光明の丘

1.リピア、森をみる

 振り返り、ああ、これが森なのかと思った。木の葉と光、影。木々は寄り添い、動物や赤い花の園や母木を隠した。森を旅立つ日、みな遠く。

 外から見た森は一つの生物だった。生物が身の内に宝物を抱えているならば、口をこじ開けて入りたくなるのだろうか。王都の兵が通ったであろう道を遡る。悲しみは好奇心に置き換えて。虚ろは空に放て。渡り鳥となれ。

 王都を知ろう、街の人を知ろうとリピアは定めた。街の人は環の外の存在だけれど、根はいつだって一つ。恐れずに。

 この広い空も、森であればいいと思った。蒼い木の葉がざわめく天井、一つの森。空の下。


2.白いたてがみ

 同胞の住まう地は、なんとなくわかる。住みたい場所だなと思えば誰かしら居るものだ。旅では出会わなかったにしても。種が好む環境というものがある。丘の上からその場所を見たとき、リピアはやはり住みたいなと思った。誰かいるだろうか。同胞の声を聞けるだろうか。獅子の鬣のような木立を目指し、ぴかぴかと光る草原、獣の背を下りていく。

「この場所は新しい」

 なんとなく口にした。白い幹の低木が波を描いている。櫛で撫でられ、寝転ぶ獣。高地にそよぐ風。囁きあう虫。小鳥のいない空。

 スイが一度口を開いて、閉じた。何だ、とリピアは見上げる。隣を歩くスイ。リピアとスイでは身長差がある。こうして近くを歩くと表情が見えにくい。スイも獣の鬣を見ている。リピアの見ていた白い林。

「あの林まで歩いたら、今日は休もう。丘陵地帯を抜けると、歩きにくい道になる」

 一つ二つと丘を見送り、長く歩いた後だった。まばらな木々と、短く揺れる草の原。穏やかな晴れ間も冷たい雨も、霧や雲も抜けて、見慣れてきた丘陵地帯も終わりにさしかかる。うねりが次第に緩やかになっていく。標高はやや高く、晴れ間は気紛れで、さきほどまで機嫌良く昼寝していた獣が身を震わす。雲は低く降りてきて、さわれそう。

 示された場所まで歩ききる。白い若木がしなやかに伸びている。雨を防ぐには頼りない、細い腕。雲に飲まれ視界が狭くなる。身を寄せ一息つく。

「降ってくるかな」

「どうだろうね。雲が厚くなっただけかもしれない。でも屋根を張るよ」

 スイが居場所を整える間に、リピアとシェミネは白い林を軽く散策した。誰かの縄張りならば一声かけなくてはならないなと、口にはしないが探しものをする足取り。奥に踏み入る背中をスイが横目で追う。静かだ。なだらかに崩れる天気の足音を聞いている。雲の足音は遠雷。遠来は軍楽隊の太鼓。留まる旅人に関心を寄せる者はなく、こちらからも近付くべきでもない。雲の向こうから呼び戻そうかという頃に、二人が戻って来た。何事も無かったとの報せ。湯を沸かして飲む。誰かの喉がこくりと鳴るのが聞こえる。

 落ち着くと、シェミネは木にもたれて目を閉じた。いつもなら付近の草の観察や採集を始めそうな頃だが、物見のついでに済ませたのだろうか。あるいは体調を崩しているのだろうかとスイが様子を伺っていたが、微睡む姿は穏やかだ。それで安心する。暫く眺めている。

 雲が冷たく這い、流れていく。静かだ。時間が雲に流されていく。自分と相手の距離が可視化するようだ。二人きりみたいだな。おかしくなって、ねえリピア、話しかけようとしたら、居ない。二人きりだった。


3.ひとは森へ、涙は地に

 腐敗。命が滞る、先が見えぬ、木が崩れ落ちる。邪魔になるものは何も無い、と思った。手枷も、猿轡も、痛みも。しかし、光が闇であると気付き、自らの思考が急に鈍った事に気付き、伸ばした手は何に向けて、天に向けて、誰に向けてのものだったか理解出来ない。私が崩れ落ちる。なにもかも終わるのか。


 足元を見ると、一つ、種子があった。ぎょろぎょろとした目で、溶解する世界を見ている。それで母木から生まれ落ちる日の風景を思い出した。そう、何ものの名前も知らなかったから、景色はみな渦を巻き、光に溶けていて。


 還ろうかな、森へ。そう、私は森に生まれ、木を母とし、生きていた、森のひとである。森を侵され、母木を失い、帰る場所を見失い、捉えられて枷を嵌められ貪られ呆然としていたけれど。

 崩れる景色を、燃える木々を、名前を失うものたちを、恐れなくても良かったのだ。

 種子を育てよう。還ろうかな、森へ。私はここで果てるとしても。


 リピアが涙を落とした。そこは小さな木が整然と並ぶ空間だった。

「そうか、ここは」

 意識が何ものかと混ざり合い、ただ涙が落ちる。

「まいった、止まらない」

 涙が落ちるだけ落ちるのを待つ。どこまでが自分だったかわからないから、みんな流してしまおう。地に返そう。


4.若木の墓標

 スイは焦った、時間の感覚を失っていた事に。リピアは心配いらないはずだ。ここは森だから。いいや、林。つまり、何者かの手により木が植えられ、手入れされている。ではリピアにとって安全なのか。

 人の気配は無い。探しに行くべきか。

「スイ、うしろだよ」

 リピアの声に振り返る。スイは再び焦った。近くにいて気が付かないはずがない。いいや、それは思い違い。相手が姿を見せようとしなければ、木々の懐で、森の子は探せない。獣のように気配を消していたリピアに笑われた。

「散歩しようよ」

 手招きされて、スイは立ち上がる。


「大丈夫、ひとはいないよ。住みたいくらいの場所なんだけれどもね」

 リピアの背を見ながら歩くのは、出会った日以来だった。歩調を合わせて歩く。ゆっくりと、雲の中。

「既に誰かが住んでいるものだと思った。しかし誰もいない」

 出会ったあの日、リピアが放った魔法はスイの片腕を氷づけにした。とんでもない牙を持つ子供だった。恐怖や痛みは残らなかったが、今もうっすら痕が残る。森で見た光景は傷痕より鮮やかだ。それから焼けた大木のにおいだとか。

「ここを還る場所にしてもいいのでは、なんて考えていたよ。しかし何か違う。スイ、ここは新しい。でも、うっすらと焦げた匂いが残る。スイは遠目に、ここを林と呼んだね」

 湧く煙の合間に火がちらつく。雲だと分かってはいるけれど、熱と焼けた木のにおいが重なる。

「リピア、ここは昔、戦場だった。森のひとと、王都の者の衝突があった。互いに犠牲が出た。記録が残されている」

 小さな姿が炎に揺らいだ。出会いをスイが思い出していたのは、あの日と同じ、怒りをたたえたリピアの背中を見たからだった。


 ここは同胞の墓場なのだ、とリピアが呟いた。還る場所に辿り着けなかった者たちのために、誰かが墓標の代わりに木を植えた。争いや服従の末に絶命したり、寄る辺を失った森のひとを想う者がいる。

 私はここに眠るべきなのか? リピアは自らに問う。それではいけないと、すぐに振り払う。この場所に居られるのは、林を維持する者と死んでいった者だけだ。

「私はどこへ向かうのか」

 空に飛ばした虚ろを見上げる。空も一つの森ならばいいな。いつまでも森で暮らしていけるから。

 好奇心と空虚な心は同居する。部屋をどれほど充てるかで気持ちが違うだけ。小さな部屋を与えた空虚に、言葉をかけてみた。答える者はいない。だから考える。部屋に置くべきものは何もない。空の部屋に似合うものを飾ってもいいだろう、しかし。リピアは思う、答えを一つ住まわせるだけで十分なのだと。だからまだ空っぽのままでいいのだと。

 同胞の墓場でするべきことは、共に眠ることではなく、弔うこと。


5.獅子、演舞

「スイ、剣を抜いて」

 沈黙の背中を見ていたら、そんな声が聞こえた気がした。彼女が振り返る。つまり、と聞き返す前にもう一言付け足される。

「たまには手合わせでも」

 手合わせが始まるのは珍しくはない。剣と魔法で、互いの立ち回りを確認してきた。戯れ合う程度の型の見せ合いは、どちらともなくちょっかいを出して始まるのが常であり、今日のように改まって申し込まれると戸惑うが、いつものように短剣を抜く。手に収めたところで向き合う者から一言。

「もう一振りの剣を抜いてほしいな」

 スイは沈黙する。戸惑いが吹き去る。背の重しが引き摺り出される。

「リピア、まさかこの細い木々の間で長剣を振るえと言うのではないだろうね」

 一呼吸して、意を確かめる。剣を抜くのは旅の道連れとしてか。それともかつての王都の兵としてか。

「背中の長剣を抜いてほしいな」


 木々がその身体を低め、一斉にこちらを向いた気がした。スイが背にかけた長剣をするりと構えた。森のひとの魔法を前に、鈍く光るその剣は息を詰めた。持ち主は呼吸を揃えた。一拍。スイが新しい空気を細く取り込むその呼吸に合わせ、風の波がごうと押し寄せ、喝と口を開く。緑の刃が突き刺さる。微細な傷。

「この戦いを同胞に捧げる」

「……なるほど」

 相手は風に乗り後方に距離を取り、剣の間合いから外れていった。スイは追う。背中が軽い。剣の重みのまま前に出る。リピアが嬉々として言う。

「スイ、速い」

 風に巻かれ草に足を取られながら、しばし追いかけっこ。木の間をすり抜けて、妖精とダンス。雲の通行人が時に足を止めるだけ。銀色の子供が笑う。いつものように。鈍色の剣が妖精の軌跡に沿う。忠実に。リピアが強めに刃を放つ。スイは避けない。距離を保つ。踊り出したら止まらない。

「背負うものが無いとスカスカだ。また、手に抱えるには重すぎる」

 スイは背に掛けた長剣を、この旅路の中で一度として抜かなかった。それは自らが鍛治師として鍛えた剣で、かつて兵として、王の求めに応えて振るった剣だった。

「こんな形で抜くことになるなんて」

 王都の者として、森のひとに向けることになるなんて。一方、剣は久しぶりの緊張を喜ぶ。木の葉の軌跡に沿いながら閃く。高揚が、昔の戦場と今を繋げる。封をしたつもりの熱気が溢れ、血が沸き、噴流を辿り、一撃を放った。加減が効かず、リピアの肌が薄く裂ける。体が動くままに追撃を繰り出す。

「そう、一撃で止まったら、私の刃がスイを切り裂いただろう」

 スイ、すんでのところで切っ先を止める。

「良い戦士だ」

 讃えられた彼の体は傷だらけ。

「スイ、きみは剣を持ちながら、その身まで剣にするんだ」

「すまない、傷をつけてしまった」

 はぐらかすようにスイは言い、手当てをしようとリピアの腕を引いた。懐に引き入れられたリピアは、スイの足を力いっぱい、小指を狙って踏みつけた。いて、と声が上がる。続いて手を振りほどき、チョロチョロと後ろに回り、背中をパチンと叩く。鬼は交代、追いかけっこの続きが始まる。


6.君は開かて誰が開こう

「初めて会ったあの日、私は本当に危ういと思った。きみは強い。心まで刃にして。きみはどうしてそのようにして戦うのか」

「言えない」

「言えなくてもいい。ただ、死に急ぐなよ」

 間合いの外からリピアの連撃。細い木の間を動き続けるしかない。動きを読まれやすく、距離を詰め難く、逃げるのにも疲れ、向きを転じる。枯れ草色の獅子が吼えた。細かな傷が彼の毛皮を汚すことなどない。痛みを上回る、身の内の熱に焼かれているのだ。

「恐れてなどはいない。ただ、空いた穴が悲しいだけで」

 再び詰められつつある距離の中にリピアは見た。少し悲しそうな空色の外套の背中や、高くにあってよく見えない表情が、焦点を結ぶ距離。見えた表情は、いつもの穏やかな彼のものだった。

 スイの心は定まっているのだ。

「行く先などではない、旅路こそが、きみの意味になっていくのか」

 大きな風に吹かれようとも獅子は居場所に立つのだろう。隠した重しを振るう罪にも捉われない。リピアはめいっぱいの魔力を練る。眠る同胞に呼び掛ける。

「私は、渡り鳥として生きよう」

 空に飛ばした虚ろは自身だ。見送るのではない、もう飛んでいる。母木を誇りに思い眠る者たちよ、生まれた森の糧となり眠ることが叶わなかった同胞よ。空に舞い上がり、旅を楽しむことを、許したまえ。

 答えて若木が揺れる。雲が渦巻く。対象を取り巻く。水流のごとく、白い手が幾重にも伸び、スイに雪崩れ込んだ。もがいて深みに引きずりこまれる。剣を地に刺し踏みとどまる。押し寄せる白い手は、優しく撫でながら意識を奪っていく。思考が飛ぶ。耐えきれず呻きをもらす。千の手の波が去るころ、膝から崩れながらも、やっと言葉を発す。

「自然から取り出すこれが魔法だと言うのなら、リピア、きみは、荒ぶる神なのか」

「いいや、ひと、さ」


 夢から醒めたシェミネは、木々の間で戦う二人をぼんやりと見ている。勝機がリピアに傾いてひと段落つきそうなところで、

「二人とも、いい加減になさいな」

殺し合いに近い戯れをする二人に向けて、あくびをしながら。それでリピアはピタリと手を止めて、「はーい」とごはんに呼ばれた子供のように返事をした。殺気は収められ、魔法に巻かれていたスイが崩れるのを見る。お茶を淹れて、戻ってきたリピアに差し出す。

「殺し合いをしていたの? 私は夢を見ていたわよ」

「違うよ、子供の喧嘩さ」

「そうなの。スイは助け起こした方がいいのかしら」

「大丈夫だよ。でも、お茶は冷める前に持って行ってあげて」

 ごろんと横になって、リピアは息を整える。落ち着けば、そのまま眠ってしまうだろう。


7.若木の夢

「スイ、私はスイとその剣を信じた。委ねよう」

 リピアが駆けていった。なるほど、今日の手合わせはお終いで、一勝一敗。地面に頬を擦りつけて、倒れたままに。地面に刺した長剣が見える。肌から離して見るなんて、久しぶりじゃないか。惚れ惚れしていると足音が近付いてきて、近くに座った。リピアだろうか、目線だけ向けると、シェミネだった。気恥ずかしくなり、体を起こそうとする。力が入らない。長剣を納めたかった。きみの同胞を斬ったこの剣を。きみは横に座り、突き立ったままの剣を見ていた。


「シェミネ、聞いて」

 久しぶりの、ふたりきり。あれ、また何を話せばいいのか、わからなく。

 一言の後、また口を閉じたスイ。言葉を待ち、倒れていた彼がもぞもぞと動き出すと、シェミネは肩に手を回して起き上がるのを手伝った。

 差し出された茶を含んでから、スイは話し始める。

「俺はきみのことを天使だと思ったんだ」

 すこし緊張を解き、そう微笑んだ。微笑み慣れたスイの、しかし今の笑みは、砂に描いた線のよう。風が撫でれば崩れそうで。

「守らなくては、と思ったんだ。あの場所で」

 シェミネは言葉を待つ。おそらく察している。けれど、割って入らない。

「つまり、きみの故郷を、我々が襲い 焼いた日だ」

 スイはそこで言葉を切った。何度も言おうとして繰り返した言葉なのだろう。悔い、責め、しかし言葉にならずに閉じ込めてきた。

 シェミネがただ頷く。目を閉じ、ゆるやかに。顔を上げると、砂糖を溶かすように言葉を繋ぐ。

「地平から来た青色は、明けの色。朝は非情に追って来るけれど、もう恐ろしくなどないの。良ければ、聞かせてね。私をたすけてくれた昔のあなたのことを。私を守り旅をしてくれている、今のあなたのことを」

 旅路を重ねるごとに共有する言葉が重なる。交わす言葉が増えると、自然と互いの空白を把握して、水溜りを避けて通る。けれど雨ばかり降らせていては、通る道も狭くなる。雨空に切れ目を。

「あなたがいる今は大切な時間。これまでも。いつまでも」

 若木の影が長く伸びた。雲に空の色が混ざり、天に近くも海中のよう。落ちる陽も、間もなく雲の海の雫になる。

「罪からは逃れられない。まるで、今は、夢のようだ」

「ならば私は、あなたの夢を旅しているのね。もう少し旅を続けましょう」

 波が冷たい。手で包んだカップはまだ温かく、一口で流し込む。

「王都へ行きたいの。私の探している、人がいるだろうから」

「王都はもうすぐそこだ」

 スイが立ち上がり、長剣を引き抜く。汚れを払い清める。雲が日暮れとともに去り、刀身は残光を集めた。

「この身は人を裂かずにはいられない。兵として、剣そのものとして」

 納刀せず、シェミネに向き直り、跪く。

「後悔の剣を棄てられないこと、許してほしい。この剣は、夢の中では二度と抜きますまい。しかし今は、あなたを守るための剣として生きたい」

「ありがとう、助けてくれて。旅路を委ねます」


 夜の帳が降りると、夕暮れの若木の夢も陰に沈んだ。夢も見られぬ闇夜が続こうと、いずれは自らの影よりも高く背丈を伸ばすだろう。

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