ハヤブサと夢の檻

1.彷徨う天使

「天使を知っているか」

 彼の口から童話や寝物語の登場人物が飛び出すとは、よもや思いもしなかった。話しかけられたもう一方の、まんまるな月のように白く輝くその人は、部屋に戻ってすぐに投げかけられた問いに神妙な面持ちで答える。

「吟遊詩人が歌っていたような。各地の母が子をあやすためにその言葉を紡いだような」

 そんな優しくて懐かしい、しかし実態の知れない言葉を、今日の黒衣の彼は持ち出した。難しい顔をして、相変わらず闇に上手く溶けて、意思をひたすら隠しているような者が口にする言葉か。


 違和感の理由は他にもありそうだが思い当たらない。何故か。天使とは何かを知らないからだ。その言葉の並びには覚えが無く、異国の言葉のように音だけが響き、思考から溢れる。思考を空白へと連れて行く。天使はみなの記憶に焼き付けられている。しかし、天使に纏わる記憶は持たない。持たされた覚えのない、使い方を知らないものを持っている。空白を持っている。


「ハヤブサ、それはお伽話のものとは違うのか」

 仕事を終えた手を清めながら、実態を掴めない点では難しい顔のハヤブサとお伽話の天使君は同じだなんてぼんやり考える。やけにフワフワとした気持ちだ。このまま眠ってしまえば幸せだろうか。

 フクロウが窓辺に腰掛ける。彼の定位置。そこに座ると相棒を間近に発見する。月明かりが作る小さな空間に二人が納まる。月の作る道を見ながら一息。それから視線を部屋に戻すと闇に目が眩む。ハヤブサの眼差しにぶつかる。その眼光はいつもの彼の瞳だが、このように近くで見つめたのは久しぶりのことで、以前どこで見たかと記憶を巻き戻すと戦場だった。いつかの戦場を思い出せば、空白を彷徨う心地良さは煙に消える。

「……違うんだな、ハヤブサ。お前は甘やかなお伽話を言っているのではない。しかし、何のことか、本当に分からない」

 持っているのに触れない。言葉の中に並べてみたいのに適切な位置を探せない。目の前の相棒に触れられないように。空白、闇、ひと。自分の外は全て空白のようだ。天使が飲み込むようだ。

「それでも居ると言えるのか」

 寡黙なハヤブサが、今日は言葉を続ける。居ると言えるのか。天使が不在の中会話が進む。いいや、フクロウの中には不在であるが、ハヤブサの中にはおそらく、居る。

「お前がそこにいるのなら」

 今日は目の前の相棒に触れられるような気がした。


2.ある戦場の光景

「フクロウだ! フクロウが出たぞ」

 危険を周囲に知らせてからふと目を落とすと、闇から睨む銀の瞳と目が合った。戦場の熱気も血の赤も鎮まり、美しいなと思った。それが最期。


 雑兵の断末魔を目指して、一人の戦士が動き出す。その人は戦場を瞬く速さで駆け抜けた。遥か高空を行く鳥の目を持つように無駄も無く、風に捕まり真っ直ぐに。彗星のごとく進み、煌々と燃える火球でその身を隠す、黒衣の鳥。彼は幽塔の隼と呼ばれていた。通り名で呼ぶ程度には見慣れていても、彼と言葉を交わした兵はいない。

 いつの頃からか王の側に置かれ、使えていた。王の居室にほど近い塔に部屋を与えられ、巣から放たれれば鬼のごとく目標を狩り、また舞い戻る。高い塔から物憂げに空を眺める姿もさらすこともある。戦場の幽鬼か、幽閉の姫君か。王の鳥を動かす意思は誰にも見えない。

 前線で、ハヤブサはフクロウの姿を捉える。


 その人は玲瓏たる銀髪を黒衣に閉じ込め、いつの頃からか戦場に現れていた。彼は眠る梟と呼ばれた。現れていた時期が誰の記憶にも不明瞭なのは、戦場に紛れるのが上手かったからか、傍観していたからか、参戦すらしていなかったからか。彼を現象だと思う者もいたほどだ。神出鬼没な梟。戦場に眠り、暁、目を輝かせて飛び立った梟の一刀は、鋭く敵を屠る。

 戦場で眠りこける梟と、王の飼い鳥が対峙する。

「提案する。俺はお前を助けよう」

「ほう」

 二人はかつて戦場にいた。


 互いを相棒として認め合う二人は、初め敵対する陣営に属していた。ハヤブサは王都で、フクロウは森のひととして。

 王都は街の人により構成される。そして侵攻先はひとの環の中。

 街の人がひとの環より弾き出されてどれくらいの時が経ったのか。先祖の意思は薄れ、世の中が何故こんな構造になったのかを知る者の声は世に響かない。代わりに響いたのは辺境の男の声。

「我らは何故環から外れたのか。愛しき隣人たちと我々街の人の違いは何か。我々は取り戻せるはずである、環の中に故郷を。我らの意思は鋼の下に」

 除け者の立場を嫌い、失った魔法の力を惜しみ渇望する声は一定数あったから、男の元に人が集うのもすぐだった。男を礎に人が動く。それが王都の始まり。


 王の飼い鳥は、森の猛禽を狩ることを求められていた。それが、かっさらって飛び去ってしまうなどと誰が思っただろう。あまりにも自然に戦場を離脱した二人に疑問を抱く暇はなく、ぼんやりと見送った王都の兵士は悪態をつかれることになる。以降二羽の鳥は王都の敵に回る。話を持ちかけたのはハヤブサで、今や王都を脅かす。王の鳥は、城を見上げる街の一画に降り立ち城を睨んでいる。


 ハヤブサは今も戦場にいた時と同じ眼差しをしている。彼は未だ戦いの火を鎮めない。当然だ。王都に背を向けたのは逃げるためではない。王都側で振るっていた剣に彼の意思はなく、王の理想が乗っていた。主や同じ陣で戦った者に刃を向けたところで、罪の感情も湧かない。王都を好んで住まいを求めたわけではないのだと、フクロウは聞いたことがある。彼は今、彼の目的のために剣を振るう。

「王を討たなければならない」

 首のみを求める理由は、そのときは聞けなかった。二人の目的は王の首。ただそれだけで寄り合った。理由をわざわざ聞き出す必要はないと思ったのは、あの日、戦場で交わしたわずか一言で全てを理解した気がしたからだろう。戦火の陽炎の中に、ハヤブサの意思を。だけれど今は街の冷えた暗闇で、天使などが降り立って、淀み滞り探れない。空白。ハヤブサについてフクロウが知ることは少ない。

 種火が黒炭の僅かな隙間から睨んでいる。炎の芯に触れるには、この身を焦がさなくてはならない。樹木に寄り添うフクロウは、炎に触れたなら二度と止まり木には戻れないことを感じている。戻ったならば、我が身、止まり木だけならず、森ごと焼き尽くすだろう。フクロウの戻るべき母木は、とうに切られてしまったけれど。切られ失った母木の元に、生まれの地に、まだ戻ろうなどと夢を見ている。振り返れば戦火に全て呑まれているというのに。目の前の炎にも触れずにいる。火の輪を前に、あくびしながらちょこんと座り込む夜の鳥。戦場を離れても、梟は眠っている。


3.暁の霞

 居眠りすれど、フクロウも王に歯向かう意思を持つ。

 ある夜、火種を覗き込みながら、フクロウはハヤブサに打ち明ける。

「先ほど、王都の兵士を逃がしたんだ」

 二人は王都の敵であり、彼らの潜む城下の街には何度か討伐兵が放たれている。しかし城の堀に飛び込む兵は、鯉に放られる餌でしかない。ある者は迷い呑まれ、ある者は淀の底に沈んでいった。街は生きており、日々姿を変え、訪問者をその身に絡め取る。怯え戸惑いながら踏み込めば街に殺され、鳥の巣に辿り着いた者もあっさりと退けられる。

 見逃したというのはいつもの気まぐれだろうか。フクロウは生かしも殺しもする。叩き続けてもきりが無いから逃がす場面も何度もあった。だから報告するまでもないことで。さてと向き直りハヤブサは問う。

「その逃がした兵士とは」

「昔、見た顔だったんだ」

「助けたい者だったのか」

「兵士の小僧っこについては興味がないんだ。ただ、彼を逃がしたことにより気付いてしまったのだが、俺は迷っている」

 思考を整理するためにフクロウは言葉を止めた。なにしろこんな話を相棒にするのは始めてだ。一人の兵士を逃がした動機を説明するために、道無き森のひとは、妹の名を口にした。懐かしい響き、胸が詰まる名だ。

「道を開きたいんだ。彼女の散歩道にでもなればいい」

 森のひとの生まれに家族という区切りは無い。先祖がいて父母がいて子へと命が繋がる、そういった意味での家族は存在しない。母木があり森のひとが産み落とされまた木へと還る命だ。フクロウの言う少女とも血の繋がりは無い。それでもあえて妹と表現された存在を、ハヤブサは丁寧に拾い上げた。その少女は、二羽の鳥が乗っている風そのものだ。

「彼女の生まれは確かに街だが、その集落はほとんど森のひとの領分にあった。森に暮らす事を望んだ者が集ったのだという。人の作った街でありながら、俺にとっても居心地が良かった。街の人が森の暮らしを真似るのだ。静かな暮らしぶりの中で少しだけ理解した。街の人として生まれながら、森に生きようとする。彼らは、街の人とは選択する者なのだ、と。彼らは変化する。もしかしたら大きな変化の一角を見ているのかもしれないな。我々は、ひとは、変化を求めなかった種だ。それが街の人との隔たりとなるのだろうか。しかし還る場所を失ってみればどうだ。みな彷徨っている。魔法を失いひとの環から弾かれたのを憂う街の人のように。失ったならば考えなくてはならない。探さなくてはならない。探し物をしているのは、我々も街の人も同じだろうな」

 人が好きなのだろう。とんだ世話焼きな一面を見てしまったとの感想をハヤブサは呑みこむ。還る先を失い、彷徨い、寝床を渡り歩いた森のひとが、道の導となることを想うなら、迷うに値する。

「行き場を失った森のひとは、原因である王都と長いこと交戦中だ。お前を初めて見たのも戦場で、王都もお前には手を焼いた。それがある時からすっかり姿を見せなくなったことも俺は知っている。戦場で見出すものは無かったのだな」

「戦場に溢れる怨嗟の声がうるさくて、何も聞こえやしなかったんだよ」

「それなのになぜ戦場に舞い戻った」

「同胞は未だ血の海の中にあり、彼女の生活もまた脅かされ続けるだろう。王を討たねばならないと、その一心で」

「迷っていると言ったのは、つまり」

「俺は憎くて王を殺そうとしている。回り道の先で、未だ燻っているのさ。生れ落ちた人の子がすっかり成長するほどの時間を経てなお収まらなかった」

 街に、森に、人に、そして自分の心に迷うこともある。進むごとに振り返っては確認していた止まり木、遠く離れた景色は霞むので、定めた心、止まり木に置いてきた心が見えない。思考の積み重ねの末に得た答えが絶対だとは限らない。歩くごとに変わるのだ。進むごとに霞むのだ。記憶の中の止まり木を、何度描いたところで歪みが増すだけ。たまには帰ろう、いや帰れない。新たな土地で思考し直すには、思い出が愛しすぎる。帰るつもりだったのだ。長い散歩のつもり。巣がどこにあったか覚えているだろうか。故郷は森に、人の中に、戦場に、それとも彼女の居る場所に。怒りに、慈しみに、空虚の中に。

「どこに帰ろうか迷ってしまった。憎しみに景色が霞み、このまま王を殺すようであれば、俺は再び帰る場所を失うだろう。戦場から離れた十数年は失いがたい時間で、それは霞みゆく夢のようだ。逃がした小僧に、俺は願いを込めた。放たれた鳩が巣に帰るように、せめて俺の夢も帰るようにと。愛しい思い出の中へ。俺は今、争いの只中に居て、王を殺すだけが目的だ。争いの中には理由も感傷も大義も必要無い。生きるか死ぬか。殺すか殺されるか。争いの中を、今は帰る場所としているのだから、迷うことも無いのにな」

 寝惚けたことを言ってしまったかなと、最後に視線を逸らしたフクロウが、もう一度顔を上げるまでハヤブサは黙っていた。身動きして時間を動かさないように。

「一度離れた戦場に舞い戻ったお前は、暁に輝く銀星だった。目覚めの時間を知らせるために現れたのだろう。俺はそう思ったよ。夜の街に日が昇る。フクロウの一刀によって。俺はお前を助けよう。先ずは、お前が放った鳩が射ち落とされないように、手を回して来よう。王都の兵が命令も無く外に出て行けるとは思えない」

 火を灯して月明かりの外に置いた。その火を消してくれるなよ、そう言ってハヤブサは鳩を追う。


4. 黒煙を吐く鳥

 いつものように呼び出されて、城内を歩いていた。飼い鳥は城内を自由に散策する許可を得ている。王の呼び出しを伝えるために、兵士はさんざん城内を探し回っただろう。亡霊探しを気の毒に思う。王は飼い鳥をただの話し相手として、時に軍師として部屋に呼ぶ。馳せ参じるのが仕事で、それ以外の時間は何をするでもない。城の外にも出る気になれば出られた。首輪や縄をかけられているわけでもないのに、王の鳥は部屋としてあてがわれた塔に舞い戻る。城にこもりきりでも退屈などとうに感じない。時間は静止しているようなもの。王とのやり取りを楽しんでさえいた。

 勤務時間と定められた昼の城には健康的な声が響いていて良い。昼とはいっても暗い。ただ、城は街よりも高い位置にあり、天が近いためか闇が薄い時間帯がある。かつては昼と夜が通る場所だったというのに。天が霞み、やがて日照は消えたのだという。空を見なければ青い色など忘れる。王都に住めば、昼があったことなどすぐに忘れる。中庭で熱心な兵士らが稽古をしている。数人が、横切る黒い影を凝視した。幽霊だと思ったか、ハヤブサは声をかけようとしてやめる。王が待っているのだからさっさと出向こう。


 無骨な城だった。造りは頑丈だが装飾には全く興味が無いのだろう。石材の冷たさが増すようだ。拠点の一つとして運用されていた頃の名残だ。必要に応じて建て増しているからおかしな通路も多く、明かりの届かない空間も多数。王城がこれだから、城下の街も気ままに変化を続ける生物となってしまうのだ。

 中庭から離れて城の奥。負傷者を収容する為の一角がある。暗い部屋に一人寝かされている。若い兵士だ。肩から胸にかけてを裂かれて戻って来た。眠り続けている。彼を含む小隊に割り当てられたのはごく簡単な遠征のはずで、兵の損失の計算などしなかったという。街を棄て森と共に暮らす者らが脅威となる前に殲滅するという名目で度々部隊が送り出されていた。殺すことに理由など必要だろうか。見回り・調査も兼ねた一隊は、今回も慣れた者と新米の混成で粛々と発っていった。半数以上が戻って来ないなど誰が予想したか。生きて戻った者も、酷いと戦線に復帰出来るかどうかという有様。ここでも声を掛けようかと思ってやめた。ハヤブサは静かに通り過ぎる。死神だと勘違いされても縁起が悪い。


 王に付き添っていた頃の話だ。昼も夜も無く呼び出しを受けていた。異種族を侵す非道者は、熱心な勉強家の一面を持ち、ハヤブサの持つ知識や意見を貪欲に欲した。

「人とは何か」

「境界です、王」

「魔法とは」

「境界に一度目を瞑ることです」

「自然に還ったひとの中から我々は抜け出したという。草木や水の揺り篭を離れて自ら寝床となる街を作り、魔法を失ったから道具を使った。我々が我々である限り、環の中には戻れないのか。ひととして認められることは、これからも無いのか」

「魔法の力が境界線なのではない。街の人の意識の問題だ。そして、環の中の者たちの問題でもある。戻る可能性があったとして、性質が変わることはない」

「環の中に還ることが出来たなら、街の人が持つ争いという病原は無くなるか」

「街の人は消費を前提に生きる。種がそう定めた。資源や土地や食料についての争いは無くならないでしょう。しかし、街での生活を棄てることは、環から離れた祖先の意思を否定することになりませんか。祖先は何の為に環を抜けたのか。居所を整えるために物や土地を消費してまで。知る者はもういない。探さなくてはならない」

「それを知りたいのだ。お前が知らないことなどあるものか」

「ひとの意思までを握ることは叶いません。王、あなたのことだって私は知らない」

「どれほど話したところで、知るに至らないのは何故か」

「だからあなたは書物を集める。人の生活や言葉や伝承を辿る。争いの只中を渡る。私以上に人に触れてきたでしょう」

 城に住む前、王は彷徨う一人の傭兵だった。行く場所も帰る場所も求めない。ただ歩き、争いがあれば傭兵として加わり、路銀を得て、また放浪する。意味を求めないから、どこに居ても同じだった。彼にはただ彼があれば良かった。そんな孤高の傭兵を、生まれが縛る。同胞が絡み付き、問いの渦に巻き込んでいく。なぜ我々は孤立したのか。なぜ我々は失ったのか。なぜ。街の人という生まれに取り殺されようとしている。殺されてたまるかと、自らの生まれに刃を突きつける。同胞を斬り払うのだ、問いの声を静めるために。異種を絶やすのだ、始まりの静けさを取り戻すために。争いに生きるようになった今、王は書庫で答えを探していた。答えとはこんな狭い城に転がっていたものだろうか。探さなくてはならないと飼い鳥が言った。何を。

 ラルカクテナ、と名を呼ばれて、黒い影と目が合った。そういえば名前があった。名は埋もれかけている。呼ばれ、埃を払われても、自分のものだという感覚が薄い。それはもう一人の自分だ。向かい合って、お互い椅子に深く座り、気だるく足を組んでいる。

 ラルカ。もう一度呼ばれて、黒い影は自分自身ではなく異国の飼い鳥の姿に戻る。鳥は黒煙を吐き出しながら、ものぐさげに鎮座している。打ち落としたくなるほど高遠な鳥。手中にあってなお遠い。黒い影に問う。

「人とは何か」

「あなたが移り変わるものならば、人もまた移り変わる。それでも何かと尋ねる、それがあなたであり、人だ」

「過去の姿を思い出せない。だから自分自身がここに無いように感じる」

「名を捨ててはいけませんよ」

 低く淡々と相手をする彼の名を、王は知らない。鳥刺しが彼を城に連れて来た。お探しの鳥です、滅多に世に現れない黒い鳥。商品を床に転がし囁いた。猿轡を外せば神話を語ります。目隠しの下には明日を見る夜空色の瞳を持ち、手足の枷を外せば地を焦土に変えます。異国の守人のお話です。王ならば知っておりましょう。求めておりましょう。

 買った鳥に呼び名を付けた覚えは無いが、いつの間にかハヤブサで通るようになっていた。

「神話の一つでも語ってみせろ」

「夢でも見るおつもりか」

「夢の中に答えがあるならば」

「夢の中から見る現実は、いよいよ寄る辺がありません。忘れてしまえるから夢なのです。終わってしまったから神話なのです。それで、王、あなたが立つのは夢の中でよろしいか」

「お前はどこにいる」

「私は夢の中に」

 答えるまでに一拍間を置かれた。読み上げていた本を放って言葉を探したのだ。その奇妙な沈黙の中に、ハヤブサは何か示さなかったか。空白。王は部屋を去るハヤブサに問うことが出来ない。優しくて懐かしい、しかし実態の知れない言葉が降り積もっていく。埃と共に吸い込んでいき、問いは増すばかり。始まりの静けさはいつまでも過去のものだ。ノスタルジーに蓋をされている。生まれとは呪い。


 寝込んでいた少年兵が目を覚ました。体を動かしてはいけないと追いかけられている。寝ているわけにはいきません、頑なに撥ねのける声は震えている。

 回廊を渡るハヤブサが、急く声を聞いている。灯りの陰に入りながら城内の静かな場所を転々としていた。今日は訓練の声の響かない場所を選んで居座る。矢狭間から細い空を眺めていると、逆に向かったはずの少年がひょっこり現れた。その頑固に結んだ口が驚きに声を上げるのは抑えられ、瞬きを幾つかするうちに静かな表情に戻った。声を掛けようか。迷って横に座るように促した。

「ここは静かだからな」

 初めて聞いた王の鳥の声に少年は身を固くしたが、大人しく連なった。兵士らが畏怖する塔の幽霊と肩を並べて空を見る少年兵。少年の方が青白い顔をしている。死に急ぐこともなかろう。今ここには誰もいない。時間が流れない。


 世話をする気は無かったが、青白い顔のまま眠り込んでしまった少年を抱えて病室に帰した。

 傷が塞がった彼は今まで以上に物静かで穏やかになった。黙々と稽古場や書庫に通い、戦場と城を行き来した。幾つかの戦場と、城内の静かな場所で、二人は度々顔を合わせることになる。

「ああ、また」

「今日は地下に来たか」

「武器庫に荷物を置いて、ついでに。先日はすみませんでした」

「構わない。もう追う者はいないか」

「はい、誰も」

「戦場で聞いた声はお前を苦しめるか」

「今俺を急きたてるのは、自分の声です。どう生きるのかと、問われて出来るのは剣を振るうことだけで」

「お前は王都の兵士だからな。それも正しいだろう」

「正直、分からないのです」

 街の人は街に、森に、生に迷う。迷うのは、行き先があるからだ。

「損なったとしても、俺は進みたい」

 飛ばした鳩が、巣を目指す。


「人とは何か」

 幾度となくこの問いは繰り返された。王が一つの答えを出せば、都は強固な一つの生命体となっていくだろうに。紛いものでも完成すれば、新たな道を切り開く足がかりとなるだろうに。王は答えを出さない。孤独な王は誰を想う。民か、己か、人か。街の人の定めから外れず同胞と殺し合い、異種を知ろうとして殺す。この街は夜に沈んでいる。

「あなたはかつて知っていたはずです」

 迷わぬ傭兵だった頃、彼は自らの居場所を持っていた。そこに戻ればいいだけのこと。始まりを、夜に、郷愁に沈めてはならない。

 混迷の城の主として他を排しておきながら、なぜ人を放っておかないのか。街の生まれに呪われながら、街を愛するのか。他者の問いの声に耳を傾けなければ、彼が苦悩することもなかった。

 王の慈悲は剣の形をしている。

「私にはあなたに語ることの出来ない言葉があるのですから、何度答えたところであなたを納得させられはしない」

 生きる都の天辺を、さて、どう動かすか。鋼の慈悲を奪い喉元に突きつけようか。叩き折ろうか。溶鉱炉に放り込もうか。王が問う度に、ハヤブサも積み上げてきたのだ。人の行く先の可能性を。

 目覚めを知らせる鳥になってもいい。鶏の真似事でもしてやろう。太陽が昇らぬならば火を放ってやろう。石の貝を脱ぎ捨てる。鯉が龍になる。泥のあぶくから命が生まれる。ひとが自然に還る。可能だ。生命よ、望み進め。

「王よ、夢に生きる覚悟はあるか」

 不死の鳥が禁書を紐解く。


5.二十六夜の抜け道

 虫も鳴かない夜。上空では早い雲が流れ、二十六夜の細い月光は途切れ途切れになる。切れかけの豆電球、空に昇って取り替えようか。

「暗いな、火をくれないか」

 ランタンを差し出すフクロウのために、ハヤブサは火を作ってやった。闇の中で行動する彼らが火を持つこの夜。岩陰から前方を睨み続けるフクロウに明かりを持たせた。


 山に走った亀裂を、早足で抜けていく一団がある。亀裂の道は夜空よりしいんと静か。月が落とした影の道は、王都から外に抜けるルートの一つ。知る者は内部でも僅か。横を見れば突き出た岩、ふと下を見ればさらに深くに続く穴。所々に奈落への入り口があるから、足を滑らせないように慎重に。山の腹に入ってしまえば、容易には抜けられない。

 地獄の炎がちろりと舌を覗かせた。隠密の道に、白い影一つ、ランタンを掲げて待っている。

 一団がぱらりと散った。隠れる場所はいくらでもある。王都の者が使う抜け道に出た白い幽霊を排除するためだ。か弱い街の人が迷い込んだのであれば、機密に触れた運の悪さを呪う前に屠られただろう。白い影は狙ってくれと言わんばかりの目立つ格好に明かりを持って一団の進行方向を塞いだ。

 フクロウは進み出る。光を集めながら飛び跳ねる。ランタンが弾けたので放る。蝶のようにふらふらと、扇がれながらさらに前へ。目をこらすと礫が飛んでいる。がらりと背後の岩が崩れ、掴みかかってくる。夜露は凍って撒き菱となり足元に散らばる。

「隠密集団は違うね。森の同胞よ!」

 声を上げて突風を吹かせる。崩された岩を舞い上げ叩きつける。岩陰から一つ悲鳴が聞こえ、相手の攻撃の手が止まる。

「帰らないか」

 王都が魔法の力を欲する理由が、この集団を見れば分かる。恐れる敵の力を指揮下に置けば鋼同士の争いで優位に立ち、魔法とぶつかる場合でも統率力の差でねじ伏せる。

 一団には森のひとが目立つ。森は比較的街に近く、生活も他の種と比べて目につきやすい。単独行動の者が多く、一本の木や森を焼けば引きずり出せるから狙いやすい。

「お前は、フクロウか」

「よくご存知で。道案内に火を灯してお待ちしておりましたよ。不知火の木のお方」

「導の若木の子。……現れたか。殺しに来たのか」

「お話を。何故木を焼く者の側に立つのかと」

「聞くのか、フクロウ。王都の人間を少しずつ削ぎ落とし弱体化を狙う暗殺者。そして振り返って同胞殺し。森を背に戦うことを止めたお前は、両者に刃を振り下ろす。狂ったのか? いいや、違うだろう。同じことを考えているはずだ。私に言わせたいか」

「俺は木を焼く者を殺します。迷う鳥が増えないように。還る場所と目的を失った同胞も殺しました。空虚を彷徨い磨耗する前に」

「お前は火を絶つのだな。降りかかる火の粉の元を断ち、燃える森の火を消している。だが街の人がいる限りは燃え続け、広がるだろう。街の人を消し去るか」

「竃や暖炉を奪うなら、今度は我々が侵略者となる。俺はそこまでは求めない」

「いつまで続けるつもりか。疲れきってしまうぞ」

「とうに。同じですか、こんなところまでも」

「憂いことを聞いてしまったな。すまない」

 不知火は散開した仲間たちを確認する。負傷者は出たが、いずれも軽症だ。隊服を整え、表情は少し崩した。戦う気が失せた。同胞殺しのフクロウも、今晩は衣を汚すつもりではないと見える。白い鳥が笑みすらたたえて離脱を勧める。

「森に帰りませんか」

「今は王都の血肉だ。捕らえられてなお生に執着した者と共に居よう。大きな差は無いさ。お前と私の理由に。森と街で争うことに。さあ、フクロウ。私は命じられて今から木を焼きに行く。王都の敵、森の異端がのこのこと出て来て邪魔をしようというか。私にはお前を殺せるぞ」

「俺もあなたを殺せますよ」

「こんなことを言い合っていると、街の者のようだな。森の生から外れた時点で、我々も環の外に立ってしまったのかな。環の外の人には、帰る場所は無いのだろうか。そんなはずはないだろうな。我々は定められた死を失ってしまったが、新たな道の上で見付けられるだろう」 

「みなが見付けられるでしょうか。温かい場所であればいいなあ」

「お前など、暖炉の前で寝ていればいいものを」

「月が落ちるまであと少し。夜明けまでは眠りません」

 大地の亀裂の道。さらに地底に落ちぬよう、尖った岩をひらひら渡る。同じ岩の上で鉢合わせたら、一緒に落ちるか、避けて通るか。二十六夜のお祭り騒ぎと、出会った記憶、欠けたランタンは穴に放った。

「我々は母木とともに一度死ぬ。それから鳥になって、空を渡るだけさ」


「すまない、相棒。ここまで手を回して貰ったというのに、王都の灯台を壊し損ねた」

「いいさ。城から離すことが目的だった。……鳩はまだ戻らないが、そろそろ城に出向かねばならない」

 今夜の月が沈めば、しばらくその姿は見られなくなるだろう。切れかけの豆電球、今度こそ外されて。

「暗いな、火を落としたからな。あれ、マッチ、俺が持っていた」

「点けなおそうか」

「明かりはいらないさ」

 黒衣が優雅に揺れたと思えば、ハヤブサが指先に火を宿している。焦げてしまう、唖然としたフクロウがピントのずれた心配をする。

「煙を昇らせておいたっていいだろう。行こうか」


6.故郷

「あの森も、もう俺が手を入れる必要はないだろう」

 母木を失って、木を植えた。弔いのために。誰の。仲間の為か自分の為か償いか。故郷を作り直すつもりか。

「目の前で失ったのにな。まだ故郷を求めてしまう。どこにも無いものを。……ハヤブサ、お前の故郷は?」

 そう聞くと、ハヤブサが微かに笑みをこぼした。フクロウは思わず目を見開きそうになる。ハヤブサの感情が見えるだけでも珍しいというのに。懐かしみ、誇るようであった。

 その日はそれだけで、何も話して貰えなかった。


「出掛けようぜ、ハヤブサ」

 森に誘われたのは初めてだった。二人で夜中のピクニック。道案内は森のひとに任せよう。夜目の利くフクロウに。夜の街も森も、彼ならば飛び抜けられる。昼間はよく眠れたか。夜の街に昼は来ないから眠らなかったよ。息を潜めて暮らしていたから、こんな会話も必要無かった。夜の街を抜けるにも手間取らないほど慣れていた。

 街に入るのは簡単だ。闇の中にぽつりぽつりと灯る明かりが魅力的。漁火に誘われるまま石畳を踏めばいい。あとは街に飲み込まれるだけ。蠢き形を変える生物は環状で、歩けども同じ軌道の上。それが心地よくなっていけばもう抜けられない。

 王の首を狙って街に住み始めた頃だ。世話をしている森があるのだと言って一人出掛けたフクロウを見送ってから数日。距離を見れば戻らないことに不思議はないが、街の中を彷徨っている姿が浮かんでハヤブサは慌てて探す。案の定、街の出口を探したフクロウ、どうにも出られない。どころか同じ場所にも帰れない。広い街でも手懐けてしまえば移動は楽だ。しかし易々と外には抜けられない。血肉は体の外に出られない。血肉だと意識に刷り込まれているから出られない。

「街ではなくひとなのだと、今一度意識せよ」

 やつれたフクロウを連れて帰る。とんだ休日になったな、体を休める迷子に声を掛けたら、故郷という言葉が出てきた。故郷か、そうだな、懐かしいな。


 これは擬似的な里帰りだ。

「玄関を出て、ただいまと帰ってきて、変わらない家の中の景色が広がっていたとしたら、安心するよな。この街は帰る場所がいつも違うけれどもさ。かつて住んでいた場所がまだ同じ姿で残っていたら、今俺が確かめられなくても現実だと思っていいかな。あの小さな森の端の家が、そうであればと」

 森を目指し歩く。フクロウの声が流れてくる。離れた場所には戻れない。無くしたものは帰らない。返り血は濯げない。そうだな。分かっている。だから、

「失ったわけではないんだ」

こんなことにだってもう、気付いているだろう、相棒。


「故郷への道は遠いか」

「長いと思っていたこの道も、迷わず、寄り道しなければ近いものだ。思案しながら歩いたものだ」

 森のひとの道を歩く。獣の道とも違う。草木が指差す方向へ、上へ、下へを繰り返す。考え事をしていればたちどころに迷わされてしまうのではないか。慣れないハヤブサ、それでも息を切らすことなくついて行く。木々が森のひとを導く様を見て感心する。

「ピクニックと聞いたがね、山を越えるとは思わなかった」

「このルートが一番早いぜ」

 上に行くと神域だ、フクロウがちらりと目線を投げてから崖を飛び降りる。獣も上らない。ひとと獣、言葉は通じないが幾つかの了解があると言う。

 岩窟を潜り抜けたら陽光の下に出るかと思えば木が光を遮るのでおあずけ。鬱蒼とした山腹に細い川が這う。水辺で一服。

「太陽が恋しいか? この道にはほとんど陽が射さないんだ」

 夜に起きる体には十分。光降り注ぐ目的地まで、木のトンネルの中で光に目を慣らそう。夜から昼に抜けるには痛みがある。夕暮れがいつまでも続けばいい。夜明けが長く続けばいい。トンネルには時間が流れない。薄明のまま。

「このままでいい。ぼんやりとした時間の中に。生死とは不変だと思っていた」

 朝への長い道。記憶の山道。フクロウは朝を目指す。 

「復讐だった」

「王の命を絶つことが全てだった」

「違う道を探しては切り捨てて」

「長かった。段取りを整えながら、片方で安穏と昼を過ごす」

「答えがやって来る、と思う」

「フクロウ、結論を出したのだな」

「ハヤブサ、教えておくれ。お前が王を討たねばならないと、定めるまでに切り捨てた可能性を。やれるか、王を殺さずに」

「お前がいるならば」

「夜の道案内はそろそろ終わりだ。昼の帰り道は任せるからな」


 未明。道は下りが多くなる。足元に気をつけてくれよとフクロウ。今更の忠告だ。地面は乾いている。草木の密度が下がった。視界が開けたから顔を上げた。ここから目指す丘が見える。そして丘には白く佇む影が並んでいる。他界に旅立つ行者の列か、留まる亡者か。

「お、っと」

「夜に慣れた目だ、景色に足を取られたか」

 踏み外したハヤブサをフクロウが支える。ここにも白いひとが。

「故郷は遠いか」

「見えてきたよ」

「相棒、お前はどこに帰るんだ」

「うん、まだ帰らない。やることが出来た。お前の手を取ったんだから」

 行者の待つ丘に近付く。白い若木が行儀よく並んでいた。木は人によく似た立ち姿をするときがあるのだ。木々に紛れ込む森のひとを追う。ここで手を放してしまっても良かった。お前は帰れと。帰る場所は定まったのだろうに。夕暮れに、夜明けに、留まることが出来る。夜の鳥が朝に踏み出す必要は無い。だが意義を見出した。フクロウは結論を出した。ハヤブサは再び手を取らなければならない。白く佇むひとびとの中に踏み込む。ここはかつて戦場だった。もう一度、手を取ろう。

 戻れぬほどに深く踏み込む心構えが出来たのか。迷っていたのはどちらだったか。

「俺もまた亡霊だ」

 そう言って差し出されたハヤブサの手を、フクロウは掴む。境界は曖昧で、空白があって、どこまでも続く暁のトンネル。亡霊の手を掴む。トンネルの先には天使が待つのか。天使が飲み込むようだ。まどろみの中で欠伸している。このまま眠ってしまえば幸せかもしれない。けれど、まだだ。夜明けまでは眠らない。火に身を投げる必要がある。一羽、銀環の月から、熱の矢の中へ。夜から昼に抜けるには痛みがある。

「ひととは何か」 

「それは痛みだ」

「かまわない。業が火と剣の山に導く。痛みを重ねようとも進もう」

 血の雨の中で同胞が泣いた。青灰の森の底で少女が膝をついた。白い若木の林で夢を見ている。

「なあ、相棒、お前の故郷は」

 夜が明ければ、纏う闇が消え去ってしまう。だからこそ今聞くのだ。

「遠く東の果てに」

 光が射す。フクロウの森に。夜を手放すと、照らされていく。闇の中で見慣れた互いの姿が眩しい。今にも逃げ出したい光の下で見た。日に照らされても闇が残る相棒の姿。昼の空の下に引き出せば散ってしまうと思っていた、瞳と髪は光を返さない黒。燃え上がるのを待つ炭の色。伝え聞いた異国の守人。

「火の司祭の一族……」

 フクロウは頭を垂れた。

「火を操り、火をもたらした、起源に近い一族」

 火種に触れたならば戻れないけれど、木々は十分育った。後に続く者の声が聞こえるから、先に行こうか。

「火を守る一族という生まれから切り離されることは無いが、俺は追放された罪人だ」

 炎を生む人が、再び目線を揃えたフクロウに語り始める。

「迷っていたのは俺かもしれないな。お前もまた奈落に突き落としてしまうのではないかと恐れている。一族が守る炎とは、神話の時代の残りもの。俺は一度、人に禁書の内容を吹き込んだ。今の王都の頂点に神話を聞かせた。神話は歪みだ。消化出来なければ腐れてしまう。持ち出した火によって王の狂気を増幅させたのは俺だ。救済ではなく地獄の炎だ。王を止めるには討つ他に無いと思っていた。今はお前がいる。頼っても良いのか、相棒。俺は王を都から引きずり出し、荷を放った一人の街の人としての彼と話をしたい」

「火中でお前の火は俺の光明となるだろう。どこに在ろうとも」

 狙いは王だけなんだ、予定と変わらないさ。いたずらの準備はもうじき済む。東雲を迎える。移り変わっていく。時刻が、季節が、生命が。

「相棒、天使はいるんだな」

 空白に想いを馳せよ。誰もが持つ共通の空白。創世の火、真白き光明、高空の声。ひとびとは彷徨う。朽ちない命を抱えて渡り鳥。

「やはり聞こえないよ。分からないさ。気流に揉まれて。だから航路を見つけよう。故郷は遠いよ。求めながら離れていくのさ。遠ざかるほどに霞むものだ。どこに向かうんだろう、暖かな場所であればいいな」

 不変だと思っていた風景が過去へと流されていく。笹舟がさらさらと流れていく。笹舟を、色々なものを見送ってきたつもりだった。同じ場所で。見送る自分自身も歩き続ける生命だなんて、気付かないものだ。視点はいつも同じなのだから。鳥になったとき、新たな視点を持てるだろうか。

「名前とともに故郷を思い出せる。霞む度に呼んでもいいかな。今きみが生きているから」

 ひととは隊列を組んで渡る鳥だ。同じ季節を生きているから、名前を呼べばやって来てくれる。会いに行ける。会えるだろうか? その人もまた過去になってしまったのではないか。意識しない間に。眠りこけて夢を見ている。離れた地には帰れない。ここは戦場だ。今は戦場に生きている。持っているのは武器一つ。思い出は愛しすぎて置いてきた。そのはずだったけれど、背中から声が聞こえる。追い風だ。名前を呼んでくれるのか。名前を捨ててはいけない。隠そうとも留めておくのだ。過去が呼ぶ、同胞が呼ぶ、きみが呼ぶ。名前とともに故郷を思い出せる。

 故郷とは過去だ。

 渡り鳥はどこに向かって飛んでいく。ひとは迷う。けれど獣が道を知るように、空を鳥が行くように、ひとの航路もあるのだろう。軌道から外れて放り出された空。ひととは何かと問う。答えは温かな場所に降りていけ。地上で燃える火の元へ。暖炉の前で眠ってしまえ。追い風が吹いている。過去が遠ざかる。光に向かい飛ぶ。振り返らなくてもいい。

「分かっているさ、それでも迷ってしまうんだ」

 フクロウのとりとめもないお喋りを、ハヤブサは聞いている。一つの答えがやって来る、フクロウの予感は確かなものになった。鳩が戻った。一つ先に進める。積み重ねていくのだ、答えも業も。間怠いやり方だ。それでも、同じ季節を渡る者の手を引いて一歩一歩。後に続く者が背負う問いをもっとシンプルに、軽く。フクロウは問う。

「相棒、お前はどこにいるんだい」

「夢の檻の中に」

「進めるだろうか、共に」

「お前の手を取ったんだ、相棒」

 夢の先など無いことを知っている。せめて森のひとが生まれその足で拾い集めた物事を母木に渡しに行くように、夢の先に持って行けたとしたら。

「夜明けが王都にも流れ込む。行こう」

 夢が醒めてしまう前に。

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