蒼翠の回廊

1.緑の機関

 おうい、おういとリピアが呼んでいる。姿が見えない。草むら、岩陰、木のウロ、だまし絵の中。探すも見当たらない。

 細かな起伏の多い一帯を越えていた。追い越し、追い越され。すり抜け、頭の上を飛び越えられて。三人は上へ下へ、障害物競走。朽ちた木を踏み台に高くへ。蔦を握って段差を滑る。水の溜まりは隕石モグラの掘った跡。朝露をなぞる蜘蛛の糸を弦にして、歌う子鬼らとは目を合わせるな。調べを邪魔しないように遠回り。追いつき手を取り、木も岩も越えていく。

 さんざん飛んで跳ねたので、重力があるから下が分かるものの、壁や天井を旅の仲間が歩いていたってもう驚かない。だまし絵の小径。奇怪な障害物。おうい、おういと笑いながら呼ぶリピアの声だって、地形に狂わされた方向感覚では四方から呼ぶようだ。

「上だよ!」

なんとか声を辿って近付いた。ヒントが具体的になる。足を止め、顔を上げると風が抜けるのが分かる。火照った肌に心地良い。さすがに息が切れる。樹上を探せば良いのだろうか。はたまた木よりも高い岩の上か。上も下も広がり続けている。見通そうとすると目が眩む。断崖を目にしたわけでもないのに。

 深くもないのに果てが無い。目をこする。閉じた一瞬、落ちる感覚。慌てて見回す。夢から飛び起きたように体の在りかに急ぎ戻る。四肢を確かめる。手を取られた。どこの妖精の仕業か。

「そう、ここだよ。登っておいで」

 森のひとの小さな手だった。


 見下ろしたその小径は彩り良いサラダの皿のようで、ドレッシングを片手に踏み入ったは良いものの、容器をバトンにリレーする事になろうとは。注文を取りに来るウェイターはもちろん居ない。注文の多い一本道ではなかったが、はて、巣穴に入ってしまったのだろうか、食前の運動の激しさでバターになってしまう。

 斑紋の美しい蝶が伏していたような場所だった。伏しているとはつまり翅は広げられていた。広げて待つのは蛾の方で、取り違えたかなあとうっかりを悔いる。あるいは標本箱の磔の蝶だったのか。硝子越しに覗く目を探す。


 迷って辿り着くのが美しい庭ならば、つい気が抜けてしまうのだ。リピアの森の、赤い花畑だってそうだった。赤い花に導かれ、森の妖精の片手で踊った。血と炎は木々を異界への門のように赤く塗り、空間を分けていた。結ばれた赤い焦点を通して、門の奥で祀られる太陽と月を交互に追いかけて、ここはどこなんだろう。妖精が微笑む。ここは見晴らしが良いよ。


 楽園を模す庭。虫や妖精や怪奇が、蝶の背の上に作ったのだろうか。一本の道に入り込み、進んでいたかと思ったが、無限回廊。同じ場所を回り続けていたようで。これはとんだ運動会。白線の間を走り、ゴールを目指してぐるぐると皿の上を走り続ける。右に回ればずっと下りで、左に向きを変えればずっと上りで。いたずらに作られた永久機関。発電するために日夜走る小鼠。あんぱんでもぶら下がってはいないものか。リピアに手を引かれて登った木の上で、やはり目が眩む……。


 この子供は荒ぶる神、妖精、異なるものなのだと改めて実感して、頭を軽く押さえたスイが、リピアの顔を見て何か言い出そうとしたのだが、この子供の顔は決して遠くにあるわけではなく、目が眩む現象でもなく、単なる隣人なのであり、そんな事を考えながらやはり何も言わずに見続けるので、そろそろ穴が空いたリピアが、ぺちぺちとスイの顔を叩いた。リピアの手はまだ熱を持っていたが、触れた相手の肌は火照りが引いてひんやりしていて、さらにもう二、三度手を頬に置いたりしてじゃれ始める。遊びながら、目は口のようにものを語るかもしれない、けれどそのようにまじまじと見られては困ると訴える。木の上で器用に縺れる二人。スイがやっと、「不思議なのさ。妖精と戯れ合うこの時間が」と口を開いて笑ったので、木の上は静かになる。

「お腹が空いたあ」

 リピアが木に座り直して辺りを見回す。

「見晴らしが良いでしょう」

 上り続け、下り続ける道ではあるが、木々の根元を飛び回るよりは見通しがきく。高い場所に落ち着けば辺りを見回せる。木登りなんて久しぶり。葉の間から顔を出して景色を楽しむ。空縫いの時計塔を思い出す。上り続ける螺旋の階段。はっとしたシェミネが、

「落ちては、だめよ」

と口に出す。

「落ちたら落ち続けるのかな」

 落ちて来る自分を受け止めようとでも言うのか。リピアは見上げている。ここで自分自身が降ってきたら大問題だ。時間の歪みに入ってしまったことになる。奈落に向かって落ち続けるのも厄介だが、同じ場所を落ち続けるのも困りもの。そんな事にはならないようにと気を引き締める。ぐうと腹が鳴く。そうだった、腹が減っていた。

「木の実が生っていたから上に呼んだのさ」

 見通そうとして登ったわけではないと言う。空腹に助けられるなんてなかなか無いことだ。ありがたい。溺れる者は藁をも掴み飢える者は木の実を掴む。木の実とはどこにあるのか。リピアの視線を追った二人が救いの色や形をそれぞれに思い浮かべる。散りばめられた紅玉。粒なりの蒼玉。堅く閉じた琥珀。海の底の真珠。手の平に収まる金。よく熟れた黒曜。輝きを探すが、これといって見当たらない。リピアのようにおういと声を上げてくれたならば気付いただろう。翅を休める蝶のように儚ければ寄っただろう。しかし果実は無口。実りを鳥に奪われることを拒むように無口。

「これだよ」

 木の実とは擬態上手なのか。リピアが示したものは確かに目の前に幾つもぶら下がっていた。これと指されると次々目に入ってくる。翠玉の……と言えばそれらしいが葉の形に似た痩せ細ったえんどう豆だ。食べる部分はあるのだろうか。剥いて食べるのだろうか。彩り豊かなサラダ皿の上でありつくおやつ。リピアが食べる様子に倣う。木から取ったら剥かずに囓る。なるほど。奇妙な生物が隠れる森の食べ物だ。何があるか分からない。本当に安全か。慎重に口に入れる。うん、うまい。

 ほんのり甘くて香ばしくてほろ苦い。滅多にお目にかかれない植物なんだけれども、運が良かったとリピアが言う。二つ、三つと口に運ぶ。えんどう豆のようなこの木の実。一体中には何が詰まっているのやら。シェミネがするりと筋を取り背中を開ける。あ、と声を上げた。内部からむくりと起き上がるものがある。数本の筋が探るように這い出した。ぺたんこなサヤが膨らんで、身動きしているらしい中の様子が手に伝わる。両手で持ち直そうかと凝視していると、目の前を緑色の熱源が昇っていった。これは安全な食べ物なのか。

「背中のチャックを開けると、中身が驚いて飛び出してしまうんだよ」

 残ったサヤだけ齧ってみたら味気なかった。

 飛んでいった方向に首を回すと目の前がチカリと光り、爆発音。空中で幾つか花が咲いて、音のわりには味気ない花だったのだが、それでも拍手で散るまで囃す。空が破裂するものだから呆然とする二人と、笑い転げるリピア。彼女はそのまま下まで転げていった。落ちてとっさに上を見てしまったシェミネ。再び聞こえてきた笑い声は地面から。大丈夫かい、声をかけたスイもつられて笑い出す。


 森に捕らわれてしまって抜け出せそうにない。その日、森のひとが遊び疲れるまで、緑の永久機関で走り続けたという。


2.無言の青滝

 無限の回廊も星に根を張る木々を抱えるのだから、生白い根が作った隙間に抜け道がある。遊び疲れたリピアが、それでもまだ惜しいのか振り返る。心地良く身体は疲れ、緩慢に根を伝い、土に滲み透る水のように細道を下る。

 根と岩が絡み作り上げられた構造は建築と言ってもいい。獄舎ならば逃げられやしない。

「いいや、ここは緑のコリドー。残された通り道。森の生物は森から抜けられない。海の生物が好んで陸に上がらないようなもの。それでは生まれとは檻か。群れを離れて旅することは、種から遠ざかることなのか。亡霊のようだと考えたりもするけれど、渡り鳥の生活も定めのうちなのだろう」

 黴のにおいを払いながら薄明かりを辿る。隙間から生暖かい手を伸ばす亡霊を横目にまだ下る。振り向いてはいけないよ。おどろおどろしく警告をした先頭のリピアは、後方に笑いかけた。早速振り返っているではないか。冗談なのだろう。根に腰掛ける岩がぬらりと笑った。冗談だろうか?

 亡霊か彫刻か。石となり留まり続ける命だ。通行者を引き止めようと目論む誘いが増える。露天の客引きならば愛想もふりまくが、今は正面だけ向いていよう。正面には小さな森のひと。近寄る亡霊を小突いたり木の根を操り払っていた。まったく危ないではないか。リピアを小突く。

「そう、きみたちは彼らに触れない方がいいかも知れないね。認識の外にあるものだから」

 無力だと縮こまるスイをリピアは慰めた。きみも今は森に関わる命だから無力などではないと。亡霊たちがまた笑った。からかいを引っ込めて、見守る距離で。笑いが引くと、亡霊彫刻は私語も止め、姿勢を正し始めた。黙っていれば良い彫刻だろと言わんばかりに。

 道に規則性を認め、アーチが整い、採光窓が設けられ、視界が広がる。入り組んだ獄舎が神殿の佇まいとなった。やがて下りは終わり道幅が広がると、リピアは先頭をシェミネに任せた。


 この旅路は空白の中にある。

 歩いていく。少女の背中を追って。透明な幕を潜りながら導かれていく。何度も道が折れる。壁に再び彫刻を見た気がする。無機物に刻まれた、寡黙でしなやかな躍動。ひとを表すものか、動物なのかは霞んで分からない。

 道を形作る岩は雨雲のように折り重なっている。隙間を青い草が覆っている。雲を渡るようだ。均されていない道。対して等間隔に並ぶ石柱。無骨な腕で支える天井は青い空。湿気の向こうは涼しげな色。天然の道を装飾した者がいるのか、石柱にもやはり彫刻が施されているように見える。風化してのことか、そもそも彫刻ではなく雨風のいたずらか、彫りを見ても生物の名は浮かばない。でたらめなのだ。これが生物であれば機能を無視して体を切り貼りされている。図だとすれば入り組んだ流線が躍動を生み美しい。文字のようでもある。


 見えぬ幕を潜る度、歩みが重くなってくる。幾重にも折れた道に畳み込まれた神殿。雨と宇宙の間に張り巡らされた通風管。この下は雨模様で憂鬱だろうか。暗い夜に沈んでいるのだろうか。遺された神殿は大気の揺らぎから隔絶されてただ静かなお天気。天空が霧や雫となって神殿に降り注ぐ。草が両手を広げて空の欠片を受ける。欠片は雨後の水溜りのように青く凪いで鏡となる。果てしない回廊。植物と同じく両手を伸ばせば青に染まるのだろうか。天にも地にも染まらず歩み続ける寂しさよ。

「染まってみましょうか? 空や、岩や、森に。ひとの中にいるからひとであるだけ。ここは空。下った先で空と鉢合わせてしまったみたいね。隔たれた地で、そこに有るものに染まらないのは寂しいけれど、居着いてしまっては渡り鳥とは呼べないから、今はまだこのままで」

 回廊を抜けたつもりが、根の道は新たな回廊へと繋がった。川の音が上から、下から響く。落ち続ける。昇り続ける。回り続ける。再び捕らわれてしまった。ぽっかりと抜かれた空を辿る。青く霞み灰に埋もれる景色。少女は異界の切れっ端を恐れない。どこまでが彼女の散歩道なのか。気楽に、静かに、風景の変化をただ受け入れる。染まらぬ背中をしばし追う。


 千切れ雲の綿帽子が付いて来た。行列を作りしずしずと歩く。ざわめきにつられて旅人らもぽつぽつと言葉を紡ぐ。開けた口から雲を飲んだ。足の速い雲の一群が先を急ぐ。通行雲が増えてきて、白亜の壁となる。互いの姿を確認すると、白い雲の衣を纏ったようだった。

 羽衣を翻してシェミネが指差す先にステンドグラス。太陽の方向に五色の彩雲がちらついていた。はぐれてはいけないよ、手を取ろうとするが、憚られた。大丈夫、見失いはしないと言い聞かせ、浮かせた腕を引っ込める。幾多の光芒が伸び、視界が白く焼かれていく。交わす言葉が光の中で欠けていく。

 少女の背中を追う。緩く結ばれた髪が踊っている。紫雲に馴染む髪色だ。雲に包まれながら、彼女が育った森の色を見た気がした。淡い光に溶け、流れ、木漏れ日に隠れて過ごす。静寂に食まれ、光に身が欠け、森に溶けていく。やがて森になる。収束へと向かう彼女の始まりの景色。遠い囀りを追いはしない。草原に寝転ぶ。その手を取れたなら……。否、彼女は行き先を知っている。閉じられた回廊の解れを探せる。探すその手を塞げば最後、青い空に染まってしまう。そうではなく、鳥は有るべき森へと帰らねば。彼女がふと煙となって消えてしまうことはない。律儀なものだから、さよならと言うまでは。


 長い時間をかけて森に溶けていくのだと思っていた。火に焼かれて終わりが早まると、溶けずに灰になって彷徨った。

 灰が吹かれて散った。焦げた木に降りかかって、花は咲かないが双葉が伸びる。花がつくには時間がかかる。森が出来上がるまでどれほど待つことか。おとぎ話のように上手くいけばいいのに。耐え忍ぶ間に折れもする。強くもなる。


 柱と壁を彩る名も無い生物の彫刻は、祈り、嘆き、怨嗟を体現する。静寂の中でそれぞれの物語は聞けないが。名も無く、言葉も持たぬ礼拝者は、短い歓迎とともに先を示す。


 霧が押し寄せた。雲が歩みを止めて、地面に近いものは白い衣を地に置き首を垂れる。遠いものはぷかりと高度を上げてまた飛んでいった。雲の無い空間が出来上がる。旅人は空間に二、三歩踏み込んでから気付く。神殿に相応の静けさが戻った。服が重く濡れていく。探せど水の気配は無いが、滝壺に近付いたかのような圧に押されて旅人は跪いた。……それで、どうしようか。しばし固まる。祈ろうか。神殿ならば、適当だ。捧げる祈りの為にここまで来たのだろう。各々祈りの姿勢を取る。何を捧げる場所なのかと小声で尋ねると、シェミネが手を合わせたまま呟いた。

「夕暮れが再びやって来るようにと」

 烏が鳴くからその日にさよならを告げるだなんて寂しくて、もっと続けと切なく願う日もあった。力の続く限り遊び、体が言うことを聞かなくなるまで立ち上がり、それでもやって来るのは終わりや眠り。起き続けていても、走り続けられない。昼夜駆け回っても、朝や夕暮れは変わらず巡る。雨雲の上に留まり続けても、日は傾く。ならばせめて、今日の終わりは共に夕日を見送ろう。明日は来るとも知れないが。

「過ぎる日々を。忘れる心を捧げましょう」

 去る事柄を奉る場所。連なる日々に区切りを。みな祈る。遊び回った満足を。体のどこかでまだ冷めない声を。烏が鳴いて夕日に急かされて惜しむ心を。忘れるために、同時に思い出せるように祈る。

「時間をここに置いていくことにするわ」

 今日が終わっていく。昨日が遠ざかる。過去が積み重なり埃をかぶる。善きも悪きもこの手から零れ落ちていく。持って行けないから安置する場所が必要だ。透明な幕の最奥、見えない滝壺に沈めておこう。鎮めて進もう。名も無い神殿に、子供の時間を置いてきた。


 礼拝者は再び雲に紛れた。雲に従い滝壺を避けて通る。滝の裏手に回ると下る洞穴があり、火を灯して進み入る。洞穴からの風で灯りが揺れる。

 寄り道をして、どこまでも続いていく旅路。空白の時間の散歩者。この旅には同時に終わりがある。

「ずっと続けばいいのに、今日は去っていく。この場所は、いつか振り返る日の目印となるでしょう」

 リピアは今度こそ満足して、シェミネの言葉に一つ頷いた。またこの時間に戻って来ようと、指切り。

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