地平に墜つ月の章
霧の別れ
1.無題の童話
まだ帰れるさ。森の瀬の小さな小屋で、木陰に染まっていくその前に。
「おはよう、シェミネ」
「おはよう、兄さん」
一日を始める。小さな体が忙しく動き回っている。俺はこんなにのんびりしていて良かったんだっけ。寝過ぎた頭は溶け落ちてしまいそう。朝の身支度よりも先に植物に水をやる。シェミネに声をかけられる。大きくなったわね。鉢に移した植物のことだ。そうだ、大きくなった。のんびりしていたら時間が過ぎたのだ。森と街の境目に居場所を借りて、留まり暮らし始めた。この地に馴染むくらいの時間。低い屋根の下に二人。
「シェミネは少し背が伸びた?」
「どうかしら。木々の背丈には届かなくて、いつまでも小さいままのようなの」
暮らしやすくて、時間の流れが行ったり来たりするようで、童話のようなこの小屋は、現実と現実の境目。境界からどちらに踏み出すかなんて、まだ選ばなくたっていい。夢を見ているわけではないのだから。ここはうつつ。
背中を綴じ紐で結ばれて、表紙を綺麗に飾って貰って、墨で描かれた物語は本棚に収められる。タイトルが見当たらないね。筆が入らない続きのお話。終わりはまだ来ない無題の童話。名前の付いた本と一緒に埃をかぶれば、未完成とて同じように染まるだろう。
「今日は天気が良いのでお掃除します」
箒で追い出されて、窓から中の様子を覗く。本棚の埃が落とされていく。きみはいつか、無題の童話の閉じ紐を解き、物語に手を入れるのだろうな。
幸せな物語になるといい。
きみは今幸せだろうか?
まっさらになった故郷は、きみの中でまだ暗く燃えているのか。あの日の夕暮れが続いて、長く伸びた影が足を掴む。きみは夜の中にいて、何度も巡り来る朝など夢の中の出来事として昨日の朝に踏み止まる。虚ろな太陽に手をかざして透ける赤色を確かめたって何も浮かびやしない。
あの日の夕暮れに生き続けるきみにあげられるのは、夜か、朝か。故郷の喪失。きみは火を放った同胞を恨むかい。時折森の隙間から街を覗いていることを知っている。土の家々をどう見ているのか。かつて失ったとしても、土の森はきみの体の還る場所。
森と木々に染まるその前に、もう一度街を歩いてみないか。きみの生まれを呪うことなく憎むことなく。どうか幸せであれ。
一冊の本を食卓に置いて、彼女は面白かったと語った。円いテーブルを囲む。向かい合い座る。頬杖をつけば互いの額が当たりそうなので姿勢を正して。小さな頃のようにぶらつかせた足と足が当たることも無くなった。二人きりの家で他者を挟む。他者について語る。話し終わりに彼女はいつも遠くを見る。少女は高い空を見る。同じ空を見たくて言ってみた。
「急いで選ばなくてもいいのさ」
ひとや事情は変わるし、鉢植えの植物は大きくなっていくけれど、変化を追いかけることはない。歩いていれば自然と追いつくものだから。駆け出さないように、愛しい少女の手を掴みたくなった。
「辿り着く先は同じなのでしょう」
彼女は眩しげにこちらを見る。空の鳥を見るように。もしも空ではなく鳥を見ていたのだとしたら、きみはやはり追ってはいけない。ゆっくりと、きみの時間を、人の歩幅で歩いてお行き。
渡り鳥とは時間から切り離されたもの。空と地の間に薄いガラス一枚が敷かれている。
処刑台で首を刎ねられる自分を見ていた。母木の喪失とはそういったもの。刃が落とされたというのに、何故俺はまだこの場にいるんだ。
鳥が巣に戻ってみれば寝ぐらが見当たらない。高い空でくるくると回り続けるその鳥は既に迷子。一時、地上の宿を借りたとして、失われたものを探してまた空に戻ってしまうのさ。望みが潰えていようとも。探し続けるんだ。
俺は恨んだ。そのわりに今は随分のんびり暮らしている。街も森もみな焼き払ってしまおうかと思っていた。そんなこと出来やしない。誰かの家の暖炉まで壊すには意志が足りない。こうして家を守っている方が穏やかでいい。ずっとこのまま暮らしていける。ずっととは、いつまでか? 還る場所を失い彷徨うひとびとは永遠の中に取り残された。だから、いつまでも。
世の移り変わりとは水に投げ込まれた石。石は波紋を描く。どこまでも広がっていく。笹の小舟は揺られる。投げ込まれた石の音を聞いたかい? 沈む石を見たならば備えよ。石が投げ込まれたと知らずに波と戦うならば一度遠くを見よ。森の奥で倒れた木の音を聞くものがいなければそれは倒れていないことと同じだと言えたならば良かった。ひとはみな小舟に揺られ、波に揺られ、流れを下っていく。
きみは進むだろう。流れに身を任せ、水を掬い遊ぶ。絶えない水流の恩恵を生活に取り入れる。水と共に。川はいつか果てへ。その旅路が穏やかであれ。きみを一人乗せた小舟を俺が操舵することは出来ないが、行く道を整えることは出来るんだ。だから今は、少しだけさよなら。
断たねばならない。石が投げ込まれるならばその手を、木が倒されるならばその風を。
俺は一本の木であるから、これから、少しだけそのように生きてみようと思っているんだ。つまり森の手指として、石を投げ込むその街の人の手を落としに行く。戦場に戻るならばきみとの糸を断たねばならない。またいつか会えるだろうか。俺は選んだのだろうか。森か、ひとか。散歩のような旅路だった。小さな子が育つほどの時間を歩いた。幸せなものだよ。今日までずいぶんとのんびりした。もう一度だけ、軌道の上に戻ろうか。
きみが棚から一冊の本を手に取り寝所に上がっていった。夜遅くまで火を灯しているから昼にうたた寝をしていることも知っている。眠りの延長のようなきみの日々。暗転の隙間に俺は消えよう。
留守にすることは珍しくなかった。二人で暮らすようになってからは遠出をしなかったにしても。放した鳥の帰りが遅いと不安に思わずにいておくれ。ちょっとそこまで散歩に行ったのだろうと、変わらず過ごしてくれたらいい。寝所の灯りが消された。夜が灰のように降り積もるので重い。灰を漕ぎながら玄関を開ける。月明かりが風を起こす。高い窓から空気が逃げる。こそこそと妖精が笑う。寝静まった者が起きてしまうじゃないか。
「あなたの背中の糸を切りましょうか」
こんな真夜中に。
「このままで」
切っておくれと言いかけて、言えなかった。扉を閉める。
ここはうつつ。きみの旅の終わりは故郷の炎の中だろうか。せめて灰から芽吹く木を探して育てておくれ。大きくなるから。
二人でここまで歩いて来たから、大丈夫、鳥は戻ると分かっているね。止まり木を守ろう。飛び立つための風を起こそう。風を魔法で呼ぶなら簡単なのにな。ひととして、ひとの手で風を作るには俺も不慣れだ。しかし今に天井に穴を開けて風を呼び込む。長い夜に、星や月のような穴を開けたら、季節の導がきみを呼ぶだろう。星の地図を手に、確かな道を流れてお行き。きみのための朝が待っている。夜が明けるよ。
きみを小さな家の中に置いてきた。扉を閉じてしまえばきみはいつまでも眠り続ける。箱の中の猫は死んでいて、きみは生き続ける。俺もまた空を渡るだろう。探してくれるかい。
2.箱の中の生死
炎の中に小屋一つ。扉は放たれており、熱の中で崩れ落ちた者を見た。
記憶の小箱は炭化しているが、蓋を開けば火は燃え続けている。赤光に手を伸ばす事も出来ず、本棚に置いたままになっていた。黒煙を吐く箱の埃は払ったところで再び煤を被る。外箱を掃除することで、内にしまったものは徐々に意識の外に掃き出される。ゆるやかに忘れる。忘却に罪の意識は無いか? 芯が燃え続けるのが痛みの証拠。綺麗に掃除しているならば、箱を開く時が必ず来る。彼女にとってはそれが今。星明かりと焚き火にあたっていたら、鍵がキラリと光って呼んだものだから。
口を開けた小箱は地獄の釜。火床を長く見ていれば目を盗られる。それではこの先困るから、最短を探るのだ。準備は万端。火に向かう。小屋の中、伏した人物はやがて血に浸る。熱風に巻かれ、自ら流した暖かな血に溺れていく。私は彼を助けられただろうか。シェミネは小箱を見つめる。記憶を再生するだけでは傍観していたあの日と変わらない。かつて私はその場所から逃げた。逃げた日から呼び声が続いている。木や人を焼いた火が手招くので行かねばならないのに、どう動けば彼が助かるのか考え込んで動けない。炎に溶けるは我が身か、彼か。熱源に差し出した手が霞む。両の手を反して見ると赤黒く汚れていて安心した。器用な夢物語の天使や不思議を操る幻想種ではなく、殺し生きる人なのだと確かめられる。取り繕う必要はない。この手で触れられる。奥に向かう。炎の芯に手を伸ばす。焼ける小屋の玄関をくぐり、足元の火を踏み越える。熱に感覚が叫ぶ。身が爆ぜて散らかる。小屋の中を漂う。身が熱に押しつぶされ、肺から焼けていこうとも、恐れることはない。熱風を吸って言葉を吐いた。
「懐かしい部屋。ただいま」
これは刻めなかったページ。後悔と共に背を向けた炎の夕暮れ。固く閉ざされていた時間の続きを紡ぐ。過去を懐に呼び、切れ込みを入れて綴じ直せる。あと少し。炎に伸ばした手が焼ける。爛れ、痛みを伴おうとも触れなくては。開いた赤い池に腕まで突っ込んでまさぐる。あの日、閉じられた箱の中で生死が不明になっていたままの、彼に会わなくては。
「幾夜の冷気にさらされた記憶。大丈夫、触れられる」
鳥から木へ。ひとから木へ、全ては混ざり合っていく。
「選んだのかしら、森かひとか」
暗い一本の川を歩いている。一つ見つけ、一つ落とした。流れに沿って下流へ、下流へ。落とした物も流れが運んでくれる。持ち物はだいたい全部川の中。落としたことも忘れて、ある日同じものを拾い上げて、ああそうだったと間抜けに声を上げる。何度でも川底の光を見付ける。忘れていく。思い出していく。繰り返す営み。さざ波を立てながら進む。星空の地図を読み解く。拾い上げた光を夜空に加えて孤独な星々と繋げれば、名前とともに記憶しておけるだろうか。
その日、手にした記憶の一片を星空に浮かべるために、シェミネは木に登った。星が明滅する。電球が切れる前に取り替えなくては。見上げると遥か上方の枝で小さな足が揺れている。今夜の見張りはリピアの番だ。星よりは近い隣人の元へ。
忘れ溶けていくことも一つの定め。波に揉まれる小舟よ、流れに抗うならば櫂を忘れずに。舵が効かずに小舟がくるくると回されたならば、同じように景色と星々が回る。星の導を失ったとしても、暗中すら遊び場だと笑ってしまえ。
「それで、さて、どうしたのかな」
森の奥を見ていたリピアが向き直った。隣にシェミネが座る。忘れてしまう事柄を綴じるためにと本を開いたが、綴る言葉が見付からない。言葉に辿り着くきっかけも掴めずに筆が止まる。だから今夜は見通しの良い場所に登りたくなった。
「隣で夜風に当たりたいの」
「もちろん、いいとも」
空の星を繋いでみる。雲が出ている。ピースが足りず形にならない。
「初めて会った日の夜、木の腕に座り星を眺めてお話したわね」
「覚えているよ。あの夜に決めたのさ、母木を離れ、木から木へと渡ろうと。きみたち二人もフラフラと飛んでいたから。探しものの旅ならばちょうどいい。探しものは見つかった?」
「どうやら一つ見付ける度に一つ忘れていくようなの。今夜は書き留めるつもり」
シェミネは手帳を取り出し、ペンを走らせ始めた。文字と絵が並んでいる。雑多なメモや日々が綴られていた。リピアが興味深げに覗き込んだので手渡す。絵を追ってページを遡る。旅の記録も取られており、植物や風景のスケッチについて尋ねたり、見覚えのある場所を当てたりした。
リピアは街のひとの文字を習得中だ。同時にシェミネに森の言葉と文字を教えている。メモの終わり頃は街と森の文字で取られており、森の文字で書かれた部分には目を走らせているように見える。ページを追う目の動きが一部で止まった。
「あれ、読めない」
と声が上がる。詩のようで目についたのだが、奇妙に映る。知らないだけではなく、似ているようで読めない文字が混入している。違和感の正体は見慣れた文字に加え魔女らが使う文字も組み込まれていたためだ。知っているようで意味の異なる言葉。いつか読んでみたい、リピアが言う。
リピアは街で買った詩集をポシェットに入れている。何冊か読んだ内の一冊で、捨てるに惜しいとしまい込んだ。出典は不明、古い時代の詩が何度も考察や翻訳を経て書き直された本だ。見習得の文字だけではなく、シェミネやスイであっても首をひねる表現が多用されており、解読には時間がかかるだろう。分からないまま終わるページもありそうだ。それで良いのだという。大事に持って歩いている。装丁が気に入ったらしいその本は、街の文字習得のきっかけでもある。詩集のイメージを重ねて言う。
「シェミネの言葉は詩集の余白を思わせる」
表現のために置かれた単語のインクは余白をいっそう浮き立たせるためにも働く。語らぬことを書くためにインクを垂らす。文字列が語らない色々が余白の水溜りに溶けている。図を反転させて浮かび上がるものが彼女の言葉。ひとは共通の言語を使い多種と鳴き交わすけれど、もう一つ、別の種類の言語を内に抱いている。余白のような、線のような、濃淡や歌に似た言葉。星と語るための言葉だ。そして星と繋がる者達との言葉。星に連なるものとしての自分自身と語ることが出来る。波紋を広げ、遠く光年の先に輝く別の星は、隣を歩くひとの光である。闇空の揺らぎに身をまかせる。空白に身を任せる。手帳の詩はシェミネそのものなのだろう。だからいつか読みたいとリピアが言う。
「忘れていく事柄の中にもきみは居る。記憶に出来た余白は語らないだけかもしれない。きみにはまだ読めない文字で綴られているだけかもしれない」
先頭まで戻ると、書きかけのページを開いて返した。線が数本走っている。シェミネは再び情報を足していく。線が交差し、ある部分は塗り潰される。白が残ったままの部分は何になるのかと想像しながらペン先を見つめる。図が出来上がりつつある。
「出会ったときのスイとシェミネは、きっかけを掴めないようで見ていてもどかしかった。今はどうかな。余白の文字が浮かんできたのかな」
「その一息を、言葉にしてみたくなったの」
「山に登って、やっほーと言うようなものだね」
話す間に樹上からの風景が紙の上に切り取られた。そう、声を上げてみたくなるようなものね。シェミネが答える。
「やっほー」
寝ている者を起こしてはいけないので、リピアは小声で山彦を呼んだ。返事は受けられないが、シェミネが横でやっほーと返した。
「いつだって真っさらな場所にいるきみが望んでページを埋めるのだから、小さな声でもよく響くことだろう」
「探しものの声に耳を澄ませてみるわ。リピア、ありがとう」
ページを変え、昼間見た植物の絵を描き込んでいく。その一つにリピアが反応する。
「この植物があれば良い薬を作れるね。気難しい植物だからなかなか探し当てられないんだよね。幸運だ!」
「採ってきたけれど、他の材料が足りなくて。こちらももう一息というところね」
リピアが手を打ち鳴らし、ポシェットから瓶を取り出した。
「お嬢さん、不足はこいつではございません?」
「まさしく!」
幸運だ! 少女二人はハイタッチし、しばらく手遊びをしながらそれぞれの観察力を讃えていた。
夜が明けてから、リピアは熱心に書きものをしている。文字や絵を残す習慣に興味を持ったらしい。昨夜ノートとペンを贈られたので、手付きはぎこちないが愉快そうに線を引いていく。雑草を写してはウムウムと眺めている。その横にお茶が置かれたので一服して、続きに取り掛かる。昨晩遅くまで植物と薬の話をしていたが、朝も早くに起き出したシェミネが火を見ていた。日が昇りきる頃、淹れたお茶が適温になった。
「スイ、起きてちょうだい」
「しまった、寝過ごした」
「違うの、ごめんなさい、起こしたいから起こしたの」
「これは驚いたな。いいよ。おはよう、シェミネ。お茶が入っているみたいだから一口頂いてから用事を聞こう」
彼女が手を引いて歩く。
行こう、と誘われるまま森の中を歩く。思えば手を引かれて歩くことなどなかった。スイは青い外套を半肩に引っ掛けて、軽装で散策を楽しんでいる。肌寒さが心地いい。草を採取するために立ち止まっては歩き、何に効く薬草だとか、ぽつりぽつりと話してくれている。
これは、何か探しているようだね。スイが聞く。手を引かれたまま微笑まれる。そしてまた草を分けながら歩く。木立の合間を上手く縫って、残る朝露も落とさない。こうして横顔を見ていると、森のひとを追っているように思えてくる。緑の回廊はスイが知る道に繋がったが、まだ街の領域には遠い。日差しは燦々と降り注ぐが、迷いやすい森なのだ。
彼女がついに立ち止まる。予め決めていたようにぴったりと。暫く黙っていたが、これ、と一種類の草を指した。指先を伝い示された植物を探す。見慣れぬ植物も多く、どれを指しているのか検討がつかない。
「足元にも未知の世界は広がっているものだ。注意深く見れば見るほど分からなくなる」
足元に気をつけながら二人はしゃがむ。シェミネが手袋をはめた手を伸ばし、ナイフで切った。
「これは薬。目立たないけれど、大切な材料なの」
手元で葉に埋もれそうな小さな花が揺れ、スイの目を引いた。その薬草で、シェミネは自分の肩から胸までをなぞり「痛まない?」と短く聞いた。間が空くがシェミネは気にしない。揺れる不思議な花弁を観察していたスイは、はっとして自分の肩口を掴んだ。
「これか」
外套を羽織り直そうとしたが、距離が近いとはいえ上衣を着ていれば見えはしない。傷を視認して口にしたわけではないようだった。傷痕があると知っている。覚えていたのか。あるいは思い出したということ。スイの思考が落ち着くと、シェミネは小さく頷いた。彼女がなぞってみせた線は、スイの傷痕と確かに重なる。驚いたとスイは笑い、首元を広げて僅かに傷を見せた。大丈夫。たまにしくしく痛むんだけれど、それくらい。古い傷だから。上衣を整えながら視線を外す。もしも少女が痛ましいような表情を浮かべていたらと思うと顔を上げられない。きみの前で負った傷ではあるけれど、きみのせいじゃない。言葉を付け足そうか迷って顔を上げるが、
「三分間調剤薬局。今日は既に調合したものを用意しております。あなたにあげます」
薬師は変わらぬ表情で効能と煎じ方を説明してくれた。先ほどまでの沈黙を押し出すように言葉を重ねる。ここまで聞いておいて受け取らない理由は無いでしょうとでも言うように、最後にもう一言。
「薬なのですごーく苦いわ」
「分かった。頂戴するよ。楽しみだ」
渡された瓶の中で、何かの生物の目玉が瞬いた気がしてぎょっとする。これ、植物の他に何か入っているのかな。瓶を凝視したスイに、苦いのよ、と魔法の言葉が降りかかった。
「この傷は、治らないんだ。その、生えてくるんじゃないかと思っている」
生えてくるとの奇妙な言葉にシェミネが振り返った。
「南瓜とか、西瓜とか、鳥とか。だから、治らないのさ」
帰り道。おどけてみせてから、スイは傷を負った後の話を少しだけ教えてくれた。
「あの日、猛る炎の中で、広がる血を床の木が吸っていき、還っていくのだろうと思った。家の中に」
二人それぞれの落とし物を抱えて、小屋は燃え続けた。灰に還ることもなく、雨は火を消し止めようともせず。拾うことは叶わないと諦めていた。忘れようとしていた。燃える小屋に小さな自分を落っことして、さぞ助けに行きたかっただろう。忘れもせず、捨てもせず、そして今、あなたが来てくれたから。きみが生きていてくれたから。観測は再開された。閉じられた箱の時間が動いた。この目で確かめなければならない。恐ろしくても。
子等は血の池の中にいる。炎に焼かれる。剣の山を登る。果てない地獄の風景を、蓋を開けて覗き見る。血の川の中にいる。みな赤い川の中におり、流れの果てへ還っていくのだと知る。針の山を一歩踏み出せばまた忘れてしまうのだけれども。箱の蓋を閉じてしまえば棚に戻すことも出来るのだけれども。お伽話だと遠ざけるだろうか。虚空を天使が行くのだと言う。川は果てへと繋がる。暗い海では全てが混ざり合う。還っていくのだと、誰もが一度淵に立ち身に刻む。柱に付けた傷をすっかり忘れようとも、煤で隠れようとも、燃え落ちようとも。還っていくのだと、みなが知る。その傷を、もう忘れちゃいられない。ただ進め。還る場所へと。
「終わっていく。だからもう少しだけ続けと願うの」
地の釜の淵から子等を掬って庭に放す頃合いだ。その手を離せるか。
「過去のあなたと手を繋ぎ歩いていたのね。今日までずっと一緒に。ありがとう。守ってくれて」
子供は大きくなるものだ。小さな騎士を庭に送ると、たった一人になる。隣で同じように手を振って一人になった青年が微笑む。大きくなったものね。私もあなたも。シェミネはもう一度だけ振り返る。過去と今が繋がる。小さな自分がいつの間にか大きくなっていた。どうやら一人で歩けるみたい。一人だから身軽。見通しは良好。
「森でもなく街でもない場所で育ったわ。森と暮らしていた私たちは、それでもまだ街の括りの中に有るのかしら。既に異種なのかしら」
そんなとき、分からなくなる度に、小箱の中で小さな騎士が教えてくれたのだ。
「あなたが救ってくれたのは、同じ人としての私だったのでしょうね」
人であることを煙の中で見失おうとも、何度だって問う。人か森か。人である自分を保つために封をした小箱。何度だって立ち上がる。人であり森である。肩を並べて歩くスイが、来た道を振り返りながら語る。
「火床を見つめていると時々悪魔が笑うよ。悪魔と呼ばれるようになった種は環の外に降り立ち、滅びの選択を星の軌道に置いていくという。鋼とは星から生まれ悪魔が鍛えた贈り物ではないか。火を囲う我々の街とは星の病巣なのか。環から外れた街の人とは悪魔に成り得る存在だと言われたら、その気になるだろう」
街を築く者の出自は全て環より弾かれた先にある。住処を作る力を持ちながら、生まれながらに彷徨う種である。街に住むから街の人。内に悪魔を飼うから悪魔と囁かれたならば、刷り込まれてしまうだろう。自分とは何かを定めるために、子供は耳を澄まし辺りを見回している。
「決断に際してあなたが絶ったのは森や街。守ったのは人。炎に溶けるのでもなく、鬼や悪魔でもなく、人の中に身を置くと定めたのでしょう。その上で問うのね。森か人かと。人とはなにかと」
「そして星とはなにかと」
「人としてのあなたの前で、私も一人の人として認められている。あなたを探していたの。返さなくては、繋げなくてはと」
「幼さはあの日に殺したつもりだった。きみの中に生きていたとは。自分自身というものは常に我が身の内に抱えているものだと思っていた。過去の自分は損ねて戻らないはずだった。悪魔だとしても構わなかった。この意識が払拭されることはないだろう。ただし街での営みを受け入れはしても、歓ぶわけではないことも確かだ。生まれる感情を生かし、殺し、選択した上に成る。失ったとしても、悪魔であろうとも、後悔など無いけれど、灰を被ったまま息をしていた子供が今、蠢いてくすぐったい。生きていたとは。ならば捨てた可能性を連れて行こう。問い続けよう。何者になるでもなく繰り返そう」
一つの根っこから色んな枝葉が生えるようなものと、シェミネがいつかの言葉を拾い上げた。
「きみの手を取りたかった。けれど出来なかった。俺は確かに選んだのだろう。両の手に鋼を抱え、自らが放った炎の中で生きることを。きみも、おそらく選んだのだろう。その上で問い続けるのだろう。森か人かと。きみが炎の中に身を投じる必要はないというのに。次からは声をかけて。きみの庭で落ち合おう」
過去の自分を、故郷の庭で遊ばせておこう。現在に戻って、子等の声を背中で聞く。
空にぽっかりと穴が空いていた。月は刳り抜かれており、長いこと新月の夜を歩いていたようだった。並べた星は月の抜けた穴から渦を巻いて消えていく。行く道は照らされない。来た道は闇に沈む。炎が落とした残照がいつまでも居座って、目は闇に慣れもしない。
「赤い夕暮れが終わっていく。夜の帳は月光の道を写し取る。夜が来れば月も見えるようになることでしょう。居場所が示されたならば、行きましょう、月の方角へ」
「それにしてもよく眠ったわ。長くて幸せな夢だった」
本棚にしまわれた絵本の続き。余白に短く名前をつける。こんなに幸せな旅路だったから、名前をつける。本を綴じる。
「この手をすり抜けていくから。人とは風。告げなくては。せめて別れを」
3.厳かな食事
するすると肉を削ぎ、細かな骨を断ち切った。少女二人は膝を揃えて刃の行方を見守る。
熱が積まれていく。太く白い骨が露わになっていく。空の朱はさきほど落ちた。しんしんと冷えていく。集めた枝に火がついた。
「きみたちは何故食す」
火で炙る頃には日が暮れていた。動物の解体には時間がかかった。体が冷える前に炎の前へ。
「死と生を分かつため」
目に残っていた動物の血の色もやがて闇に溶けていく。
「明日の生死を決めるため」
その闇をがさりと掻き分けて、スイが顔を出した。川に浸かって身を整えてから戻って来たので濡れている。今日は少し寒いと言って焚き火の前に座った。シェミネが毛布を渡す。葉を磨り潰していた手を一度止めて、沸いた湯を火から下ろす。
「お茶も一杯どうぞ」
三人が揃い火を囲んだ。始まりの問いの主はリピア。歌の一節のように流れ出た。死と生は自他の境目。争いの小さな終着点。闇の中で混ざり合え。己の腹が裂かれるときにはまた会おう。
「我々は夜毎選択する。食べることとは、明日生きる意志」
「選ぶのだね」
ここで振り返るわけにはいかない。
「頂こうか」
「頂きます」
「いただきます」
お待ちかね。厳かな食事風景。白骨が背中の方で笑っているから一心不乱、目の前だけ見て肉を食む。何度目の晩餐か。茶に花が浮いている。数多の骨たちが花の香りにうっとりと目を細めたら、夜の寒気も和らいだ。腹に肉が落ちていく。立ち上る煙を追って見上げる。雲の切れ目で星が瞬いた。星は天の闇から落ちてくる血の雫だろうか。森の隙間は大きな動物の胃袋。子供たちはすっぽりと収まって談笑している。
「あなたの死と生に触れるため」
なんと暗くて居心地の良い胃袋だ。シェミネは夜の胃壁を探すように体を引いた。肉はすっかり平らげられた。一つの命を分け合った、隣のひとの熱を感じる。
「きみたちの死と生に触れたい」
それは胃袋の中に。生と死がそれぞれの住処を分ける。道が分かれる前に、胃袋の中でお喋りしよう。声を上げると腹の持ち主が驚くから、小さな声で。腹の中には生ぬるい風が吹くものだ。呼吸のリズムで揺らいでいる。湿った波に身を任せていると、こつんと頭に衝撃があった。何事か。そろそろと見上げると赤みが差していた。暮れて落ち着いた時間帯。太陽が忘れ物を取りにやって来たのか。ノイズが走り、辺りを見回す。天からの飛来物、次は焚き火に飛び込んで粉を散らす。三人はどじょうを掬う動作で散った火を消す。胃袋に雨が降る。
「亡霊からの花束かい」
「噛み砕かれた骨かな。ああ、星が降ってくる」
「大粒の消化液ね。積もるかしら」
「高い場所に上ろう」
「急げ、急げ」
焚き火を消して隕石雨から逃げる。降り積もる暗黒に呑まれるとくしゃくしゃの種になって塵の海を漂うことになるらしい。手を取りながら上へ。丸い岩を積んで作られた石塔の隙間に落ち着く。星が降ってきて明るいのは幸いなこと。海面に当たった星が跳ねる。夜食を探す動物達も今日は大人しく星屑飴を舐めていることだろう。見張りもそこそこに、今日は三人で纏まって寝てしまおう。
「眠れないよ、星の夜だもの」
「言うと思った」
「こんなに明るい夜だから!」
「では少しだけね」
星の雨に照らされる。本も読めそうな明るさ。寄り合いながら思い思いの方向を見ている。窮屈な岩の隙間でも息苦しくはない。いつまでも降る星を見ているリピアの横。スイは小刀を取り出して工作を始めた。骨を削っている。器用な手元に関心したシェミネが話しかけた。
「こうして夜を過ごしていたの」
「明日や、そのまた明日の準備だよ」
「骨は何になるの」
「釣り針になるよ。きみたちにもあげよう。これから使うかも、しれないからね」
「そうね」
シェミネは頷く。星屑の海は足元の宇宙。魚影は無い。星座の魚も眠る夜。天も地も無い。出来上がった針を借りて糸を結んだ。暗い海面すれすれに針を下ろして賢人を真似る。姿を写すだけ。血肉の海で針に引っ掛けたいのだ。その日のご飯を。
「殺さずにはいられない」
魚も泳がぬ果ての暗黒。森の胃袋。石塔の胎内。食らったつもりが、食らわれてしまった。終焉の空に星は止め処なく降り続ける。溶けていくのだろう。様々な生物と混ざり合う。継ぎ接ぎの動物が星の合間を縫っていく。星座になる前の未完成の動物。白骨が笑う。お前も亡霊のようなものさ。継ぎ接ぎの動物は食事する。新たな肉を取り込んでは古い部位を切り捨てる。先日会ったあなたと今日のあなたは別な生物。分裂し統合され練りこまれ、団子になってふっくら蒸されてまた腹の中。一つの腹に収まって、スイが尋ねる。
「木に喰われるとはどんな感じ?」
「そう、こんなかんじさ」
森のひとの死に触れる。
「森に還るとき、私は消えるけれど、森の糧となる。またどこかで会えるかもね」
環を描く命の在り方を呑みこんだ。森に隠れた動物は、彼らの意思なくして再び巡り会うことなど叶わない。リピアならば、物陰に隠れていたずらを仕掛けてくるだろうけれどもね。言われてすかさずスイを小突いたリピアは嬉しそうであり、あの手この手で振り向かせるよと受けて立った。釣り糸を巻き上げたシェミネも毛布に包まり、そろそろ本当にお休みの時間。
過ぎ行くもの。愛しいもの。
川が流れていく。流れが見えるかな。ただただ黒くて。追いかけていく。闇に消えゆく流れも、行く先は同じだ。また会おう。一つの腹の中へと潜り込む。流れを手で掬う。
「今だけは時間が流れない」
指を伝ってさらさらと流れていく。
「冷たいねえ」
「寒くなってきたわね」
「時間とは流れるものだね」
「この先に何が見える?」
「黒い。ただ広がる道が」
「枝のように黒々と伸びている」
「影と光が木の葉を浮き彫りにして遊んでいる」
「光明、夜明けと黄昏の無音。世界が衣を切り替えるので、押し黙って見守る」
「魔法の言葉を囁く子供の声に自然さえ踊る」
「水の流れを信じる。いつか……」
「いつか海へ」
「知っている。世界の視点、鳥の視点、どこに向かっているのか」
「黒い道、一本の道を知っている。我々は辿っているだけ」
「どこに?」
「……何に?」
わからないけれど。いつまでたっても。きっと辿り着いても。きみに会っても。なにかが始まり、終わっても。
「探していたの、あなたを」
「ああ、そうか。でも、きみも戻って来てくれたんだな」
巡り巡る。
「きみたちは何故食す?」
「私たちはきっとまだ環の中にあるのでしょう」
「生まれは違うがきみたちも命だ。巡り巡ってまたどこかで会おうね」
「一つの胃袋の中にあるのだから会えるだろうね」
「溶け合ってあなたが誰だか気付かないかもしれないわ」
「溶けてしまったならばそれはそれ」
「探してみるわ」
「追って来てね」
「これが食べるということ」
「これが、生きるということ」
4.涙雨、発つ孤舟
雨の中を走る、走る。小糠雨を纏いリピアが踊る。
進もうか、止まろうか。陽炎を追って急ぐと風邪をひくよ。親父の小言と小糠雨はあとで効く。泳げそうなほどの湿り気。突き出している岩は鯨の口先、黒々と空睨む。飛び台にしてリピアが跳ねる。伸ばした指先が軌跡を白く引いていった。
「もうすぐなのでしょう」
「行こう、行こう」
昨日血を流した川は透明な色をして動物たちの生死など素知らぬふり。川は運ぶ。みんなの秘密を透明にしながら。川に流したものは留まらない。川の水を瓶に汲む。出立の準備も整った。
森を抜けひたすら草原が続く。影の鳥が抜けていく。取りかこむ山々は青く寒々と聳える。この道で色彩を取り落とす来訪者は多い。
川のように透明な雨が降る。昨日のことなんて忘れてしまうのさ。
街道に出た三人は、王都の方角への目印となる立木を目指す。スイがよく知る道なのだが、雨のスクリーンが様々な幻想を映し出し境界越しの異界が可視のものとなっている。本当に王都に向かう道なのだろうか? 夢の続き、童話の一節なのではなかろうか。上映会場は正午前ながら幕に覆われ暗い。雨に映り込みながら飛ぶ龍。山の木々に群がる虫。風の描線に乗る猿。雨を集める河童。足元を見れば雨宿りの真似をする妖精が纏わりついている。ひととひとの間を抜けるうちに自らも変質したのではないだろうか。握る手の平や踏み出す足は自分自身のもので、よく言うことを聞くというのに、見知らぬ生物でもあるのだ。見えるものが変わった。あるいは認識する範囲が広がった。今の自分とは何者なのだろう。スクリーンに映し出される景色はいずれ忘れる夢だろうか。隣を盗み見る。同じものが見えているかどうかも分からない。警戒も恐れも無くひょうひょうと小走りを続けている。
「――?」
怪奇を眺めていたら誰かの声を聞き逃した。いいんだ。雨の日とはこんなもの。
幻想は雨が止めば消えてしまうだろうか。触れようとすれば逃げて行くだろうか。なかなかいい景色だ。夢でもいいか。スクリーンのお伽話を楽しもう。水溜りの魚と目が合った。笑いかけそうになったがやめた。雨に体を重くしながらやけに温かな心地だ。
「失われた時代の走馬灯のようだよ」
「戻りたい場所はあった?」
首を降ったら隣の少女は笑ってくれた。魚があぶくを吐く。泥の泡が弾ける音だけが上映会場に響く。幻想の前に立ち止まりはしない。前から後ろへと流れる事象を目の端に留めるだけ。絵巻物が繰られる。場面を区切る雲を掻き分け次へ。平面な幻想たちの井戸端会議を邪魔しないようにさらに次へ。リピアが羽ばたき風に乗る真似をした。
「夢幻はひとがたなびかせる尾。ひとの後に優美に広がっていくもの。今日は背中から風が吹いているから、後方の出来事も見える。去った過去に包まれることもある」
涙の銀幕に描くのは誰か。過ぎたものが涙したなら、腐らぬように花を乗せた風を送ろう。天が泣こうと旅路を信じる。
「この手で拭ってあげられなくてごめんね」
天の涙は地の掌からも溢れる。忘れられた動物たちの涙に尊き人でも言葉を失う。銀幕の向こうの影は現実に落ちているのにどうしてこうも遠いのか。両の手から溢れていく。海が誰かの掌ならば、みな受け止めて貰えるだろう。ひとの掌が海となるなら、天や過去やきみの涙は確かに受け止めた。安心して泣いておくれ。涙を捕まえた小さな手を握り締め走る。
「雨で濡れた体は重いかい」
「海を行くよう」
「涙の海はなんて静かなんだ」
「悲しいほどに」
「道標が見えた。もう一走りだよ」
「おや、風向きが」
変わったと、リピアが言い切る前に煙る雨が途切れていく。たなびく尾は風に従う。導の木が雲間に浮かんでいる。近付くほどに雨は薄れ、駆け足から並み足に。海から上がると大気は温い。雨で落とされた色彩が虹となり消えた。呼吸を整える。一本の木の下に辿り着く。
5.岩礁の銀花
雨宿りだと腰を降ろすと雲が切れた。僅かに晴れた午後だった。
「おい、こら、きみたち」
頭上から声が降ってきた。木の上から。スイは飛び上がり少女二人を背に庇いながら距離を取る。ぎろりと木を睨み、かさかさと鳴る葉の間から覗く顔に気付く。樹上の生物がにかりと笑った。ほんの一瞬。「なんと」とスイが低く声を漏らして、背後に隠した少女の肩をむんずと掴んで前に押し出す。立ち位置が入れ替わった。矢面に立たされてシェミネがスイを振り返る。肩に置かれたままの手が、樹上を指差す。目を白黒させるシェミネが、乱れる木の葉の間にようやくその人を認めて、探してここまで来た道のりが彼に結びついて、
「ああ、きれいね。兄さん」
やっと声をかけた。
背中の糸を切りましょうか。シェミネが言うと、それまで木の上でそわそわと落ち着かなかったフクロウは、素直にバタリと地面に降りてきた。木漏れ日が木から落っこちてきた。きれいねとシェミネが言ったその人の姿、銀色の花。陽光に焦がされてしまわないように、木の陰の中で掴まえる。道の導の小さな木の下で、儚い木漏れ日を掬う。幻だろうか。霧が出てきた。手を取ると、帰ってきたよと、家で交わしたような挨拶がこだまする。幻だろうか。指の先が温かい。森に住んでいた頃、海のような木漏れ日を泳いだ子供の日は、やはりこの手を取って森を泳いでいた。あれは薬、あれは毒、少しだけ混ぜると薬、長い指がゆっくりと草を分けていく。森の木々が身を反らし、退いていく。指先が最後に示した分かれ道の小さな木、ここは取り残された海。引く波と一緒に帰れずに、陸に残った潮の溜まり。日に照らされては気化してしまう。一つの風も立ててはならぬ。白波から零れる一滴も逃したくない。忘れられた海の切れ端で、過去と今を繋いで、溺れるように彼は言う。
「すまないね。頼む、よ」
いつもの距離で、声を聞いては、陰の中で、一筋涙も溢そうか。海の足しになればと。
木漏れ日を掬い上げて、海に返そう。シェミネは片手を解き、まだるげに腰のポーチをかき混ぜて、小さなナイフを取り出した。
妹が顔を下げたとき、後方で身構えるスイとフクロウの目が合った。それからスイの後ろから丸い目を向けてくる小さな太陽の様子も伺う。昼間に降り立った夜の鳥が、眩しそうに、眠そうに、一度瞬きしてから、妹と繋がれた片手を解き、背を向けた。背中の糸を切りましょうか、と。反芻する前にぱちり。記憶の絡んだ糸を切る。あの日の糸を紡ぎ直す。大丈夫よ、とシェミネ。
「辿り着く先は同じなのでしょう」
糸を切られ、軽くなる。足がふわふわするだろう。ひとは時々鳥になるんだ。
しっかりと羽ばたかねばならないね。
夢を見ているようなのだ。黒い衣の背中に木が見える。鳥が去った骨張った枝が。青く霞む森をこの背中が背負っていた。記憶の絡んだ糸を切る。あの日の糸を紡ぎ直す。
「兄さん、大丈夫よ」
鳥になって、飛べるのだろう。風に散った木の葉は戻らない。朝に出掛けた鳥は夕に帰る。鳥が集えば、幻のように枯れ木に花が咲く。
「今、誰にも見えない空を見ていたわ」
「もう少し眠っておいで、幸せな夢だったんだろう」
「兄さん」
「もうじき夜が明けるよ」
森か、ひとか。選んだのだろうか。選んだのだろう。そして、夢のままでいい。我々とは夢のようなものなのだから。
「この先は王都。きみたちはお帰り」
手繰る糸が切れたならば。微かな声で子等を制す。
「日向の二人。今、俺はきみたちそれぞれに名乗れない。許しておくれ。頼めた義理ではないが、妹を宜しく頼む」
青年と子供がそれぞれに頷く。シェミネ、彼らに俺を紹介しておいてくれ。フクロウが目を細める。日差しが暖かいな。一歩踏み出せば忘れてしまうけれど。幸福とは、昼間に見る夢なのか。
「雨の後に霧が出るんだ。霧狼に気をつけな。膝まで伸びた草の中で待ち構えているぜ。がぶりと食いつかれると、色んなことを忘れちまうんだ」
惜しみもう一度両の腕に収めて問う。
「俺とは夢だろうか」
「鳥は空に隠れ、動物は木と同化する。それは夢。そして私とは夢。夢に溶けようとも、繋がっていると思うの。全ては夢。探します、あなたのこと」
「どうもありがとう、探してくれて。糸が切れたから、一歩先でいつもきみを待つよ」
何度か妹の名前を呼んで、ホウホウと森にこだまするフクロウの声が、波に一粒ずつ散り、残された海は霧となり消える。
三人はいまいちど木陰に身を寄せ、言葉少なに行き先を確認し合う。
6.忘却の草原
「きみはどこへ」
話さなくては。きみがどこにいるのか忘れてしまいそうだから。
「あなたは、どこへ」
「忘れてしまうかな?」
「いつかは」
「風に聞かせましょう」
居場所はいつも変わるから、問いかけて、声を上げて、答えに耳を澄ませて。風に話しかける。忘れてしまうけれど、声にしてみる。ひと吹きの風になる。
「忘れてしまうことは怖いけれど、そっくり置いて行くのも良いのでしょうね」
シェミネの言葉に周波数を合わせて、荷物を確かめたら立ち上がる。体の泥を払い合う。一歩先は忘却の草原。霧の草原を下りきると王都が見える。がらんと空いた草原に立つ。景色がうら淋しい。白化した草で肌を擦る。草で覆われた足元に重なるのは忘失の品。色は褪せ意味を失い、脆い体で転がりがらんどうな腹を晒している。踏み抜いて微かな身震いが伝わる。白浜に落ちる涙は誰にも悟られない。振り返っても落し物が誰の所有物だったか知る術は無い。自分が落とした物さえも、音もなく残骸の浜に沈むのだろう。遺し進む。繋がりも足跡も草原が攫っていき、自分に残るものは何一つ無い。怖くもない。
「この先に、海はきっとあって、みなそこを目指すのでしょう」
遠吠えが湧いて風が散った。草葉のコンパスは狂乱する。気流に揉まれて声が飛ばされていく。無線は平坦なノイズを垂れ流す。狩猟場に捕らわれた。霧狼がやって来る。狼の笑い声が接近する。
「私とは鳥。私とは風」
狼に答えるようにリピアが言葉を放った。群れを作り渡る鳥が、風に溶けてなお飛び続ける。呼び合う相手がいながら一人きり。一人きりだから鳴いて確かめる。反響を頼りに渡る。霧の中は狼の縄張り。住処を横切るのだから目が合ってしまったらひとまず挨拶を。ここを通らせて下さい。大事なことも、そうでもないことも皿に盛って献上する。眠る草原に足音を響かせる代償を恭しく納める。
「そこにいるの」
「いるとも」
残骸を含み撒き上がる咆哮が耳元に迫る。彼らも彼らの言葉で何事か交わしているのだろう。三人も頷き短く交わす。進路は定まっている。霧を渡る。
「手を繋ごうか」
忘却の草原を三人は手を繋ぎ渡る。道連れの記憶が最後まで残るように。もしも忘れてしまっても、手を繋いでいるのだから体温で挨拶しよう。忘れる度に初めましてと。何度でも出会うだろう。この旅路を忘れたくない。いつかは忘れてしまうけれど。
幸福は一歩歩けば忘れる。川に落っことして、流れが運んだものをまた拾うのだろう。幸福とはここにある。透明な流れが含み抱え磨いてくれているのなら、わざわざ拾い上げることもないのかもしれない。流れに預ける。失ったものは戻らない。草原の骸は淋しげ。幸福であっても良いのかしら。狼に巻かれて呟いた。シェミネは一頭ずつ撫でてやっては切り離す。たまに振り返る。霧に呑まれたものを探す余裕がある。リピアが狼と挨拶を交わしている。数は少ないが、彼らには共通の言葉が残されている。
「大丈夫だよ。幸福とは誰かから奪うことも出来ず、奪われることもない。幸福は流体だ。止まることはない。水とともにこの手からすり抜けていくんだね。川底で小石がきらりと光るだろ。何かなって思って拾うだろ。光に当てるともっと綺麗だったり、水の中で見た色と違ったりもする。楽しくなったり驚かされたりする。そんなもんでいい」
川で魚の影を見る。森で獣と目が合う。季節の花に会いに行く。幸福の尻尾を見る。道の途中で立ち止まって石を拾ったり、振り返って木を見上げたりする。幸福ってそんなもの。幸福の尾を掴んだ。今ここに留まればずっと幸せだ。しかしこの場の幸福には別れを告げて進もう。染まると本当に風になって消えてしまう。見届けなくてはならないことがあるから、もう少し羽ばたきたい。だから翼は奪わないでおくれ。狼が笑う。霧の住人にも幸福は奪えない。そんなことは知っているだろと、幻界の狼と森のひとは、異種間の約束事を確かめ合う。
空になる。皿の中身は平らげられ、霧狼は満足げに喉を鳴らす。器を霧で洗う。器ごと散っていく。空っぽになったなら、これからの出来事全てをまっさらな部屋に連れて行ける。
「王都に行くんだね」
スイが最後と言うように確認をした。たまに膝にごつんと当たる狼に声を上げながらシェミネは答える。
「行くわ」
忘却の歯型が残りはしなかった。噛みちぎり食い散らかされ野に干からびるのかと恐れていたから、ナイフとフォークを持つような狼たちの食事風景は静かなもので、霧の景色に相応しい。霧が景色を呑むように分け隔てなく舐め取られる。綺麗に平らげられた皿を下げると気付くだろう。我々が初めに持っていた皿は、形の無い虚なのだと。
「これが幸福というやつなんだなあ」
守られた約束について、リピアが緊張とともに吐き出した。確かに幸福とは定められた死の先にあった。けれど他の場所にもあったみたいだね。元の形には戻らないけれどもさ。落っことしたドングリが芽吹いてさわさわと葉っぱを揺らしていてやっと気付くようなもの。
霧狼の野を抜けて王都に向かうルートを選ぶ者は、フクロウが止まっていた平野の一本木を目指す。目印とは言え主街道から離れていて探し当てるには難しく、ひとびとは霧狼を恐れるためよほどの理由がある者でなければ近付かない。異種の縄張りを横切る以外は、危険な地形も無く、王都の兵や行き交う者との遭遇を避けられる比較的無難な道だ。狼の機嫌が良かったのだろうか。運のいい旅人は難題への不安も一つ片付き、次の道を確認し合う。王都の兵に追い回されたくないリピアも、いつになく慎重に状況の整理をしている。城下の警戒は厳重ではないし、余程暴れなければ入る分には問題無い。城に近付かなければ街で兵に会うこともほとんど無い。
「ああ心配だ」
問題なのは、街から出られなくなることなのだ。あの街は生き物だから。スイが念押しする。腹に入ると口をこじ開けなくては出られない。城下に眠る怪物は、街の人が生み出した魔術や混沌そのものだと言われる。物の怪や妖精が路地の向こうに通路を作り行き来しているだとか、部屋の隣に住み着いているだとか、真面目な顔で話しても冗談だと笑う者はいない。
「街の魔法を見てみれば、きみたちがどこから来てどこに行くのか、未来を覗けそうな気がしないかい」
同胞の墓参りではないよ。眉間に皺を寄せるスイをリピアがよしよしと言って撫でる。
「スイは魔法を恐れる?」
「その絶対的な力の前に竦まない戦士は勇敢だ。でも、リピアの呪文は隣人の歌声だ。きみの歌声を戦場でも探そう」
「荒ぶる神でもなく森のひとでもなく、ただ一人のひととして、隣人として旅路を共にしてくれてありがとう」
「きみには助けられた。ありがとう」
「リピア様って呼んでもいいよ」
えへんと精一杯大きくなってみせると、スイの心配も引っ込んだ。
「いいよ。リピア様。スイ様って呼ぶ?」
「我らがおとうさま」
「まいったねえ」
「まいったねえ」
冗談に笑っていると、不意にリピアが飛びかかってくる。捕まえようと腕を伸ばすが、するりと抜けられ、肩の位置に落ち着いた。
「空が近いねえ。とても静かだよ。スイの見ている世界は眩しいくらいに静かだ」
「きみたちの声が聞こえているよ。せめて高く飛ぶ鳥をいつまでも見送ろう。日陰を作ってあげるから、降りておいで」
「街はざわめきに満ちている。けれどみんなこんなにも静かな世界にいるのだろうか」
「あるいはそうかもしれない」
「ここは道の途中なんだ」
スイの肩にぶら下がり揺られる。静かな空に言葉を失ったリピアが、低い位置に降りて落ち着いた。息を吐く。
「色々な道を踏み外した先が極楽浄土だなんて、思ったかい」
霧に呑まれ、眩しい光が寄せ、静かで真っ白い未来が胸の中に生まれた。一歩進むごとに霧を散らす。忘れていく。思い出していく。それでいい。縁取られた陽だまりの中に隣人の世界がある。縁を一歩越えると空気も変わる。虚空を魚が泳ぐ。境界を縫う旅路。あちら側から見た自分たちの住処にはひとの気配がまるで無い。遠い空から見下ろす寂しさ。名前を付けて慈しんだものたちを、名前の無い場所に帰してやる必要がある。一人きりだから、魚となり鳥となり木々になる。進んでいけ。それが道。幸福とは身の内に抱えずとも歩く先々で見付かるから、旅路は身軽なままでいい。踏み出そう。月が落とした陰の中に。これは夢だろうか。過ぎた魚の陰を追いかける必要はない。空が広がっている。夢であり現実。隣人の世界を渡り歩く。
「この旅路は二度と辿ることは出来ない。日向はいつも移ろうから。季節と旅をしよう。影を踏んで遊ぶ。木漏れ日を追いかける。虚空を進め」
忘却の草原を行く。一歩ごとに手放していく。ポケットの穴からドングリが落ちる。振り返りはしない。忘れていくのだから。いつか森になったとき、ふと見上げることもあるだろう。子供たちのポケットから零れた拾い物で出来た小さな森。動物が住み着くといい。
「ひとは時々鳥になり、風になり、また木にもなる」
感覚を木の枝のように広げて、リピアは詠い紡いでいく。街の魔法の腹の中、終わらぬ夜の月である白銀のフクロウの影を指して言う。
「シェミネ、きみにしか彼は追えないのだろう。森と街と魔女の旅路。きみは運命に従う者のあるがままを受け入れる。きみは彼の止まり木。彼はそのことに気付いていないのだろうけれど。いつ気付くのかな。きみは追わなくては」
夜を追い、眠らぬ月が輝く白黒の景色に踏み込んでいく。ずぶずぶと濡れて沈んでいく。身の重さを感じる。地に足が着く。現実とは重さのこと。手中の空白の重さにリピアが気付く。
「ああ、そうか。きみは誰にも見えない空を見ている。鳥が飛び立ち、木はすっかり葉を落とし……それは虚空の三角州。無為の地で待つ小鳥。空白の小鳥の名前を知っていた気がする。我々は虚ろな皿を持ち、空白をあらかじめ持っている。空白が波打っている」
「世界の始まりは海なのだというわ。深くゆらぐ粒子の苗床」
「そこから来たのか」
「どこに行くんだろう」
明日の真っ白いこと。昨日は泡のように水面を目指す。浄土はどちらか。現実とは重さ。沈まぬ月が水面に辿り着くまでは、お祭りが続く。子供たちも眠らない。月の糸を切ったから、天へ地へ、白いフクロウは染まっていける。兄について少女が語る。彼は幼い頃より手を引いてくれていた。不器用ながら手を繋ぎ歩くことを望む人だったと。
「真夜中に飛び立った彼を見送ります」
子供の時間に別れを告げる。遊び笑う姿を見届けたら箱に閉じ込めて封をする。子供を幸せな庭に置いて、外界への門を抜けよう。幸せってなんだったかな。
「今こうしていられること。これまでの選択全てを抱えた上でまだ続く道が見える」
「触れられないとしても、今なら躊躇わず手を伸ばせる」
「星とともにあること。たとえ飛ぶ鳥でも、地面との繋がりは途切れない」
草を踏み分けて蛇行した線を描く。霧に午後の光は遮られ、水中を行く心地。川が窪みをなぞるように、低い場所を選びながら慎重に道をつける。行き先は決まっている。
「行っても良いだろうか」
「歩き続ける生に祝福を」
狼の鼻先を撫でながら彼らの住処を横切る。狼の腹に入った思い出は螺旋の階段を抜けて黒い箱の丘に流れ込むのだろう。腹を覗けば深淵が広がるが、失うことはそれほど怖くはない。裂けた狼の口が語る。
「過去に決別を。過去に溶けたり、切り離し身から削ぐことなく抱えていくために。すると、断片化したように感じる日々に芯が通る」
手に触れる草を引き抜いて葉を数える。青い香りが手に残る。
「彼はきみの兄として我々に言葉を向けた。俺はきみの旅路を守るよ」
きみがいるから幸せなのではない。自ら立ち上がって広がった景色に、同じくらいの背丈になったきみの頭があるから、ああきちんと立ち上がれたのだなと分かって、それがまた力になるものなのだ。
幸せとは動物のようなものだ。手からすり抜ける。捕まえることは出来ない。幸せの頭も立ち上がった景色の中にあると気付いて、この場所に揃った様々なものの顔ぶれに満足する。
「幸福だけが風に乗り残ればいい。理想や夢も、霧の侵食に任せて」
「いつか海へ。あなたにはあなたの道があるのでしょう」
「道が見えるよ。ひととひと、異種と幻想の間に延びた旅路がまだ続いているように見えるんだ。預けるから。俺は行ってもいいだろうか」
「恐れないでね、スイ。私はあなたとその剣を信じます」
この旅路は故郷を失った日の続き。今の上にあるようでいて、随分遠くまで来たようでいて、伸びた影を踏んでいただけだった。私もまた帰る場所を失った鳥だった。喪失と言葉にするのも寂しいものね。だから失ったものには鳥と名前を付けて、空に飛ばしてやる。
「シェミネ、きみの探しものは見付かった?」
狼たちが駆け抜けて、草原は徐々に静かになり、しんがりの一匹もくるりと輪を描いて霧の中に消えた。あ、とシェミネ。幸せとは風。いま、幸せが頬を撫でて通った。
「スイ、探しもの、見つかったわ」
言葉にしよう。風に流そう。届くように。
「幸福には形が無くて、今もつむじ風と踊っているけれど、この旅路の上に、確かに幾つもの幸せを見たわ」
「俺にも見えたよ。風の尾が。魔法の切れ端なのだろうか」
「きみたちの中に眠っていたものさ」
リピアがそっと教えてくれたのは、煌く魔法。隣人の歌声。風が見えると、空間はステンドグラスのように裂かれていると気付く。風の通り道を隔てて隣のきみの手を握るには遠い距離がある。届けようとしても届かないのか。両の手に収めるものは、幸福や過去や隣の誰かの片手ではなく、何も無くていい。忘却のついでに空虚に挨拶する。ここは地図の継ぎ目に隠された、空白の地点。観測されない隙間に建てる秘密基地。置いて行くものは無いから、朽ちるものも無い。子供心が疼いたら、幸福の尾をさっと掴んでこの場所に来られる。思い出すことが出来たなら。背が伸びると見える景色が変わるけれど、入り口の目印まで視点を下げたなら、ドアノブはすぐに見付かる。探し続けるのだ。空の器にも黙って収まっていられない幸福の尾を。探すことすら忘れてしまったら、空白の基地は世界の果てが迫るまで眠らせておこう。空白は夢を見続けるだろうから。継ぎ接ぎの地図には夢が敷かれている。子供たちが隠した幸せな夢は、陽も当たらぬまっさらな空間で芽も出さずに眠り続ける。
「失くした昔をきみが抱え連れていてくれたように、この空白の散歩道も守っていてくれるのだろうね」
「大切に預かるわ。きっとあなたが戻って来られるように」
「夢から醒めたなら、俺はさらに多くのひとを殺すだろう」
「あなたはあなたの生まれを否定しないわ」
「探してくれるかい」
「探します。あなたが私を探していてくれたように」
木の実の貯蔵庫を忘れた栗鼠は森の植林の貢献者だが、もしも彼が貯蔵庫を思い出せずに飢えたとしても笑い飛ばさずにいてほしい。誰もが世界に落ちたその日から、多くの忘れものをするものだ。手の届かない穴に落っこちたおにぎりに涙を流し、いつか回収するからと遠ざかった約束が霞んでは涙を流し、ふと我が身をまじまじ見つめると子供らしさが硬く縮こまり乾いていたから涙を流し。不安定に組んでしまった足場が揺れて、それでも建て続けるべきか、諦めて壊すか、飛び降りようか。選択は月が欠けた分、降り積もり重なる。止まらぬ満ち欠け。
「ひとは泣きながら生きるのだけれどもね。小舟が浮かぶ川は、どれくらいが涙で出来ているのだろう」
もうすぐ街の灯りが見えるよ、とスイ。繋いでいた手を解き、少女たちの行き先を指差す。地平に蠢く夜はすぐそこ。あの日の夕暮れが常夜の街へと繋がる。この旅路は散歩道だという。夕暮れの散歩道。故郷はまだ暗く燃えているか。忘れてみるのも良いのかもしれない。未だ見ぬ王都が迫る。星々の軌道に乗る。夜の中に一点の星を探して、きみの中に終わりがあると思っているんだと告げる。お散歩もひとまずお終いね。星を探しながらシェミネ。
大丈夫かなあ。
大丈夫よ。
そうだね。
蟻の行列の背中に乗って、絶えない草原のざわめきに紛れて、世界に滲み透る幸福や涙の粒。季節もひとも移ろうものだけれど、この場所に戻って来られる。旅路を守ってきた青年が立ち止まる。二人に向き直った。少女らは手を繋いだまま姿勢を正す。
「……俺は、ここまでだ」
一歩二歩、遠ざかってから思い出したように振り返る。
「海へ行きたいな」
手を上げて、今度こそ振り返らない。もう少しだけ続けと願い、霧を纏い別れを告げた。さよなら、と。
幸福は流れる。我々もまた流体である。迷い子よ、きみの瞳は曇ってはいない。まだ流れる生命のうちの一つなのだ。
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