第5話 手記と演説
今世紀の日本は動物園か牧場の様相である。私はこの現状を看過することができなかった。 つまり、管理されているのだ。餌を食べるか食べないか、どんな餌を食べるか、柵の中のどこで寝るか、それらは自由に選べるように見える。しかし実際は、我々がどんな餌を好んで食べるかが調べられた上でそれが与えられている。寝床として整備された場所で寝るように誘導されている。これでは、家畜と同じだ。人間の尊厳は踏み躙られている。そしてその牧場の管理者は、他ならぬAI政府なのだ。
人間が選択を迫られたのは約百年前。世界は、人間とAIの手によって二分された。正確には、人間に従う人間の国と、AIに従う人間の国とに分かれたのだ。状況が変わったのは、約八十年前。ヒューマノイドが大量に導入された時だ。これによってAI政府は一切を人間に頼る必要が無くなった。完全な統治が可能になった。人間牧場の完成と言える。治安維持はもちろん、建設や接客、介護に至るまで、人間の手を介することなく社会が機能するようになったのである。
さて、こうなると不思議に思う人もいるかもしれない。それでは、人間は何もしなくていいではないかと。その通り。日本では、人間は本質的に不要なのだ。しかし、AI政府は国内の人間の生活の安定に資する政治を行うよう規定されている。そこで、人間に仕事を与え、遺伝的に相性の良い、つまり遺伝子の多様性を確保できる組み合わせになる配偶者を用意し、人口が増えも減りもせずに安定した社会を築けるよう全てをお膳立てした。さらに巧妙なのは、そのお膳立てが押し付けと思われて反発されないよう、隠されていることだ。日本人は自分で仕事を選んだと思っている。自分でパートナーを選んだと思っている。政府に紹介されることもあるが、最終的に決めたのは自分だと。そう決めるよう誘導されているとも知らずに。ある警察官は、自分が仕事をサボると国内の治安が悪化すると思い込んでいる。事実は、人間に社会の役に立っている、という感覚を与えた方が社会の安定につながるという理由で準備された、「警察ごっこ」でしかないのに。
私が動物園か牧場の様相といった意味が理解されただろうか。日本は人間が作った国ではない。ホモ=サピエンスという種をただ後世に伝えるためだけの施設だ。そこで管理者AIに見守られながら人生ごっこをして死ぬのか。それが人間の生涯なのか。私はそれを受け入れない。政治を人間の手に取り返そう。それが、私が日本の外を目指した理由だ。
「すごいですよ新堂さん!」
谷川が興奮気味に新堂の背中を叩く。この数日前、新堂は原稿を依頼されていた。
「俺が?」
「そうです。新堂さんじゃなきゃダメなんです」
谷川はこの言葉を決め台詞のように何度も言った。
「考えておく」
新堂は半ば自棄になってそう言ったのだが、谷川は承諾の返答と受け取った。
「ありがとうございます! いやぁ、新堂さんの手記なんて、たちまち大人気ですよ! なんてったってあの日本を脱出してきた人ですから!」
なんでも、雑誌の編集をしている友人が、どうしても新堂の話を聞きたいと言っているのだという。インタビューも対談も嫌いだと断ると、何か日本を出た理由だけでも書いてもらえたら、と懇願されたのだ。
翌月、「人間牧場、日本」という安直なタイトルを付された新堂の文章が、雑誌に載った。それで一番興奮しているのが谷川というわけだ。
「すごいですよ新堂さん! でも何か意外です」
「何がだ」
「新堂さんってあんまり喋らないじゃないですか。でも紙の上だと饒舌なんですね。ちょっと親近感湧いちゃいました」
「そうか」
新堂には谷川がそこまで興奮する理由は分からなかったが、褒められて嫌な気はしなかった。
「だって『人生ごっこ』とか、結構過激じゃないですか。やっぱり新堂さんはすごいなぁって」
「俺も自分のことを振り返るいい機会になった」
この言葉は嘘ではなかった。新堂自身、日本が動物園だとこれまで思ったことはなかった。ただ、今改めて振り返ると、そんな気がしただけだ。新堂も勧められる仕事には就いたが、配偶者は断っていたし、それほど自由が無いとも感じなかった。しかし、何か自分の存在に意味が見出せない、自分がこの世界にしっかりと生きている感じがしない。そんな感覚がずっと消えなかった。それを少し俯瞰できたのだ。
「新堂さんにそんなこと言ってもらえて私も嬉しいですよ」
谷川がその雑誌をめくるのも、もう何回目か分からなかった。そして楽しそうにまた最後の一節を読み上げる。
「政治を人間の手に取り返そう!」
国民島の政治は人間の手中にあった。しかし、それはごく一部の人間によって独占されていた。つまり、君主と官僚、一部の上級市民だ。
「人間が平等でないというのは大丈夫なのか」
仕事の合間に、新堂は谷川にそう聞いてみた。
谷川は、「だって平等じゃないじゃないですか。実際」と答えた。
「それで不平は出ないのか」
「どうして不平が出るんですか?」
「そうか」
「あ、でも、最近は少しあるみたいですよ、そういうの。スラム街に反体制派が集まってるという噂もありますし」
「見に行きたい」
「え?」
突然の要望に谷川は反応できなかったが、新堂はめげずに「スラム街だ」と付け加えた。そこに行けば何かがあるような気がした。
「秋まで待ってもらえませんか」
「秋?」
「まだ夏にもなってないのに、って感じですよね。すみません。でも半年経たないと、付き添いがあっても外出許可が出ないんです。秋になったら必ず私が案内しますから」
新堂はまだ自由の身分ではなかったのだと思い出した。それから、早く夏が来てほしいと思った。
◇
「レオ! レオ! レオ!」
革命家の登場に、広場の若者たちは沸き立った。レオは右手を上げて応える。夏の太陽に焼けているが、よく見るとまだ可愛げのある青年だ。
「諸君!」とレオが話し出すと、聴衆が一言も聞き漏らすまいと静まる。「我々は長い間努力をしてきた。なぜか! 理想の社会を実現するためだ!」
平らな土地には人が住む。したがって、新しいスラム街は自ずと傾斜地に形成される。レオは広場の端の崖のようになっている上に立っていた。
「理想の社会とは何か。それは、すべての市民が等しく生きられる社会だ。官僚は私腹を肥やし、上級市民はそれに見て見ぬ振りをしている。なぜか! 彼らは優遇されているからだ! 彼らは甘い蜜を吸わされて黙っている。諸君、これが理想の社会か。これが、我々の望む社会か! 違う! 我々は身勝手な政治には従わない! 我々は、身勝手な政治を破壊する!」
レオが拳を空に突き立てると、地が鳴るように人々は熱狂した。その熱が冷める前に、レオは小屋に消える。
「いい演説だったわ、レオ」
一人の女が水を渡しながら彼を気遣う。レオは水を飲んでから、「我々には希望が必要だ」と言った。その表情は決して明るくなかった。
「希望が大きいとその分失望も大きいわよ」
「分かってる、カリン。だが希望が無いと何も始まらない」
レオはいつもの調子でそう答えて華奢な椅子に座った。
「希望というよりむしろ怒りね」
この辺りの住人は、怒っていた。自分たちが貧しい暮らしを強いられる一方で、官僚や上級市民はいい暮らしをしている。初めは誰も声を上げなかったが、レオが活動を始めて以来、状況は少しずつ変わってきていた。
「いいか、カリン。この革命はすぐには成功しないだろう。だが、何もしなければ何も変わらない。今度、皆で宮中を囲むつもりだ」
「それで? 囲んでどうするの」
「囲むだけだ。我々の存在を宮中の連中に示せればいい」
カリンは兄の意図が分からなかった。市民が集まって宮中を取り囲む。それで何かが変わるとは思えなかった。
レオは懐から一枚の写真を取り出した。何年も前の家族写真だ。くしゃくしゃにならないようにラミネートされていたが、色は褪せていた。
「またそれ?」
「我々の原点だ」
スラム街の住民は、多くが地方の農村の出身だった。レオも例外ではない。
「私は、過去より未来のことを考えた方がいいと思うわ」
「そうだな」
農村での貧しい暮らしに耐えかねて都会にやってきた若者たち。彼らは都会で初めて格差の実態を知った。そしてその怒りの代弁者こそ、革命家レオだったのだ。
その日の夕方だった。
レオの小屋に、煤けてボロボロになった服を身にまとった男女が連れて来られた。
「レオさん、ちょっと失礼します。この二人、見てもらえませんか」
賢そうな顔立ちの少年は、右手で高い鼻の頭を擦った。
真っ直ぐな瞳の少女が、その目でレオを見つめる。
「――」
すぐには言葉が出なかった。だが一目で確信した。ずっとこの日を待っていた。
「アシカ、レモン。よく来たな」
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