たちかどうかは分からないでしょう?」と言い聞かせた。しかし、彼らはぽかんとした顔をしただけだった。
「お前が中川の妹か」
突然話しかけられて、レモンは顔を上げた。凶暴な顔つきの男が立っていた。
「中川レモンは私です」と言いながら、身の危険を感じて本能的に立ち上がる。
「鮫だ」
彼が名乗ったのだと理解するのに、少し時間がかかった。
「何でしょうか」
「お前たちはどうやって金を手に入れてる」
「何のことですか」
「とぼけるな。レオは偉大なリーダーだったが、それは金を持っていたからだ。その金は弟が継いだはずだ」
「分かりません。お金は持っていません」
レモンは本当に何も知らなかった。
鮫は真っ黒な目でレモンを見下ろしていたが、舌打ちして去っていった。
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