少女二人のただいま
1.舞台袖より
「スイは川に飛び込んで行ってしまったね」
「相変わらずね」
「うん。だから追わなくても大丈夫」
痩せ細った月、次にお前が現れるとき、同じ月のままなのか。眠りから目覚めた自分が同じものだと言い切れない。自分自身から手を離し、夜明けと共に繋ぎ直した意識の空白をどう埋めよう。それは例えば夢などで。あるいは約束などで。離した手に再び巡り会うことが無くても落胆はしない。夜明けの残酷な光のことなど、今は忘却の遥か彼方にあるのだから平気。目の前の夜に向かって一歩また一歩。明かりが弱くなっていく。夜の先に朝が無くとも奥へ。星が非常灯のように遠慮がちに瞬く。しがらみには羽を生やして逃してやった。少女たちがこそこそと笑う。闇に包まれると高揚する、と言わんばかりに。開演前の騒めき。
「ここでいいの?」
「迷わないようにね」
「迷わないよ」
「忘れないようにね」
「手を繋いでくれる?」
荷物を置いて、空いた手を伸ばす。これから語られる転換を見届けるためにやって来たけれど、その前にちょっとばかり街の幻想を堪能しよう。
「そうしましょう」
「では行こう」
身軽な二人。互いが飛んで行かないようにと手を握って、まずは喫茶店でも探しましょう、などと話しながら扉の向こうへ。袖幕を揺らさぬように舞台上へと。
大通りには宿屋が大きな看板を出していたので、滞在の拠点を探すには苦労しなかった。常夜の街は近寄りがたい闇で稀の旅人を迎えたが、入ってみれば生活が営まれる人の街であり、ひとである以上拒まれはしない。
リピアは深めに被ったフードの中できょろきょろと街を見回した。正門を避けて入市した少女二人は、幹の通りを選んで進み、スイの事前の勧めに従い大通りへと向かった。利用者の少ない通りから街の中枢部へと向かうにつれ、すれ違う人数が増えていく。影の流れに交わる。
常夜の街と聞いていたから、手元も見えない暗がりを歩くことになるのだろうかと心配していた。山野を抜けて来た旅人も、夜は月とカンテラが無ければ進めない。夜歩きなどする切迫した状況に陥ることも稀で、暗中の行軍には不慣れである。カンテラの燃料を確認していざと向かった王の膝元は、しかし案じた漆黒の胃ではなく、随所に仄かな光が落ちている。腹の膜をすり抜け届いた光が丸まって眠っている。暗闇をそれほど苦にしないリピアはもちろんシェミネもカンテラを引っ込めて十分に歩ける。
目が慣れたらもう少し街を歩こうよとリピアが誘った。少女二人、楽しげに夜を遊ぶ。今は宿の次に目指した喫茶店に収まり一服している。スイが情報収集と言ってお茶を飲みに行くのに付き合ううちに、揃ってぞろぞろと店を探すようになったのだった。この旅路でついた癖のようなものだから、彼が不在となった今でも続く。スイはひとの出入りが多い店の、会話を拾いやすく、それほど目立たない席を選んで座った。これは好みというよりも便宜上のものである。彼が選ぶであろう場所に陣取り、以降この街での滞在中は同じ席を憩いの場とする。
2.夜のカフェテラスより
蝶の翅を織って仕立てて、龍に着せる衣としたと。
そんな昔話になぞらえた噂の一つ。曰く、一つの生物を作り上げるほどの業の深さを持つために、王は異形に見初められた。祝福として送られたのが夜の王衣だとか……。少女らそれぞれが断片的に聞き取った情報をかき集め、繋ぎ直している。街歩きには彩りが必要だ。闇の中で思うように動けないから、口伝えの物語集めにも熱が入る。
また別の話題も聞こえてくる。少女らは料理を頬張りながら耳をそばだてる。
足元の影が消えてしまったら、守るものも無くなった。恐れるものの無い夜の道を歩む人々について。曰く、我々は腹の中の生命だと。
路地に迷い込んだことはあるか? 無いだろうな、お前さんがここにいるということは。路地の鼠を追いかけて、帰って来なくなった奴がいたよ。どんな顔だったかな。何人いただろう。複数の者が帰らなくなった事は確かだが、誰が誰だったか判別し難い。奴らを示す要素が、沈んだ舟の周りに浮かんでいる。断片的なカードをどのように組み合わせたら元の個に戻せるのだろう。そんなものだろうか、記憶から去った者とは。街の奥でよろしくやっているのだろうか? 帰らぬ者の噂を聞く度に、ここは既に腹の中なのだと怖れが染み入ってくる。
「冗談じゃあないぜ、酒が回ったのかい!」
「なんの、まだまだ」
昼か夜かなど悩まない。心行くまで酒を嘗める。彼らは出来事に気付いているだけで、知っているわけではない。昨日あった道が今日は無い。街は常に胎動しており、細路地に入ろうものならあっという間に現在地を見失う。複雑な海流にさらわれると、元の場所に戻ることは難しい。なにしろ流されたことにすら気付かない。意識を街に食われてしまう。街は生物だ。しかし腹にあることを恐ろしいとは感じない。奇妙な街だと思わない。侵食されて、思考の道まで作り変わる。街の変動にも緩急があり、骨組みに近い部分は空間の歪みが少ない。幹の通りは航路のようなものだという。常にひとの往来があったり、要となる物質がある場所では、多数の目により認識や道理は比較的保たれている。
幹の道を幾つか過ぎた先に王城が佇んでいる。兵は城の周囲に住居を構える。王城や城下と呼ばれる地域は壁に囲われていて、その中に兵舎も含む。壁の中は街の侵食が入り込まない。兵らも目的が無ければ街には出ない。
先に建ったのは城であり、取り巻く街は後に発生したという。山を桶状にくり抜いた地形で、壁面は垂直に削ぎ落とされている。自然が作り出した難所に、粗末な拠点を設けたのが始まりだった。桶底には小さな台地がある。盛り上がりを生かして見た目よりも巨大な建造物に見える居所を、王は手早く整えた。その頃王は傭兵の一人でしかなかったが、衆人の前に立ち、理想を説き、鼓舞するうちに高い場所へと押し上げられていった。傭兵らには先導者が必要だった。地形の有利が戦いの役に立ち、王が拠点に長居するようになると、傭兵らは設備をどんどん加えて要塞として作り上げ、守りが整うと居住区も整えて城が出来上がっていった。飾り気も愛嬌も無いが頑健で、見晴らしは桶の底としては悪くない。城がぽつんとあるだけだった桶の中に、水が湧くように人が増えていった。王が青年時代から壮年を駆け抜けて息が切れて立ち止まる頃には、孤独な要塞をぐるりと取り囲んで、欲望の波が揺れていた。王と呼ばれるようになった初老の男がある日街を眺めて呟いたという。
「この街や城は生きるために纏った鎧か。あるいは追い詰められて逃げ、城の奥に押し込められただけなのか。俺には自ら築いたものだと言い切れない」
偶像を背負った王は、自らの手の届かない街を好いていたようにも思える。だからこそ好きに膨れるままにした。街も含めて王都と一括りにされるから表向きは治めていることになっている。だから王もわざわざ公言はしないのだが、街を独立した個体として認めているのだという。
街も元は変哲のない住居の集まりだった。人が住み着くのだから、他の生物だって住み着く。街が広がり生物も成長する。生物が大口を開けて呑むと夜が降り、腹の中に収まった。
街が生物であっても街から見た城はそそり立ち霞む権威の象徴。王が街を認めるように、生物も王を侵さぬものと認めたらしい。とぐろを巻いて居城を取り囲み、回り続けているという。城は波間の孤島だった。兵らは奇妙な街をその危険性から嫌いはするが、堀よりも広大で人を寄せ付けない生物との共生関係に守られている。
桶に雨水が溜まるように発生した闇の街。街の奥はどうなっているのか?
「彼らは街の奥から現れる」
深部の住人について語る者がいる。闇を自由に渡り歩き、城の討伐隊を幾度も細路地に引き込んだ。帰って来る兵はいないという。亡霊が住んでいて生者を食い尽くすだとか、どの街の裏道にもありそうな噂だが、この街では亡霊も実体化して隣で笑っていたって不思議ではない。生者すら亡霊のようなものだ。だから街の者は亡霊をそれほど恐れない。
夜の鳥の話は冗談混じりに伝えられる。膝元の街に鳥を撃ち落そうと躍起になる者はいない。首を取れば金を貰えるとふれが回ったが、挑んだところで返り討ちだ。入りたくないような路地をすいすい逃げ回り、ひょうひょうと笑ってあしらわれることもあるらしい。格が違うのだし、だいたい彼らは金よりも愉快な娯楽を繰り広げてくれるのだから、そうそう簡単に撃ち落とされてはならない。追いかけ回す者も今やすっかり減って、たまに街中で立ち回った日などは、芝居にお決まりの見栄と文句、大仰な殺陣を披露して通行人から拍手と投げ銭を貰っていたのだから、何をやっているやら。たまに酒を飲みにやって来ると、話しの輪に加わりに来たり、端っこで縮こまっていたりする。
「彼らを王城の兵はどうして追いかけ回すのか、因縁を知っているか? 彼らは城に付き纏う亡霊だという。復讐の姫君と、ねぼけた災厄なのだと。姫君は可憐なのかって? 期待を裏切るが、異国の旦那のことだよ。無口で真っ黒なもんだから、本人の口から何か聞いたやつなんか居ないんじゃないか。兵士のお喋りから情報を引き出せるだけだ。災厄のあんちゃんはよく顔を出すんだけれどもな。あれ、最近は見ないかな。派手な立ち回りもしなくなったものな。寂しいな。影のように動き回っているのだろうよ。街の路地をさ」
忠誠の兵士らを除けば、王に向ける視線だなんて淡白なものだ。王の弁説を熱愛したり、金が必要な者は兵に志願する。その他の者は降って落ちた地が桶の中だったという雨粒の一雫。星に降る雨、有象無象の人々は、街の背に揺られ、眠るように桶の底に沈んでいく。知らず深淵へと、自重に任せて。これも一つの還る場所だ。街のひとが見付けた安息の形の一つ。街の深部には淀が溜まっている。生物が体を振るい、桶の栓が抜かれると、どこかへと流れゆく。
「こんなに高く深い山の腹の中から、どこへ?」
「どこへ? そう、海かしら」
3.檻の中の空
「人が暮らしているね」
旅の中で通り抜けてきた街と変わらない。闇に吸い込まれていく人影を目で追いながら、リピアは自分と同じ銀色の髪を探してみた。闇の向こうの王城に、何人かはいるだろう。森から引き離された迷い鳥が。夜空に羽ばたく銀の鳥を見た。蠢く一体の生物と例えられたこの街にパクリと食われぬよう、もっと高く飛べ。糸の月が輝く。月なのだろうか。雲が横切り、一瞬、銀盤に青空の染みが広がった。月の形にくり抜かれた空は、鳥が飛ぶにも難儀しそうな狭さだ。
「青空が見えた」
鳥籠に封じられた青空が。銀盤から覗く空がこの街の空なのか。あんな空で鳥は飛べない。籠の中の空だ。リピアは見たままをシェミネに伝えることにした。ここは異界だと森のひとは言った。空間が独立していて理屈が通じぬのだと。街のひとは追い出された環の外で、さらに世界から切り離された方舟を作り上げた。工作上手が新世界を作るのか。箱の中の異界。舞台の異様な閉塞感にリピアは息喘いだ。
「この街は湖の底にある」
なんと遠い空だろう。羽ばたこうとも辿り着かない。ひとは飛べやしないのだ。空の穴から救いの糸が垂らされるだなんて、信じることにも草臥れると、ついに月の神話は燃やされる。月を失い夜と朝を失った。頭上の光源が告げる時間に目を向けず、うたた寝を繰り返すと、今がいつだったか気にする者はいなくなる。空を拒み時間の流れから方舟を切り離した。舞台装置を組み上げて非日常を積み上げる。夜はいらない、朝はいらない。芝居を続けよう。眠る月が朝日と手を繋ぐことを阻んで横たわる。どこに向かおうとしているのか、この街は。どこへ行こうというのだ。掴みきれないリピアの想像を補うように、シェミネが一言添えてみる。
「夢を叶えようとしているのでは」
現実に限りなく夢を近付けるためには、夜をいつまでも続けるのだ。夢を見続けよう。
「夢の続きを見たいの?」
一体誰の夢なんだ。
「王は夢を抱いた。環の中に還るのだと。街の者も還ることを望む」
おそらく私の中にも還る場所を環の中に求める部分があるわとシェミネは補足する。強く意識せずにいただけで、本能として持つ感覚なのかもしれないと。死と還ることは違う。これは環の中にあるひとにはよく分かる。死を嫌い、還ることを終着とする。
街は泡のような夢を生かそうとする。王の抱いた理想を光として寄って来た者はどれほどいるのだろう。城には太陽を燃やし続けようと集った兵たちがいる。そして太陽に引っ張られた星々が街に溢れる。自ら太陽に向かった者も、軌道から抜け出せない者も、気付くと街に取り込まれ。光の無い地に輝くものがあるならば、目は自然とそちらに向かうだろう。ひとは光に何を見るのか。それは目映く本質を隠し、ただ寡黙。寡黙ゆえにひとは自らの願いを光になぞる。鏡のように。王の意思をひとは知らない。王はただ輝かしい。幻のように。誰もが夢を見ている。王の膝下で、王を知る事なく。なんと昏いのだ、この街は。それぞれの願い、欲望を動力とし、街は混沌を深める。そう、この闇は混沌。だから呑まれてはいけない。還ってしまうから、混沌の海に。街の人が組み立てた生と死の波止場。渦の先を知る者はいない。果てへと繋がっているものだろうか。人がどこまで世界を作れるものか? 渦巻いているよ、とリピアが震えた。あの糸の空は栓で、水が流れ込む口なのかなと。沈んでいく。穴の空いた船。
「誰かが見た夢の続きがこの街にも流れ込む」
夜の街で眠らぬフクロウを想う。
「彼の成そうとする事を、私が止めるわけにはいかないの」
この街は沈んだ方舟だ。
4.火と水の方舟にて
街を歩きながら、人や煌めきとすれ違う。
「暗いから光がよく見える。太陽のにおいを含んだ風が僅かに吹き込んでいる」
夜なのではない、光が届かないのだ。湖底の舟。ここは水のにおいがする、とリピア。火の揺らぎもあるんだけれど、自分は火の扱いは得意ではないからと断ってから一動作。指先で空気を擦って、火を灯してみせた。これくらいしか出来ないかな、と。火と水の気配が陽炎の揺らぎとして見えるんだ。この地は昔、水溜りだったのかもしれないね。湖と言えば良いのかな。街の底にも栓があって、蓋をするとまた水溜りに戻るのではないかと。長い年月をかけ、湖になるのではと。そんな場所だとリピアは見た。
煌めきを指差して、そこかしこに星が散らばっていない? とリピアが聞いた。シェミネは言われてみればと辺りを窺う。木箱の横に現れては消える風。階段の奥でぽたりと落ちる雫。庇の上で踊る動物。路地の奥からさらに呼ぶ光が。ふらりと脇道に逸れる。夜から追い出された星が降りて来たのか。
「そうね」
シェミネは暗さに目が慣れないのかと瞬きをする。光の梯子は流星のごとく神出鬼没。よほど敏捷な妖精の出入り口なのだろうと、目の端で捉えるだけに止める。
「こう、かき集めて」
リピアが小麦をこねる仕草をした。真似ると、手の中で星が踊った。温度の無い水の雫をシェミネは手の中で転がした。とぼとぼと路地を歩く二人。すれ違う者はいなくなった。カンテラの代わりに駄菓子のような星を掌でもてあそぶ。取り落すと、床で弾ける前に誰かの掌に包まれて消えた。遊び続けていたリピアが、演奏を締めくくる指揮者のように手を結んだ。たった二人の役者の前に観客はおらず、拍手は湧かない。しかし静止を破るリピアの言葉には熱がある。
「そう、それが、魔法」
5.岩の森の道標
迷っては戻れなくなるとあれほど言ったのに。太陽の昇らぬ街で、ぐるぐるぐるぐると、星のように周り続けている。
「シェミネ、ここはどこ?」
街の角を何度曲がったか分からない。帰るつもりも無いのだろうか、右に左に心のままに。繋いだ手だけ、見知らぬ生き物とすり替わっていないかと確かめて。一息つこうとするとちょうど良くベンチが現れる。座らないわけがない。
「わからないわ!」
落ち着いてから一息吐いて、朗らかにシェミネが告げた。あはははは! リピアがベンチで笑い転げる。ベンチには背もたれが無く、腹を抱えて仰け反ると反対側に落ちる。逆さまになってベンチの脚の間から向こうを覗くと、そぞろ行く白い足を見た。同胞の行列だ。音も無く、景色はモノクロ。脚の数を数えるでもなく目で追っていた。追うべきだろうか……否。ねえシェミネ、今ね。報告しようとして起き上がったら街は身動いだ後だった。シェミネがいない。
「シェミネ、ここはどこ」
問うも声は届かない。では同胞の足を追おうか。何故か足だけがチラチラと見えるのだ。同胞は確かに街にいる。王は魔法の力を戦力として欲している。手を貸さない者の首は切り落としたにしても、それなりの数が兵として抱えられている。囚われの同胞に会ったところで語り合うでもないのだが、顔くらいは見たいものだ。逸って同胞の幻想を追いかけてしまうなんて浮わついたものだ。頭をコンコンと叩いてから、リピアは空回りする期待に乗っかり駆けた。同胞は安らかに生きているだなんて、期待は儚く散ると理解していても駆ける。
期待とともに高く、高く。階段を登っていく。木の枝を登るように、窓から窓へ、庇を踏んで、疲れたら窓枠に腰掛けて。もたれた背中が軽くなったと思ったら室内に転げ入った。一転、二転。ここで踏ん張って直ぐさま体制を立て直し、力を込めて飛ぶ。再び窓枠を踏む。再度飛ぼうとするが目の前に階段。先ほどは無かった。労力はかけず階段を上る。上ったつもりが下りている。騙し絵でもいい、法則に従う。空は暗く、地面も暗い。街の奥はもっと暗い。上っているつもりで、より暗い街の中心部へと向かっている。物見台がある。屈まねば通れない低い入口を潜る。緩やかにぐるぐると螺旋を描き、登りきると視界が夜一色になる。高い場所に出た。
街の闇の溜まりに浮かぶ、無骨で堅牢な塊が見えた。王城だ。息衝く岩々が無造作に繋げられた気高きシンボル。生きた街の中から見ても異様な風態だった。岩の森の主人に挨拶をする。語る言葉を持たないからと、リピアは黙って膝をついている。謁見の間で、孤独と無言を貫いている。
ここはどこ? ここは迷い込んだ路地の中。リピアの問いに、シェミネは答えようと思った。でもきっと、ここが地図のどの座標上であろうと、無かろうと、どこだって良いのだろう。リピアも同じように言うだろう。目的など無かったのだから。散歩のようなものだ。木漏れ日の森で迷った日を思い出す。木漏れ日を描いてみようか。光を灯そう。太陽は昇らないが、街に落ちた星の光をもう一度集めよう。小麦をこねる仕草を再び。これが魔法だとリピアは言った。魔法とは何か? 分からないまま掌で転がした。あれ、どうやって作ったのだったかしら。小麦をこねるような、粘土で成型するような、肩を揉むような、土を耕すような。種に水をやる、火に風を送る。どれもイメージに沿わない。柔らかなものを掴む感覚。これだ、近い。もう一捻り。イメージを濾過する。
「魔法とは、隣人と手を繋ぐような」
筆が決まり、また木漏れ日を描こうと思った。そうね、インクが無くても描けるのだわ。はぐれたリピアを想いながら指を走らせる。軌跡が光を落とし、夜に降り積もる。
岩の街登りもそろそろ気が済んだ。高く高く登った次は、さてどうしよう。ここはどこだろう。一本の木の上。迷ったら二度と森へは戻れないのだろうか。囚われの同胞に問いかける。そう、おそらく彼らは戻らない。還る場所が無いから。進みようが無いと錯覚するはずだ。暗中に扉は開かず。抵抗を破られたら自分だって牢の中にいたのだ。でも今はまだ囚われてはいない。街にも、王にも。城を前にして、押し潰されそうな孤独に浸ろうとも屈してはいない。足は止めても思考は止めない。帰り道はどちらかと想像を巡らせる。さらに上へ、天を目指すか。頼りない青空の窓が輝く。羽根ある者は天を目指す。なるほど、出口は天であろう。けれど今はシェミネの隣に戻りたい。小鳥は木を目指す。帰るならば下へ、下へ。木の梢は種から伸びる。たった一粒の種を目指そう。それでだ、来た道を戻って帰れるのだろうか。帰れるとも。転げ落ちたベンチまで。どの枝、どの座標軸の上にいようとも、種は天地に腕伸ばす。道を辿れば種に辿り着くのだ。下へ、下へ。着くのかな? 不安になる。枝のように伸びた路地。呼吸の度に組み変わる壁。居場所は見当が付かない。少し下って見回した。鳥、銀の鳥が横切った。亡霊を見たかのように足が縺れる。下って離れているはずが、全く変わらぬ王城の大きさ。王が立ち塞がる。捕らえられてしまっただろうか。胃が冷たくなり身体がひっくり返る。リピアは転げ落ちた。奈落へと続くのではないか、この街は。空縫いの時計塔で見た、星の深部を思い出す。落ち続けても面白そうだと、好奇心の声が再び脳裏を掠めた。懐かしいねと笑い出す。迷ったら戻れなくなるとあれほど言ったのにと、スイは怒るだろうか。シェミネは駆け寄って来るだろうか。あの日と同じように、小さな窓が照らす踊り場を見て身を捻る。今のところ奈落よりも面白そうだからと、光の溜まりの中へ。
果たしてリピアは、ベンチから笑い転げ落ちたままの格好で我を取り戻した。シェミネが光で何かを描いているようだったので、むっくりと起き上がり眺めた。笑いの波もすっかり引いて、真っさらだ。帰りたいけれど、私たちはまだ帰れないねと呟いた。
「ここはどこ?」
「ここは道の途中」
「シェミネがいる」
「おかえりなさい」
「ただいま。光の溜まりが見えたよ」
「あなたの手を掴んだわ」
「おかえり、シェミネ」
「ただいま」
6.再びカフェテラスより
まぶたが閉じられていても、物事は動いているものだ。
幹の通りに戻ってみると、眠るような静けさの中にざわめきとひとの熱を感じ取れる。夜闇に隠れて言葉が交わされている。内容や声の出所は探れない。吐息が低く垂れ込め流れていく。
「まだまだ見えない部分ばかりだよ。でも、この街の色に目が慣れてきた」
薪が積まれた横を通り過ぎる。篝火はいつ点火されるのだろう。祭りでもあるのだろうか。薪は一定の距離ごとに積まれていた。どこまで続くのか見に行こうとリピアが言うので、明日の散歩道が決まった。二人はいつもの喫茶店で一服してから宿へと戻った。
宿に着くと二人はお喋りをしてから寝床に潜る。狭い宿では同じ寝床に潜ったりもしたが、今回は寝台が二台備えられているのでそれぞれ好きに手足を伸ばしている。一日の報告は泡を吐くように淡々と行われる。整頓してまた明日。お喋りならば暗闇でも出来る。話し足りないらしくリピアが毛布の中で蠢いた。寝台が軋む。水の気配のする街で眠ると、舟に乗ったような心地になる。街の人は湖を作ったのかとリピアが揺られながら呟いた。「湖かどうかは分からないけれど、溶けるように眠る幸せは変えがたいものよ」とシェミネは微睡みながら答える。目の奥でチカチカと光る魔法の輝きが消えない。
「帰る場所を失ったら、もう戻ることは出来ないわ。だから夢を見るわけだけれど。夢の地を現実に作り出そうとすると、新天地となる」
「なるほど、もはや別の地なのか。街の人が夢見たのは全ての者が還るべき大海の懐ではない。全ての内に含まれなくなったのだから。その手で作り上げた林や湖の懐に収まろうと言うのかな。方舟、だから底へと沈んでいくのか。舟が沈んだとして慌てないのか。街の胎動を受け入れるのか。深い深い海溝へと街は向かう。この感情を何と呼ぼう。鳥を見送る切なさを。シェミネ、きみもまだまだ潜るのかい?」
「王の街に運命を託すには憎すぎる。街の人として沈んでいくのが種の定めだと仮定しても、私は今のところはまだ浮きを手放さない。潜る前に水面に浮かんでお日様を浴びていたい」
「この街の答えも、シェミネの寄り道も、数多のひとの空虚も、それからおそらく王の理想も、たった一つの選択だ。選択肢としての枝葉が無数に伸びているよ。これと決まった枝を選んだならば、伸びきるところまで見に行こう。お隣の枝とは違う景色を見ることになるだろう」
「帰れないわね」
「うん、まだ帰らない」
遠く離れた生まれの地を想う。帰るという言葉は鮮やかに景色を描く。残酷なまでに克明に、失った故郷は描かれる。戻る場所はまだ残り火を抱えていると夢を見ていた。灰の中で死した命が呼吸を続けていると夢想した。灰に手を沈め、水の冷たさを感じてなお生きていると。別れを告げた故郷に戻れると、切れそうに痛い指先に息を吹きかけながら歩いて来た。夢を見よう。夢を見続けよう。忘却の野に捨てて来たはずの幻想は、水のごとく湧き上がる。
「泡のように高く高くへ昇ってみようかな。空へ。空はまだ夜の帳の奥だけれども。街の人は還ることを絶対の目的としているわけではないと考えられる。私たちは死を失ってなお還ろうと足掻く。夢を見ているようなもので、そもそも幻想なのだと。ではどこへ……どこへ行こうっていうんだ。追いかけるように街の人たちは走る。作る。何かが見えているのか? 環の中からは決して見えない理想が。還らずにどこへ帰っていくんだ。ああ、遥かな言葉で語るだなんておかしいね。夢に、理想だって。なんて遠いんだ」
夢を現実のものとするために、不器用な工作を繰り返す。日の届く地から離れようとも。土の壁、木の柱で空を覆っても。街の人は死を持つが、死が環の中の安楽へ導くなどとは誰も信じぬ。弾かれた者は弾かれた先で生きて死ぬだけ。戻れぬ定めを背負った生命は、屍を踏み越え先へ、積んで上へと、流刑地を開拓していく。戻れないと理屈を理解しながら、未だ環へと還る夢を見る。終わってしまった卵を温め続ける。
「だからか、きみたちは儚い」
行き先を失った森のひと、途方に暮れるほど遥かな闇に縮こまりながら呟いた。光は照らさない。死は見えず、先が定まらない。自らの答えというものは、常に闇の波を分けて見るものだ。誰かと一緒に見ることは叶わない。たった一つの太陽を、大勢で見上げ祝うこととは訳が違う。生とは目に見えぬものの部類に入り、唯一の宇宙だ。この街はいつだって暗闇に沈んでいる。王の生、王の答えが溢れ出た湖。果てしない宇宙を泳いでいる。
「ひとは、遥かなるもの。ひとは、海溝の深さを内包する」
互いの手は夢の灰の中で冷え切っていると知ってはいるけれど、求めた温もりは一緒だから、シェミネはリピアの手を握った。夢の温度を思い出して眠りに落ちる。
細路地で一度彷徨ってからは二人とも気が済んだようで、深く入り込まないようにした。拒まれないから恐ろしいということもある。幹の通りを歩き回る。兵士とはまだ出食わさずに済んでいる。王都に力を貸せと追いかけ回されるリピアが領内にいると知られたら厄介だ。お忍びの観光だ。入市時わざわざ避けた正門だが、遠巻きに眺めに行ったりもした。
「兵は何を守っているの?」
「大切な王様を」
「私は大切な故郷を守れなかった。あまりに無力」
「今ここで大暴れしましょうか?」
「すっきりするかな」
「誰もリピアには敵わないわ」
リピアは「そうかい」と悪い笑顔を作る。うんと力を溜めた後、高く跳ねた。遠い空を掴み、気流に乗って舞う兵器となり、そのまま星を滅ぼしそうだったから、シェミネはリピアの手を引いた。弾丸の速度で飛び出されたら、追うことは不可能だ。やんちゃな兵器は手を振り解くこともなく地へと降り、門から離れて再び市街へと戻る。
「環から離れきみたちはどこへ行こうとしているんだ。環へと戻れず私たちはどこへ行くんだ」
昨晩の答えもまた枝の一つに過ぎない。誰が何をしているかだなんて掴めやしない。何度でも問う。納得出来る地盤が出来るまでは何度でも問いに戻る。憎んだ一人の人、王の宇宙にぷかりと浮かび、太陽を探す。
「行き場を失った虚しさは、決して埋まらないものなのだ」
空虚は湯船に空いた穴。水が抜けて虚ろになった桶を夢で満たす。王にとっての夢を生み出す装置は、環の中のひとびとや魔法の力を部品として動く。街の人はしばしば争う種である。動力を求めて街の者同士傷つけ合ってきた。街の歴史は血の川と共にある。屍を積み上げ土台とし、より高い風景を見る。どれほど屍を積んでも糸のような青空は未だ近付かない。遠くなっていく。逃げ水を追う。争いに疲れ、月の神話を鼻で笑い飛ばした。蜃気楼の尻尾を捕まえて、環の中に戻ったら何をするかだなんて、無邪気な未来を破り捨てる。戻れやしないのだ。湯船を埋めた夢が空虚と同じものだと気づいて湯を捨てた。ただ空しいだけ。
夢は現実を生き抜く希望。夢は作られ続けなくてはならない。たとえ空虚は埋まらないとしても、装置を止めてはならない。街のひとは同胞を殺す。そして環の中の隣人を殺す。希望を生かすために命を奪い殺す。食すように自然に行われる。
「悲しくても生きなくては」
王の夢を叶えるためにこの街は出来上がった。この街の歴史にも無数の死が刻まれている。飽和した仕組みを解体しなくてはならない。悲しくても生きるのだ。帰りたい、でもまだ帰れない。
「よし、やろう……と身を矢としたのがきみの兄さんだ。フクロウ」
「私は故郷を失い、これから大切な兄をも失おうとしている。非力」
「止めに行こうか?」
「いいえ。見届けなくてはね」
「そうだね。私たちはせめて踏み止まらなくては。どうすれば王を、夢の装置を止められるのか見当もつかない。激情や幻想を胸に戦場に踊り出してはならない。街の海に喰われるだけだから。無力で非力でおまけに右も左も分からないときた。呆れた我が身だけれど、嘆くだけならば簡単だ。しかし目を閉じることなかれ。たとえ我々が見ているものが夢だとしてもだ」
夢の中で鳥が鳴く。鋭い猛禽の声を聴き逃すはずはない。夜に鳴く鳥の一言、一言が錆びた時を動かす。念入りに状況を探って飛び立った猛禽の爪は、必ずや生物を捕らえるだろう。
「シェミネとフクロウは対等だよ。彼はきみに罪を負わせるために事を起こそうとしているのではない。彼なりの答えを出し、勘定を支払うために席を立った。森のひととしての生への答えを、ポケットの中で握りしめている」
「証明するために兄は森を発った」
「私も森のひととして彼を注視しなくてはならない」
「彼が二度と帰って来ないであろう家で、幾つかの季節を空っぽな心で過ごしてふと、このまま彼を失ってはいけないと思った。今度こそ立ち上がれなくなってしまうだろうから。だから私も少しでも歩き進むことにした。この目で確かに見届けることで、立ち上がって遠くまで見通し、先を選択する力になると信じているの」
「暴れてもいいけれど、私も冷静に周りを見回してみるよ。じっと耐え忍んで、最良の一手を探そう。今は、先を歩いた者が築いた答えを目に心に焼き付けよう。流れを受け入れて、私たちはさらなる石を積もう」
屍を登るだけの我々は無力だけれども、とリピアはフードから顔を覗かせる。銀色の瞳が人混みの中に向けられる。
「水の流れに飛び込んで出来た波紋の力も、信じるよ」
小さな波紋も広がり、時に新たな波紋を呼ぶものだと。水面で鎖が編まれていく。逃れられやしない。ひとはみな同じ川の流れに浮かぶ小舟。
さて、入市してから何日目だろう。喫茶店に通う二人の元に、お茶が運ばれてくる。オーダーは入れていないが、いつもの、だ。
「ありがとうございます。お代を」
「既に頂きました。お連れ様から」
「あれ」
互いに顔を見合わせる。どちらともなくくつくつと笑い出す。周りを見回してはいけない。姿勢を正し、受領書と一片のメモを受け取った。紙片に顔を寄せる。『親愛なる小鳥たち 伝言 舞台はすぐそこ』。走り書きの神託には、日時も場所も記されていない。少女らは次なる導きを待つ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます