影の庭

1.草原は奏でる

 未成のもの。彼らは人か。人に成ろうと言うのか。蠢く集合体。人を真似ている。お前たちは何者だ。お前たちは人なのか。


 小さな村だった。規模もそうだが、住人が。彼らの声はひそひそとしか聞こえてこない。小さな声。声だろうか。会話を真似ているだけで、高低のリズムを付けられた音が飛び交っているだけかも知れない。風に揺れる草。高くでざわめく木。彼らの音を音楽として聞く。

 物音を立てて驚かせてはいけないからと、三人は集落の外れに腰掛けて昼食を摂っていた。

 未成のもの。彼らは人を追う。人とは何か。我々とは何者か。人として生まれたから人と呼ばれていると思っていた。それで正しい。三人は曖昧さをそのまま残して受け入れることにする。

「同じ根っこから生えた一本なのかな。同じ地面から生える別の一本かな。言えることは一つ、私に彼らを定義する力は無い」

「我々はうつろうのか」

「見えていると見えていないの境目のよう。色と色の境目に別な色を見つけたような。光の気紛れで名前の示す範囲から取り溢れた色。その色にいつか再び会えたとして、気付けるかしら」

「きみはきみなの」

「移ろうのね」

 囁く声で話していてもよく聞こえる。三人はお喋りを続ける。声が聞こえ溶け合って音になっていく。さわさわと笑ったのは草か、未成の彼らか。異なる音はさらに溶けて、みながみな楽しくなってくると音楽になる。虫も鳴き出し草むらの演奏会。聴衆だと思っていた、我々とて楽器であった。だれが聞こうと聞くまいと続く演奏会。

 欠伸。はふ、と丸く飲み込まれた空気と時間。喋り疲れたら休めばいい。寝そべる音を端の者まで聞いた後、トーンを落として音楽は続いていく。

 演奏の隙間を縫って、二、三の未成のものが、寝転がる者を覗きに来た。「眠っているのさ。もう少しだけこの場所を貸しておくれ」とスイが言うと、彼らはふらふらと揺れてから離れていった。


2.小瓶の舟

 小さな人の形を取るが、未成のものは遠目に見ても人とは違う。ぬるりとした表皮から手や足が形作られ生えている。上手く手指まで再現している個体や、四本の棒がぱたぱたと動いているくらいのものなど様々。感覚器官は持たないように見えるが、仲間同志で集い頭部を寄せ合う姿は何らかの方法で交信していると言われたならば信じられる。影絵の芝居を見るようだ。箱庭で芽吹いた生活。こちらとあちらを分ける壁とは何か。箱庭に踏み入れば言葉の無い音楽会。彼らの庭で共に奏でることが出来る。種が違うというのに人と同じ方向を向いている。それでは例えば彼らが人に成ったとして、さらに人と同じ未来を目指すかどうかは分からない。旅の目的地が同じであっても、終着点はそれぞれ。


「彼らの心を覗けない。それは彼らが人ならざるものだからだろうか。それではと、同じ旅路のきみの心を覗こうとすると星の海が横切り淵に取り残されてしまう」

 スイが歌うように吐露した。みな眠っているからと、控えめな鼻歌に交ぜて流した言葉。またハミングに切り替えて、忘れかけている曲を辿る。どこで聞いた曲だったか。先を思い出せなくなって、考える間に目線が落ちて、そこでシェミネと目が合った。寝転がっていただけで起きていたようだ。

「遠く感じるかもしれない。けれど大丈夫、私はここにいるわ」

「夢のようなのさ。過去の俺が見ている夢」

「夢でもいいわ。何度だって会いましょう」

「きみに会いたいと」

「うん」

「会ってどうするでもなくて。ただ……」

 スイは言葉を切る。尊い針の光、星に声は届かないと思っている。か細い糸が途切れることのないように、いつものように愛しく撫でて、言いかけた言葉は息と飲み込む。

 言葉が出てこなくたっていい。少しずつ形作っていくのだ。沈黙だってものを言う。見えないもの、見えるもの。時間の川が流れている。川の音を聞いている。川の音が言葉を掻き消すのだ。言葉にならないよ、スイが笑う。言葉は消え入る。

「海を見ているのね」

 シェミネは川底で光る言葉を手に取る。

「星の海。そう。海とは深いものだろうか」

 川から音を拾い上げ、波が寄せる音として頭の中で組み立ててみる。海を見たことはないけれど、波の寄せる音を知っている気がした。だから描けると。知らない記憶を持っている。ただの想像に肉を付けて、存在させた気になっているのだろうか。それだけでは物足りないから、いつか海へ。海はここからでもまだ遠い。想像の波の音が呼んでいる。

 海を想うその人は道を行く。旅をする。一人の旅人。「そして、あなたは人」同じ海を描いてみながら呟いた。そのシェミネの声に、スイは一度目を閉じた。海が見えるのだ。手を伸ばしたくなる。代わりに問う。

「きみはどこに」

「移ろうのね」

 繰り返し。繰り返し。寄せて、尋ねて、書いた答えを波は浚い、さらさらと砂の崩れる音を聞きながら、日が暮れるまでだって遊んでいよう。

「あなたは私を探してくれている。過去のあなたが、今のあなたが、時間をかけて拾い集めてくれている。それは闇の中に星を放るような作業。それは距離ではなく、あなたの中に私の居場所があるということ。人の中だからとても近くて、触れられないから遠い」

 隣を歩く道連れは、まるで見知らぬ鳥や獣ではないけれど、それでも問い続けなければならないのだ。声は波が浚ってしまうから。

「きみはどこに。いいや、きみはここに。星の海はきみと繋がっている。きみが生きていることを知らせてくれるだろう」

 揺れる水面に手を伸ばしたならば、川に笹舟を流そう。海に瓶詰めの手紙を托そう。手を取らずともそこに在る。

 少女は水が運ぶ便りを楽しむ。

「あなたの中の私には、私も触れることは出来ないわ。大切にしてね。さよならの時まで」

 分かりあうことは出来ないの、とシェミネ。

「『私』とは苗床。『あなた』とは芽。芽を育てているの。出会った人々から芽を分けて貰って旅をする。ふかふかに耕した土の上で誰しも気付くでしょう。ただ一人であると。空の下、自分やあなたの周りには、誰も居やしないのだと。静かなものね」

 淀みなく歌い上げれば、孤独に浸り凪ぐ草原。耳を澄ました。静かなものだ。聴衆は一人で、あるいは隣人と微笑み合った。空の下にあなたの場所がある。

「同時に今、スイが、リピアが、兄さんが、かつて父母が助けてくれたことを大切に抱えながら行くの。一人ではあるけれど、沢山のことを覚えている。思い出していく。忘れていく。空の下、私の畑で芽を育てていく」

 私という唯一を、出会った者と分け合っていく。

「分かりあうことは出来ないの。ただ森や海が広がっていくだけ。あなたの海が、いつか満天の星の光で照らされますように」

「畑には何の種を蒔こうかな。私は木の実を蒔きたいな。木になって、やがて森になれば、鳥は羽を休めることが出来るね」

 寝ていたと思っていたリピアが、ぱっちり目を開けていた。畑の話を気に入って加わりたくなったのだ。

「みんな起きていたんじゃないか」

 すっかり聞かれてしまったなと、少女二人の横でスイが縮こまる。そのままパタンと横になり、二人が覗き込んだ頃には気の抜けた寝顔を見せていた。

 未知の生物の箱庭で、あなたの中の私に出会う。


3.森の音叉

 スイは穏やかな昼間に一度眠る。夜中に火の番をしている事が多いから、危険の少ない場所では細かに眠っているようだった。三人の旅路に大きな危険が降りかからないのは彼が細心の注意をはらうから。それからもう一つ、リピアが魔法の網をレーダー代わりに使って周囲に警戒の目を向けていたからでもあり、彼らは人や獣との衝突を避けてきた。スイが眠り、警戒の片目が閉じられた事によりもう片方の目はどうするかと言うと、そわそわし始める。

「異種との関わりは極力避けるべきなんだ。集落の一画を借りてスイが寝ちゃうほど危険度の低い種でもね。接点には熱が生まれる。温もりを分け合うつもりで、大火事にしてしまう事だってある。旅人とは色々なものの領域を借りるものだ。静かに静かに通り抜けなくてはならないと、スイは今日もそう言っていたんだけれど」

 長く葛藤を演じて見せてから、リピアがついに立ち上がる。

「私は遊びに行っちゃう」

 保護者の目を盗んで抜き足差し足。手招けばシェミネもそっと立ち上がる。


 小さな集落の中をリピアが歩く。青年少女より一回り小さい未成のものは、つまりリピアと並ぶ丈だ。並ぶ家々の、低く感じる屋根の張り出しに屈もうか考える手間も無く、するりと影絵に踏み込む。写し取られた人の世界。そう、ここには屋根がある。箱状の建物が並んでいる。未成のものは隠れるように森で、川で、山で暮らしを作っているものもいれば街を作るものもいる。山の間にぽっかり空いたこの野では街の暮らしが再現されている。

 ぐるり取り囲む山々が、それぞれ異なる形の影を投げる。太陽が天頂にかかる正午を除けば、どの時間帯でも山の影が落ちる。畑の食物は細い蔦を伸ばしている。僅かな実りを腹に納めるのは小鳥や獣たちばかりのようだ。日陰の肌寒さを未成のものは嫌わない。彼らは影とも親しい。雲が太陽を隠し影が薄れると彼らも消えてしまうのではないかと見回すが、実体はあるのだから当然薄れも消えもしない。彼らはあまりに物静かなだけだ。声はすれど風の囁きのようなもの。人を真似れど暮らしの温度は生まれない。違う世界の影がここに落ちているようだ。影の箱庭。あるいは記憶装置により再生される事象。過去を再現する思念体。異種の住み家は違う時間が流れる場だ。長居をして閉じ込められぬように。別の時間の流れに知らぬ間に乗らないように。異種との関わりに危険はつきもの。時間の流れの遅い流域。時間はこの地を避けながら流れていく。差が開いていく。法則さえも歪むのだ。そのひずみを渡り歩いて旅をする。時計なんて気にしたことは無かったからと、影の庭で旅人は休む。


 リピアは歌を歌いながら家々の隙間を歩いていく。彼女の歌はシェミネにとって懐かしい響きを含む。音は知るが、森のひとの言葉をシェミネは知らない。歌を一つ教わってみようか。今日は奏者も聴衆も入り混じり舞台に立つ日なれば。頷いたリピアがゆっくりと音を繋いでいく。シェミネが真似る音を心地良さそうに聞く。

「森のひと独自の言葉もあるけれど、基本的に一つの言葉で繋がることが出来る。私とシェミネがお話出来るようにね。鳥や獣とも、お喋りはしないんだけれども共通の認識を幾つか持っているよ。ひとがひとになる以前は、動物とも混ざり合っていたみたい。一本の木だったということ。枝のあちらとこちらで、おーいと手を振るんだ。ここから先、どんな枝が伸びるかな」

 音の取り方に慣れてきたところで、合わせて歌い始める。枝のあちらとこちら、手を振り合って歌声を溶かす。

 合いの手が入った。

 さわりさわりと風が鳴る。風の中でもう一つ知らない音が鳴っていないか。二人は顔を見合わせる。異種の彼らがノイズの奥から顔を出した。周波数が合った。歌ったように感じた。

「言葉にならない言葉がある」

 耳を澄ます。静かなものだ。波がさらっていく。スイが言葉にしなかった想いも聞こえるはず。周波数が合うまでは、音として蓄えておく。自然の中に遊ばせておく。

「喉を震わせて声を出す。身振りで風を起こす。胸に耳を寄せれば鼓動を聞くことが出来る。私のはじめの音は体の中にあった。もっと耳を澄ませよう。ここは静かな世界。鼓動と呼吸で満たされた世界。もう少し歌っていよう」

 三つ目の音は微かに二人の耳に届き、再び聞こえることは無かった。未成のものが音で伝達する種なのかも知りやしないのだ。揃って調子良く勘違いをしたのだろうか。消えた音を次に思い出そうとしても叶わない。認識の外にある音。幻か、脳が見せた都合の良い理想か。分かりあうことは出来ない。けれど耳を澄ませる。

 小さな声でリピアは歌い続ける。歌いながら確かめる。確かめては問う。強く、弱く。

「私たちはどうやってひとの姿を選んだのか。森でありながらひとである。私とは森である。私たちはやはり森に帰らなくては。母木を失ったとしても。迷い子を出してはならない。渡り鳥は風に導かれる。迷い子にとっての風とは何か……」

 はたとリピアは指揮の手を止める。音を纏わない指揮棒をくるくると回す。シェミネを仰ぎ、目を丸くしたまま再び口を開いた。

「シェミネ、きみは、きみは森に還ることが出来るのではないか? 望むなら」

 風に揺らいだリピアの瞳に憶測の淀みは無い。森のひとが持つ銀の光は、推測の輝きを透している。自信が満ちるような温かさ。リピアが手を伸ばした。シェミネは温もりを返そうと、小さな手を取る。

「そうだとしたら、リピアも在るように在るのでしょうね。今の形であっても」

 きらめきを湛えた銀の光が懐かしいとシェミネ。向こうに兄を見てしまったと。

「銀色の瞳?」

「そう」

「シェミネ、きみのお兄さんは、きみを探しているはずだ。きみは彼の風なんだろう。風。その人は風を掴んだのか。私にとっての風とは何か。……そうだな、今、私の畑から広がった森が見えた気がした。そこに降りよう。まだ飛んでいたいから、もう少し、風に歌を溶かして遊ぼう」

 未成のものの合間をリピアがすいすいと渡っていく。異種はあるものは道を譲りあるものは共にステップを踏み、まれびととの時間を共有した。少女二人がスイの元に戻る頃には皆何でもない顔に戻って、戯けた山間からの風がひゅうひゅうと機嫌良く通り抜けるだけ。

「寝過ごしたかな」

「時計の針も、スイが寝ている間は動かなかったよ」

「音楽は流れ続けていたみたいだけれどね」

 少女二人がにやりと笑うのを見て、スイは居眠りで出来た空白の時間を埋めた。


4.微細な機構

 未だ成らざる未知の種族と共にある。不可思議だと思えども、我々とてひとであり、かつては獣、遡って星の自然。曖昧な陰であったのだ。影絵の向こう側。陰の対である陽はどこに? 例えば触れられないものの中に。扉の向こう側。あなたの中。時間が避けて通る場所。予め置かれた空白。例えば天使。

「それは細胞」

「遥か空の彼方から」

「人の目線で人を見る。写し鏡かと覗き込めば手を振られ」

 三人が思い思いに言葉を紡いでいく。それは記憶の小箱、予測される未来、声は届くと思う。それは隣人、森に住まう子供たち、街を作る人々、渚で目を合わせた人魚、我々の言葉を解す龍、それは天使の抜け殻……、「天使?」誰かが聞き返したけれど、誰が放った言葉だったか。顔を見合わせてからまた紡ぎ始める。


 未知を前に、何度でも問え。彼らとは何か。ひととは何か。あなたは誰かと。

「森に還ったから森のひと、街を作ったから街の人、ひとを真似る未成のもの。私たちの言葉ではこのように呼ぶのだ。境とは見出すもの」

「彼らの言葉の上で、彼らを表す言葉を知りたい」

「彼らは『なにでもない』とも言えるだろう。ひとがなにでもないように」

 ひとはひとでないならば、我々とはなにか。問う度に移ろうのだ。姿を変えられる。存在を溶かし混ざり込む。いのちの海に溶けている。

「私は変わってしまったのかな」

「木からひとへ、ひとから鳥へ」

 変化を恐れよ。問い続けるために。

「蛹のように体を作り変えていく。何かに成っていく。渡り鳥も、未だ成らざる者なのだ。分かってはいるんだ。私たち森のひと、みな分かってはいるんだ。それでも問うてしまうんだよね。過去を向いて問うことを許してほしい。還るべきだった場所が懐かしくてさ」

 ゆらゆらと海に溶け、かつて暮らした陸を見る。陸に恋した人魚はひとに。ひとからあぶくになるならば、鳥は風に。形を細かに砕いて雲に。人魚の涙も空から降るというのか。ひとも空を目指す。高空で彷徨う。誰が呼び始めたのか、未成のもの。初めに呼んだ誰かも、自分に迷っていたのか。

「私の中の私を、育てていける。あの日のままで留まっていた私を。苗が育つならば還ろう。私とは何か。私とは森である」

 ひとは森へと行き場所を求め、森は鳥を慈しみ、鳥となればひとと歩きたくなる。鳥の視点で眺める。旋回する。昇る気流の中。環の中にいる。流れの真ん中に畑を作る。畑の中にただ一人。育てば森になる。出会ったあなたの苗を貰って、あなたを通した私を意識する。忘れ去られる昨日の、過去の、あの日の私を覚えている。育てていく。環の中で、軌道を持ち、時と共に変わる景色。畑に刻んだ鍬の跡だけはそのまま。

「ひとは移ろう。想いのままに」

 畑から伸びる蔦を透かして人影。自分の中に留まる自分の姿を認める。

「あなたはどこへ行くの」

 スイは緩やかに一つ頷いて、

「そうだな、向き合える」

こんなに静かな場所だから、音も立てずに微笑んだ。薄い光の中で、落ちる影さえ優しい。そのまま目を閉じてしまってもいい。眠ってしまってもいい。だが音楽はまだ鳴り止まないから、もう一言、音に隠して。

「ひとまず俺は、シェミネの前で、一人の旅人でありたい」

「育てましょう。あなたの星の海に、生命が満ちるわ」

 未知なるものと歌い奏でる。即興の旋律は波にさらわれ海へと返る。消えゆく。忘れゆく。けれど進む。重ねていけ、海が満ちるまで。海に身を沈めたならば、旋律を聞くだろう。ついに聴くものは現れなかった演奏会。進む、されど残る。覚えている。希む者たちが記憶する。それぞれの旋律を奏でた当人だけが知っている。意味はもう波にさらわれてしまった。

 流れる旋律。誰の心も分からない。けれど混ざり合えば音楽に。生まれ育つ異種族。分化するひと、異種の箱庭で、私は何者でもなくなる。


5.子等の歌

 森と、海と、ひとを縫う旅人と。在るように在れ。

「進んでいく、変わっていく。忘れていく。思い出していく」

 時間の川を眺めながらシェミネが語る。

「兄はもう帰って来ないんだと、予感が実感に変わったわ。それが旅立ちのきっかけ。彼が何も言わずに去ったのなら、追ってはいけないことなのだと。それでも発たずにはいられなくて」

 森に惑い、海に立ちすくみ、道は見失う。どこへ行くのかと問われた。奇妙な散歩道。私とは何かと問う。見失ったとき、ただ一人だと気付く。異種の中で、隣のあなたさえ遠い。皮一枚隔てて在るのは唯一つのいのち。旅人は境界を縫い歩く。

「在るように在れと望みながら、ちぐはぐね」

 理想は現実に作用する。現実とは歪なものだ。歪みを知ってしまえば戻れない。けれど今日のところはお目溢し。少女の望みは環に還る。人魚はあぶくに、鳥は風に、思いも雲に。環に還り、望みよ、思いの限り続いていけ。ひとがかつて続いていけと望んだように。混沌の海、虚空の天使。水と空を行き来して、陰と陽が混ざり合って、いずれ体もどろりと溶ける。消えてしまうような温かな眠りの前に、まだ少し飛べる。

「歪だけれど、行かなくては」

「歪が流れ込む街がある。王都のことだ。きみも行くのか、本当に」

 シェミネはスイを見る。

「忘れていく、変わっていく。そんな中でスイ、あなたは引き返してきてくれたのね。あの日、赤い日没からの時計が動いたわ」

「苗に水を運んだか」

「慈雨。苦しみは無い」

 上昇気流、天高く。生命の環もまた螺旋状なのか。宇宙は収束する。歪だから転がり続ける。物語はいつから始まったのだろう。

「変化しないことを望んだわ。永遠のまどろみを。それでも変わっていく。兄さんにはいつかさよならを、私は言わなくてはならない。彼が渡りながら永遠に生きるなら。彼の中で私は変化するものなのね。物事も、ひとも現実の前に歪。スイ、流れる血が温かいわ」

「立ち上がるきみを、再びこの目で見ようとは。……行こう」

 どろりとした血に身を浸し、少女は呼ぶのだ。人のままの姿で、衣の裾を染めながら屍の山を登っている。生きるならば。

「血は流れるのか」

 赤い川を渡ろう。

「手を繋ぎ進むことは叶わないけれど、今は一つの旅路にある」

 地に横たわり、空に道を見出す。道が見えたらまた進もう。雲の地図はすぐに書き変わるから行き先なんて定まらないけれど。散歩なのだとそぞろ歩く。

「あなたが私の元に現れたのは偶然かと聞いた。雲を追う旅路のようだとあなたは言った」

 スイが一人歩いた道はどこに続いていたのか。シェミネは続ける。

「それは偶然?」

「雲を追う旅路だ。そして必然」

 スイは白状する。


「歩きましょう。長い散歩道。一歩先が霧で見えなくても、雲が気紛れに道を分けようとも、あなたは居るのでしょう」

「探してくれるのかい」

「探すわ。望むなら」

「きみはどこへ行くんだい」

「スイはどこへ行くの」

「さて、どこに行こう」

 異種の住処を通り過ぎるならば、汚さないように静かに。光の丘で、陰の庭で、子等は遊ぶ。変化を恐れても留まるな。遊び、笑いながら問い続けよ。現実がひとを追い回す。その現実を追いかけて笑う子供たち。

「笑って向き合えるかしら」

「大丈夫」

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